私立第三新東京中学校
第二百二十二話・焦がした卵焼き
「おはよう、綾波!!」
元気のいい挨拶。
あまり僕らしくもないが、こうして綾波との今日を向かえる事が、今の僕には
必要な事だと思われた。
「・・・・おはよう、碇君・・・」
それに反して綾波は元気がない。
やはり昨日のあれを引きずっているのだろう。
僕はそう思うと、綾波を元気付けるかのように言った。
「元気がないよ、綾波。折角の一日の始まりなんだから、もう少し明るく行か
なくっちゃ。」
「・・・ごめんなさい、碇君・・・・」
「いや、謝る必要はないって。それよりさっさと朝食の支度をしちゃおう。」
「うん・・・・」
僕は綾波に言いたい事が山ほどあったが、それを口にする事はなかった。
アスカが言うように、いろいろ言うとそれだけでまたこじれてしまう。それよ
りも、いつも通りの生活をして楽しく過ごした方がいいのだ。こういうのはま
た逃げだと捉えられるかもしれないが、言うと余計悪くなる事を言っても意味
がない。もう少し理性的に考えなければならないのだ。
そして僕はキッチンに据え置きの自分のエプロンを手早く身につける。綾波も
僕に倣ってエプロンを身につけた。
しかし・・・・
「あ・・・」
僕の上げた情けない声に、綾波が不思議に思って訊ねた。
「どうしたの、碇君?」
「いやさぁ・・・アスカのおでんが大量に残ってたの、思い出しちゃって・・・」
「あ・・・」
「あれを片付けちゃわない事には、何か作るって言う訳にもいかないだろ?」
「そうね・・・・どうする、碇君?」
「まあ、取り敢えず、朝食はおでんだね。」
「そう・・・・」
僕の言葉に、綾波は少し残念そうな顔を見せる。
綾波にとって、僕と一緒に朝食を作るこのひとときが、一日の中で一番のもの
なのだろう。僕と綾波は朝食と夕食を一緒に作っているものの、夕食を作る時
となると、必ずアスカも一緒にいるので、綾波としては僕と二人きりの時間が
過ごせない。それに対して朝の場合は、アスカが起きるのが遅い為、大抵は僕
と綾波の二人で料理全般を行なっているのだ。
僕にはそのことがよく解っていたので、綾波を慰めるように言う。
「だけどほら、おでんは汁気が多いから、弁当にはちょっと向かないね。だか
ら弁当はやっぱり別に用意しないと・・・・」
「うん!!」
こうして僕と綾波の弁当作りが始まった。
おでんに火を入れ直すと同時に、フライパンや鍋にも火をかける。ここに引っ
越してきて一番嬉しかった事は、やはりキッチンが格段に広くなった事だ。こ
うしていくつものコンロを使用しても、まだあと一つ余裕がある。さすがにこ
れを全部いっぺんに使用する事はなかったが、それでも余裕があるという事は
いいことだ。
「綾波には煮物を頼もうかな?綾波の煮物、おいしいから。」
「うん、碇君。」
「僕は卵焼きとそれから・・・・」
「コロッケ。クリームの・・・」
「ああ、わかったよ、綾波。」
綾波はまだ肉が食べられない為、弁当のおかずには気を遣う。から揚げもまだ
駄目だし、ハンバーグなんてもってのほかだ。だから綾波はいつも自分の為に
和食のおかずを作っている。無論、それは僕とアスカの弁当箱の中にも納まる
のだが、僕が自分とアスカの為に作る少し肉らしいものについては、綾波の弁
当箱の中には入らなかった。だから、僕はそんな綾波の弁当を寂しく思ってい
たのだが、綾波にお気に入りのおかずがあった。それはコロッケ類だった。僕
は結構休みの日に気が向いたら大量に作っておいて冷凍しておく。そしてその
手作りコロッケを毎朝のお弁当に入れるのだ。結構僕のコロッケはみんなに評
判がよく、そうなると結構調子に乗りやすい僕は、コロッケに凝ったりしたも
のだ。その結果、うちの冷凍室にはさまざまな種類のコロッケが入っており、
弁当へのご指名を心待ちにしている。
そして中でも綾波のお気に入りなのが、クリームコロッケだ。僕は結構こって
りとしたクリームコロッケよりも、普通のシンプルなコロッケの方が綾波の嗜
好に合っているのではと思っていたが、どうやら綾波は油っこいのが駄目なの
ではなく、肉特有の臭いが駄目らしい。
「碇君のクリームコロッケ、おいしいから・・・・」
綾波は先程僕が綾波の煮物を誉めたので、そのお返しのつもりなのか、そっと
僕にそう言った。
「うん。あれは結構手間がかかるしね。おいしく作ろうと思うと、冷やしたり
しなくちゃいけないから・・・」
「碇君、手を抜かないから・・・・」
「まあ、料理は一番好きなものだからね、僕にとって。だからそういうので手
を抜きたくないんだ。」
「うん・・・」
「それに、おいしいものを作って、みんなの喜んでくれる顔が見たいし・・・」
「うん・・・・」
綾波はそう言って微笑む。
自分も僕の料理で喜んでいるという事を言いたいのだろう。僕はそう思うと、
綾波に微笑みかえした。そしてやさしく訊ねる。
「綾波は料理、好き?」
「うん・・・」
「どうして?」
「・・・・私のする事で、みんなに喜んでもらえる事って、これくらいしか思
い付かないから・・・・」
「そう・・・僕とおんなじだね。僕にも料理しか、出来る事ないから・・・・
それに、一番自信があることだし・・・・」
「・・・・」
「・・・つくろっか、綾波?」
「うん、碇君。」
そしてまた、僕達は黙って料理をはじめた。
二人とも作るものは異なれど、お互いの一挙手一投足をつかんでいた。まあ、
そうでなくては一つのキッチンで料理など出来ない。そういう意味では、この
長い間の共同作業で、綾波と僕の息はぴったり合うようになっていた。元々綾
波とはかなり息が合っていたものの、ここ最近ではお互いの手をぶつけるとい
うことさえなくなっていた。
僕は未だに綾波の心もアスカの心もつかめずにいたが、心の要らない事に関し
ては、かなりしっかりとしていた。アスカと一緒に料理をする場合、アスカの
動機というのが僕と一緒にしたいということであるのに対して、綾波と一緒に
料理をする時は、もっと現実的だ。綾波もちゃんと料理をしなければならない
という事が解っている為、あまりふざけてきたりはしない。しっかりと自分の
仕事をこなしてくれる。そういう意味では、綾波は本当によきパートナーだっ
た。そして今では、綾波なしで料理をする事など、半ば考えられなくなってい
たのだ。
僕は今までずっと独りで料理をしてきた。そしてそれは生活するために必要な
事であった。だからそれほど楽しみは感じていなかった。しかし、今は楽しん
で料理をしている。その訳は・・・・今まであまり考えた事もなかったが、一
緒に料理をしてくれる人間、綾波がいたからなのかもしれない。一人で料理を
作るなど、味気ないものだから・・・・
僕はそう思うと、隣の綾波の横顔を見つめた。
「・・・・」
綾波は料理に真剣で、僕が見ている事など全く気がつかない。煮物なんだから、
そう年がら年中鍋を覗き込んでいる必要もないだろうに、綾波は鍋の中身から
目をそらそうとはしない。僕はそういう綾波の真面目なところに好感を持って
いた。僕は料理好きだし、かなり手慣れているのでどこでなら手を抜いてもよ
いのかを知っている。しかし、知ってはいてもよっぽどの事がない限り手を抜
きたくはなかった。それは僕が大事にしているものをちゃんとした形で守りた
かったからだ。そして綾波が僕と同じように手を抜かずに真剣にやっている姿
は、僕にとっては心地よい光景だった。綾波は僕からそれを学んだのかもしれ
ないが、僕は完全にそうではない事を知っていた。綾波自身の持つ真面目さが、
綾波にそうさせているのだ。
しかし、いくら真剣になっているとは言え、綾波はそんなに鈍い女の子ではな
い。少しして綾波は僕に見られている事に気がついた。が、綾波はそれに気付
かない振りをしている。綾波が何かを言えば、僕も自分の作業に戻らざるをえ
ない。だから綾波は黙って僕の視線を受けていた。ただ、少しだけ頬を赤く染
めながら・・・
「碇君!!」
唐突に綾波が声を上げる。
さっきまで黙っていたのに・・・・
しかし、綾波の声の中にただならぬものを感じた僕は、慌てて意識を周りに戻
そうとした。が、僕が目で今の状態に気付くよりも先に、綾波が声で教えてく
れた。
「卵焼き、焦げてる!!」
「あっ!!」
迂闊だった。
卵焼きは砂糖が入っているから焦げやすいというのに、綾波に気を取られてい
て、火加減をおろそかにしてしまったのだ。料理は真剣に、と考えて綾波の様
子を快く見ていたというのに、まさか自分が料理にいい加減になっていたとは・・・
とにかく僕は慌ててガスの火を止めると、菜箸を手にとってひっくり返そうと
した。しかし、それよりも先に綾波は自分の手に持っていた菜箸をフライパン
に伸ばす。
「ふぅ・・・いや、ありがとう、綾波。助かったよ。」
綾波のおかげで、卵焼きは何とか酷いものにはならずにすんだ。多少の焦げ目
はあるものの、食べられないような代物ではないようだ。これくらいの卵焼き
は、学校で他のみんなの弁当箱を覗けばいくらでもありそうなので、取り敢え
ず作り直さない事に決めた。
しかし、料理には完全を目指す僕としては、こういう卵焼きを作ってしまった
という事はかなり恥ずかしかった。特にあの洞木さんに見られて、「碇君、今
日はどうしたの?」なんて言われた日には・・・・
僕はそう思うと、済まなそうに綾波を見た。
理由はよく解らないが、一生懸命料理を作っていた綾波に対して、申し訳ない
ような気がしたのだ。しかし、綾波は何故か複雑な表情をしている。僕はその
原因がよく解らなかったが、次の綾波の言葉がそれを僕に教える糸口となって
くれた。
「ごめんなさい、碇君・・・・」
「えっ?どうして綾波が謝るの?卵焼きを焦がしちゃったのは、僕だって言う
のに・・・・」
「・・・でも、その原因は私にあるから・・・・」
それで僕は納得出来た。
卵焼きを焦がしたのは僕がいい加減に料理をしていたからだが、そのいい加減
になった原因は、綾波の事を見ていたからだった。
「し、しかし・・・・」
「私、碇君が私の事見てるの知ってた・・・」
「うん・・・」
「碇君が料理よりも私に気を取られていたのを知ってた・・・・」
「うん・・・」
「私はそれを碇君に注意すべきだったのに、碇君にもっと見つめていて欲しく
て、それを言い出せなかったの。いや、言い出さなかったの。」
「綾波・・・・綾波は悪くないよ。」
「ううん、私の自分勝手な気持ちがこういう結果に結びついたの。こういうの、
駄目だってずっと前から言われ続けていたのに・・・・」
綾波が自分勝手にするのが駄目だということは、アスカに散々言われ続けてき
た事だ。それによって綾波も少しずつ変わってきたような気さえしていたのだ
が、そう簡単に人は変われるものではないということを、僕は重々承知してい
る。しかし、それよりも綾波が変わろうと努力していたということに、僕はよ
り興味を覚えた。が、実際僕は言葉では別の事を口にしていた。
「・・・あんまり自分を責めるのはよくないよ、綾波。」
「でも・・・・」
「確かに綾波の言いたい事もわかるけど、一番悪いのはこの僕なんだからさ・・・・」
「・・・・・」
綾波は僕の言葉を聞くと、黙ってままちょっぴり悲しそうな目で僕を見つめた。
僕はどうして綾波がそんな目をしたのかがわからずに、ひとこと訊ねてみた。
「どうしたの、綾波?」
「・・・・悪いなんて、言いたくない。」
「どういうこと?」
「碇君が私を見つめる事、悪い事だなんて思いたくないから・・・たとえそれ
が、卵焼きを焦がす事になっても・・・・」
「綾波・・・・」
僕はもう、これ以上この事については何も言いだせなかった。
確かに綾波にとってはそうだろう。だから綾波も、僕が悪いのではなく自分が
悪いという事にしたかったのだ。そして僕はそういう綾波の気持ちを無視する
事は出来なかった。
「・・・・きっとおいしいよ、ちょっとくらい焦げてても・・・・」
「うん・・・・」
こうして僕と綾波は、この問題に終止符を打ったのだった・・・・
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