私立第三新東京中学校

第二百二十三話・二人の関係


「じゃあ、僕はアスカを起こして来るよ。」

ほぼ弁当が完成し終わる頃になると、僕は綾波にそう言った。

「うん、碇君。早く戻ってきて。」

綾波は僕がアスカを起こすということに、やはり抵抗を感じている。しかし、
僕がアスカを起こすというのは、ずっと続いてきた僕の日課であった。一度綾
波が僕の代わりにアスカを起こしに行った時があったが、アスカが寝ぼけて起
こしに来た綾波にキスをしてしまったことがあって、アスカは二度と自分を起
こしに来るなと綾波に強く言ったのだった。
はじめはアスカの言葉を快く思っていなかった綾波も、少しずつアスカと打ち
解けるようになって、アスカを起こさせるという役目を僕に任せることを了承
したのだ。無論綾波もキスが原因でアスカにそう言われたのであるから、僕が
起こしに行って同じようにアスカにキスされるということを考えないはずがな
い。しかし、この短い朝の時間を自分の為にさりげなく提供してくれたアスカ
の心に気付いた綾波は、アスカと同じように自分もわずかな妥協を示したのだ。
もちろん二人に嫉妬心がない訳ではなく、僕がアスカを起こしに行く時には必
ず綾波は少しつらそうな表情をして早く帰って来いと言うし、アスカはアスカ
で僕と綾波が料理をしているところをテーブルに着いて待っているのはやはり
寂しく感じるのであろう。
しかし、アスカは次第に料理に手を出さなくなっていた。もはや料理に関して
は綾波に任せると言わんばかりに、僕と綾波が二人で食事の支度をしていても、
アスカは堂々と座っていた。まあ、綾波がよからぬことを企まないようにしっ
かりと目を光らせてはいるのだが、以前ほどの不安は感じなくなったのかもし
れない。
そういう意味では、アスカはかなり落ち着いていた。そしてそんなアスカの落
ち着きが、綾波の心にも安定をもたらした。以前の綾波なら、絶対に僕一人で
アスカの眠っている部屋に行かせることなど了承しなかっただろう。それは、
アスカが嫉妬心から綾波に余計な邪魔をしなくなったからだと僕は思う。だか
ら、綾波も純粋に自分の時間というものを持てるようになったし、そのおかげ
でアスカも自分の時間を持つことが出来るようになった。
こうしてアスカの安心感が、僕達三人にかなりの調和をもたらしていたのであ
った。そしてギスギスした関係に倦んでいた僕は、これによって毎朝癒されて
いた。一日に僕を悩ませる問題の起こらない日など皆無に等しいから、自分の
ベッドに横になる前まで僕はかなりの精神的肉体的疲労を感じているのが常で
あったが、一晩寝て心地よい朝のひとときを迎える頃には、その日の辛苦に耐
えられるくらい僕の心は落ち着くのであった。

そして僕は、キッチンに綾波一人を残してアスカの部屋へと向かった。
僕がアスカを起こす間、綾波は作った弁当のおかずを弁当箱に詰める。最近は
ずっとこういう流れになっていたので、僕は結構弁当箱を開ける瞬間が楽しみ
になっていた。無論おかずにどういうものがあるのかということは、自分が作
るのを手がけていたので全部把握しているのだが、多くの種類を作る為、全て
が全て僕の弁当箱に納まる訳ではない。だから、綾波が僕の為にどういう物を
選んでくれたかということが面白かったりする訳だ。そしてまた、僕がそうい
う話を綾波にしたところ、綾波は予想以上に喜んでしまって、僕のいない間に
僕の全く知らないちょっとした一品を作っては、僕の驚く顔、喜ぶ顔を楽しん
でいた。そういう楽しみ方というのは、綾波にしか出来ないことである為、ア
スカは少し悔しい思いをしていたはずだ。しかし、アスカはそんな気持ちは表
にも出さずに、僕と同じように弁当箱の中身を楽しむ体を装っていた。無論、
綾波が自分にどういう物を選んでくれたか、興味がない訳ではなかったが、三
人の弁当箱の中身を比較してみると、確実に僕と綾波のものに共通性がありす
ぎることを知った。それは綾波が肉ものがほとんど駄目だというのに対し、ア
スカはどちらかと言えば肉系統を好むというのが表向きの原因であったが、ま
さに表向きのものであって、真実はそうではないということは三人全員が知っ
ていることであった・・・・

コンコン・・・・

僕はアスカの部屋のドアの前に立つと、軽くノックをした。
これから起こそうというのだが、それはまるで中にいるアスカを起こさないよ
うに気を配っているかのような、そんな慎重なノックであった。別に大きくノ
ックをしても別状はないのであろうが、きっとそんな不躾なノックなどで起こ
されれば、アスカはきっとものすごく機嫌が悪くなるであろうということくら
い、僕にだってわかっていたのだ。別にアスカの口からそういう言葉を聞いた
訳ではなかったが、わざわざそれを口にさせてたしかめてみるほど、僕は分別
をわきまえない愚か者ではなかった。

コンコン・・・・

もう一度ノック。無論、中から返事は返って来ない。このノックというのは、
部屋の中に入ってもよいかという了解を求めるものではなく、アスカが既に起
きていて着替え中とかそういうのではないのかということを確認する為のもの
であった。
そして僕はアスカがまだ眠りの中にあるということを確認すると、そっと音を
立てぬように部屋のドアを開け、中に身体を滑り込ませた。

「アスカ、アスカ、起きて・・・・」

僕はやさしくアスカの身体を揺さぶって起こそうとする。
空調が効いているとはいうものの、分厚い布団を掛けるという重装備で寝てい
る訳ではない。だからアスカは軽いタオルケット一枚を掛け、あとはお気に入
りのだぶだぶパジャマという姿だった。アスカの寝返りの為、タオルケットは
もはや用をなさない状態になっていたが、大きいパジャマがアスカの肌を覆う
に十分で、僕が視線に困るというようなことはあまりなかった。

「んん・・・・」

アスカの寝起きは悪い。
いや、これがもしかしたら普通なのかもしれないが、僕が目覚し時計無しで起
きられるような人間なので、なかなか起きられないという人の気持ちというの
はよくわからないというのが事実だ。そして綾波も、僕が起こしに行ったため
しがない。僕は早起きで通っているのだが、まず綾波は僕より前にキッチンに
いる。綾波も僕に起こされたいという気持ちくらいあるのだろうが、それより
も綾波にとっては僕と一緒に料理をする、僕の料理の手伝いをするということ
の方が、崇高な役目に感じるのかもしれない。ともかくそういう事なので、こ
の家で寝起きが悪いのはアスカだけだったのだ。
いや、アスカ以外にも僕の父さんという存在がいたが、父さんの場合、なかな
かいつ寝ていつ起きるのかよくわからないところがある。だから実際昨日も父
さんがいつ帰ってきたのか、いや、ちゃんとうちに帰ってきたかどうかという
ことすら把握していない。そして朝というのも、父さんが勝手に起き出して来
るまで顔は合わさないし、顔を出さずともわざわざ僕は起こしに行ったりはし
ない。そういう意味、まだまだ僕達と父さんの間には大きい隔たりがあった。
それは父さん個人の生活を尊重するという意図があるのだが、それでもやはり
打ち解けていないというのが実際の理由であろう。が、それでも以前の僕と父
さんの関係に比べたら随分マシになった方だと言わざるをえない。少なくとも
今の父さんは、週に何度かは僕達と一緒に朝食や夕食を摂ってくれるのだから・・・

「アスカ、ほら起きて・・・・」

あくまで最初はソフトだ。まあ、今までの経験上こんなことくらいでアスカが
起きてくれるとは、僕も微塵も思っていないのであるが・・・・
しかし、だからと言ってアスカをひっぱたいて起こす訳にも行かない。そうい
う意味、アスカを起こすという作業はなかなか難しい仕事であった。が、僕は
それを半ば楽しみつつ、毎朝手を変え品を変え、さまざまな方法でアスカを起
こしていたのだ。そして今日は・・・・

「アスカ・・・・」

僕はいかにもやさしい声でアスカの耳元にささやきつつ、反対に悪魔の手はア
スカの髪の毛のひと房を手に取っていた。そしてその先っぽでアスカの鼻先を
こちょこちょとやる。

「ん・・・んふっ・・・・」

さすがのアスカも、これには敵わない。まあ、あまりやられてうれしい方法で
はないので、毎日する訳にも行かないが・・・・たまにはいいだろう。アスカ
にはいい薬だ。
僕はそう思いつつ、アスカの鼻先をくすぐり続けた。

「んっ・・・ちょ、ちょっと・・・・」
「起きた?」
「や、やめなさ・・・い・・・って言ったでしょ?」
「起きたね?」

今朝の僕は意地悪い。しかし、何だかちょっぴりアスカをからかってみたいよ
うな、そんな感じだったのだ。

「お、起きたわよ!!だからやめなさいってば!!」

アスカはそう言うと、僕の手を振り払った。
こうして僕はアスカが起きたのを確認すると、まるで何事もなかったかのよう
にしれっとアスカに挨拶をした。

「おはよう、アスカ。今日もいい天気だよ。」
「な、何がいい天気よ?全く朝っぱらから人をおもちゃにして・・・・」
「ごめんごめん。まあ、こうでもしないとアスカは起きないでしょ?いつもな
がら寝起きは最悪なんだし・・・・」

僕がそう言うと、アスカはまだ眠い目をこすりながらも、口だけはいつもと変
わらぬ調子で僕に言った。

「アタシを馬鹿にしないでよ。そんな酷い起こされ方じゃなくっても、しっか
り起きるわよ。」
「・・・・ほんとに?」
「な、何なのよ、その目は?全く、人を馬鹿にしくさってるわね。昔のシンジ
はそんなんじゃなかったのに・・・・」

アスカはそう言ったのだが、僕はそんなアスカの言葉にも平然と応える。

「じゃあきっと、アスカに影響を受けたんだろうね。アスカなら今の僕みたい
なこと、してもおかしくないから・・・・」
「する訳ないでしょ!!」
「・・・・そう?」
「当たり前よ!!」

アスカはすぐに激昂する。が、それはいつものことであったので、僕はあまり
深くは考えなかった。むしろ僕はそれによりアスカの眠気が吹き飛ぶのではな
いかと、そちらの効果を期待していた。

「そう・・・じゃあ、アスカはどうやって人を起こすの?」
「もちろん・・・・」

アスカはそう言いかけて僕に向かってにやりと笑う。僕はそれだけで、はっき
りとアスカの答えがわかった。

「キスよ、キス。白雪姫でもなんでも、人を起こすにはキスをするって相場が
決まってんのよ。」

そして僕は、アスカの言葉を予期していたので、うろたえることもなく意地悪
くアスカに言った。

「じゃあ、アスカに任せよっかな?」
「・・・何をよ?」
「父さんだよ。きっとまだ寝てるだろうし・・・・」
「・・・・」

アスカはそう言う僕の顔をじろりと見る。
僕はちょっとやりすぎたかと思ってどきっとしたが、アスカはやられてそのま
ま引き下がるような女の子ではなかったのだ。

「いいわよ。」
「へっ?」
「だから、アタシがおじさまを起こしに行ってもいいって言ってんのよ。」
「い、いいって・・・?」
「アタシに二言はないわ。白雪姫みたいに、アタシのキスでおじさまを起こし
てあげる。」

アスカはそう言うと、僕の顔を見てにやりと笑った。僕はきっとこれは我慢比
べなんだろうと思って、アスカに負けじと心の動揺を隠して平然とアスカに言
う。

「じゃあ、そういうことならアスカにお願いするよ。いいね?」
「いいわよ。でも、アンタも着いて来んのよ。」
「ど、どうして?」
「アタシがキスするには、アンタが必要でしょう?」
「へ?」
「アタシはキスでおじさまを起こすとは言ったけど、アタシがおじさまにキス
するなんてひとことも言ってないわ。アタシがおじさまにするんじゃなくって、
おじさまの寝てるところでアタシとアンタの熱烈なキスをすれば・・・・」

・・・・さすがアスカだ。こうまで言われては、完全に僕の負けだと言わざる
をえない。

「あ、ま、参ったよ、アスカ。ごめん、もうからかおうなんて考えないから・・・」
「何言ってんのよ?さぁ、行くわよ、おじさまを起こしに・・・・」

アスカはそう言うと、立ち上がって僕の手首をぐいと引っ張る。

「だから本当にごめん!!今のはほんの冗談だから、ね?」

僕は自分の敗北を認めて、アスカに許しを請うた。
これで完全に立場は逆転したのだが、アスカはそれでも僕を勘弁してくれよう
とはしない。

「今更ふざけたこと言わないでよね。アタシは本気なんだから、逃げは許され
ないわよ。」
「ううう・・・勘弁してよぉ、アスカぁ・・・・」
「だめ。」
「お願いだからさぁ・・・」
「だめったらだめ。」
「た、頼むからさぁ・・・・」

僕はほとんど泣き顔で哀願した。
冗談抜きで、父さんだけは勘弁して欲しかったのだ。そしてそんなことくらい
はアスカも重々承知している。だからアスカは僕がこうなるのを計算して、そ
れを待ってから僕に向かって提案した。

「・・・じゃあ、アタシが見逃してあげる代償として、アンタはアタシに何を
提供出来る?」
「な、何って・・・・」
「取り敢えず言ってみなさいよ。アタシがそれで勘弁してあげるかもしれない
んだし・・・」

する訳がない。
僕だってアスカのやり口くらいよくわかっている。そんな僕が言ったことくら
いで動かされるようなアスカではないのだ。

「うーん・・・・今日の弁当の卵焼き全部。」
「バカ、そんなものはアタシが欲しいと思ったら全部手に入るものじゃないの
よ。そんなの意味がないわよ。」
「く・・・・」
「貴重な物がいいわねぇ・・・・珍しくて・・・・」
「な、何がいいんだよ・・・?」
「もう、自分で考えなさいよ。全く情けないんだから・・・・」

僕の口からどうしても言わせたいアスカ。全く以って意地悪い。こんなアスカ
にかかっては僕などおもちゃ同然にしかすぎないのだ。

「・・・・キス・・・だろ?」
「まあ・・・アンタがそう言うのなら、それでもいいわよ。」
「・・・・アスカの意地悪。」
「ええ、アタシは意地悪よ。アンタだってよく解ってるくせに・・・・」
「キスは昨日しただろ?それで十分じゃないか。」
「昨日は昨日、今日は今日。名言だと思わない?」

僕がアスカに諦めてもらおうと思ってそう言うと、アスカはしれっとこう言っ
て僕に返してきた。

「くっ・・・・」
「あ、あと、朝と夜も別物よね。シンジもそう思うでしょ?」
「・・・・そうだね。」
「愛しあう二人にキスの回数なんて関係無いのよ。普通は朝から晩まで、数え
切れないほどキスを重ねるもんなんだから・・・」
「・・・そうなの?」

僕はアスカのこじつけに半ば呆れ果てて聞き返した。するとアスカはきっぱり
と答えた。

「そうなのよ、シンジ。」
「そう・・・・」
「キスは嫌い?」
「・・・・嫌い・・・っていう訳でもないと思うけど、好きって言う訳でもな
いと思う・・・・」
「じゃあ、好きになりたいと思う?」
「うん・・・キスは愛の形だからね・・・・」
「・・・・毎日してれば・・・・好きになるもんなのかな・・・?」
「・・・わからないよ、僕には。」
「まあ、そうよね。そんなのわかる方がおかしいもの・・・・」
「うん・・・・」
「でも、わからないから人は勉強するのよ。わかろう、好きになろうと思って・・・」
「・・・・」
「確実じゃないからやってみないって言うのは努力不足なのよ。だからシンジ
もキスが好きになるように・・・・ね?」
「アスカ・・・・」
「アタシとなら・・・大丈夫よね?一応もう何度もしてるんだから・・・・」
「・・・・」
「・・・行くわよ、シンジ・・・・」

これが今日最初のキス。
この僕とアスカのキスは昨日の晩のように純粋なものではなかった。
しかし、それは仕方のないことであった。
なんだかんだいいながら、僕とアスカはまだ何度も心からのキスを重ねられる
ほどの関係には至っていなかったのであるから・・・・


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