私立第三新東京中学校

第二百二十話・恋人の距離


「くっ・・・・」

歯噛みする。
拳をきつく握り締める。
お風呂に入っても、全然くつろげなかった。
頭の中はぐるぐると回り、僕を混乱させていた。
もう、思考にもならない。
僕には僕の考え方というものがあって、大抵のことにはそれに照らし合わせて
うまく行動することが出来た。無論、それがいい結果に結びつかないことも多
かったが、それでも自分の為すことにこれほど悩むことはなかった。

もしかしたら、僕にはどうしようもないことなのかもしれない・・・・

僕の頭に、そんな考えがよぎる。
しかし、頑張っても仕方がないことなどがあるということ自体、僕にとっては
許すべからざることであった。頑張ればなんでも出来る、きっと幸せになれる
と思っているからこそ、僕は今まで頑張って来れたのだ。しかし、それが無意
味なものにもなるとわかった時、僕の心は空虚になるのだ。

でも・・・今度こそ駄目かもしれない。

僕は心を込めて、綾波を人間らしく、普通の女の子らしくさせるよう、頑張っ
てきたつもりだ。しかし、それが綾波を僕の人形に仕立てることに過ぎなかっ
たなんて・・・・そんなこと、考えたくもなかった。僕はそんなつもりは毛頭
なかったのだから・・・・
しかし、アスカに言われてみると、それが正しいように思える。まさに今の綾
波は、僕の為だけに存在しているようなものなのだから・・・・

僕の寵を受ける為に視線を送り、まめまめしく働く。僕はそんな綾波を見て悪
い気はしなかった。が、それは当然だ。綾波は僕の好意を受ける為に、全てを
懸けているのだから・・・・
それなのに僕はその意味もろくすっぽ考えず、ただ単にかわいいと思っていた
なんて・・・我ながら愚かすぎる。僕も自分が愚かな男だということは十分承
知していたつもりだが、まさかここまでだったとは・・・・

僕はこうして自己嫌悪に陥りつつも、何の解決方法も見出せぬまま、自分の部
屋のただ一つの窓に映る自分の顔を見つめていた。お風呂から上がった後、そ
のまま自分の部屋に戻って適当に服を着た。そして半ば濡れた髪を乾かそうと
もせず、眉間に皺を寄せながら、しばしこうしていたのだ。

「くそっ・・・・」

抑え切れぬ苛立ちを、ぶつける場所もなく、僕はそう吐き捨てた。が、そんな
事くらいでは僕の心は落ち着かない。そして、こんな気持ちのままではろくに
眠れそうもない。だから、寝て忘れるということも出来ないのだ。このまま外
に飛び出して、疲れ果てるまで走ってくれば眠れるかもしれなかったが、そう
いう気分でもなかった。つまり、もうどうしようもない状態だったのだ・・・

「・・・・」

助けを求める言葉。
しかし、その名前は声には出なかった。
そして、僕は自分を助けてくれる人が、誰もいないことに気がついた。
アスカも綾波も、僕が助けを求めれば喜んで助けてくれるだろう。しかし、ア
スカや綾波では僕を救えないということくらい、僕にはよくわかっていた。
今の僕に必要なのは大人・・・・そう、加持さんやミサトさん、そして父さん
のような・・・・

しかし、僕には誰もいない。
僕を助けてくれる人はここにはいない。
僕は救いを求めるほど自分は弱い存在ではないのだと無理に言い聞かせて、自
らのうちに閉じ込めていた。沸騰しそうな熱さを感じながら・・・・

が、そんな時、小さな音が聞こえた。

コンコン。

・・・ノックか・・・?

コンコン。

控えめなノック。
こういうのは綾波だろうと思ったが、取り敢えず今は無条件に人を入れる気分
にはならなかった。

「誰?今は独りになりたいんだけど・・・・」

素っ気無い内容だが、僕はそれを出さないように出来るだけやさしい声でそう
言った。それが偽善だと知りつつも、これ以上綾波を傷つけたくはなかったの
だ・・・・

しかし、返ってきた声は、僕の予想を裏切った。

「アタシよ、シンジ。入ってもいい・・・?」
「ア、アスカ?あ、ああ・・・・い、いいけど・・・・」

僕はびっくりして、思わずアスカが入るのを認めてしまった。
まさかアスカが僕の部屋に入る時、こんな正式な手続きをとるとは・・・・
普通ならば、勝手に勢いよく僕の部屋のドアを開けて、無断で入って来ると言
うのに、ノックまでして入るなんて、もしかしたら初めてのことかもしれない。

僕がそう思っていると、アスカはゆっくりとドアを開け、部屋の中に入ってき
た。

「シンジ・・・・」
「ああ、アスカ・・・何か用?そろそろ寝ようかと思ったんだけど・・・・」

嘘だ。
寝れる訳なんてないのに・・・・

そして、アスカもそんな僕の憔悴したような様子に気付いたのか、それとも今
までのやり取りからどうせ僕がどろどろと考え込んでいることだろうとあたり
をつけたのか、僕に向かって小さく謝ってきた。

「さっきはごめん・・・・」
「何が?アスカは何にも悪くないよ・・・・」

僕は平静さを装ってそう言う。
だが、僕は自分でもその発言の不自然さがよくわかった。

「ううん、アタシ、ちょっと言い過ぎた。まるでシンジが悪いみたいに言っち
ゃって・・・シンジだって、一生懸命レイの為にやってきたって言うのにね・・・・」

僕はそんなアスカの言葉を聞くと、自嘲気味に応えた。

「一生懸命やればいいってもんじゃないよ。要は結果なんだから・・・・」
「そんなことない。頑張るって、いいことだとアタシは思うよ。」
「僕だってそうさ。頑張るのはいいことだ。それを否定するつもりはないよ。
ただ・・・頑張ってもどうしようもないことがあるってことに、ようやく気が
ついただけさ・・・」
「シンジ・・・・」

アスカもそろそろ僕に愛想を尽かしたかもしれない。
今の僕はアスカにふさわしい僕じゃない。
希望を失い、強さをなくした僕は、もはや何の魅力も備わっていなかった。

しかし、僕はそう思うことが何だか心地よかった。
アスカに慕われ、綾波に想われ、他のみんなも僕にやさしくしてくれる。
そして僕以上のものを僕の中に見ている。それは僕にとって、かなりのプレッ
シャーであった。僕はそんなに立派な男ではないと言うのに・・・・

僕はそう思うと、歪んだ笑みを漏らした。
自分を破壊することに楽しみを覚えた者の様に・・・・

すると・・・

ビシッ!!

・・・・乾いた心地よい音だった。
そして痛みが後から訪れ、僕はようやく気付いた。
アスカに叩かれたことに・・・・

「諦めるんじゃないわよ!!アンタはまだ、やり尽くしてないじゃないの!!」

アスカの表情は、さっきとは打って変わって、燃えるようなものになっていた。

「自己嫌悪に陥るのもいいわよ!!でも、アタシ達は迷惑なのよ!!そんなア
ンタを見てるのはね!!」
「アスカ・・・・」
「アンタ、レイをあのまんまで放って置く気!?一度手を出しておきながら、
中途半端で放棄するつもり!?そんなの許されないわよ!!」
「じゃ、じゃあどうすればいいって言うんだよ!?僕にどうしろって!?もう
僕がなにをやっても、無意味なんじゃないのか!?」

僕は叫んだ。
そして今までの鬱屈を、アスカにぶつけた。
しかし、そんな僕を見たアスカは、まだ意気は衰えていないものの、軽く微笑
みを浮かべながらこう言った。

「そうよ、叫びなさいよ!!そして道を見つけ出すのよ!!」
「・・・・」
「アンタだって十分わかってるはず。レイがこのままじゃいけないってことを!!
でも、アンタはいくら考えてもいい方法が見付からないから、独りで情けなく
なってたんじゃない!?違う!?」
「・・・いや、違わない・・・・」
「でしょ!?アタシはそう思ったから、ここに来たのよ。アンタの考える手助
けになればいいと思って・・・・」
「アスカ・・・・」

するとアスカは、急にやさしい声で僕にこう言った。

「アンタは・・・アンタは独りじゃないんだからね。アタシにアンタがいるよ
うに、アンタにもアタシがついてるんだから・・・・」
「・・・・」
「全くアンタはいくら言っても駄目よね。人の力を借りるって言う気も起こら
ないんだから。もう少し寄りかかってみたらどうなの?そうすれば、いくらか
楽になるって言うのに・・・・」
「ごめん・・・・」
「・・・謝らなくてもいいって。アタシはアンタが、碇シンジがそういう奴な
んだって、よくわかってるんだから・・・・」

アスカはそう言うと、おもむろにベッドの上に放り投げてあったタオルを手に
取ると、いきなり僕の頭を拭き始めた。

「うわっ!!」
「ほら、髪の毛濡らしたまんまで・・・・風邪ひくわよ。」

アスカはそのまま僕の頭をごしごしとやる。
僕は急のことにびっくりしたものの、こうされることによって、何だか少しだ
け心が和んだような気がした。

「全く、世話が焼けるんだから・・・・」
「・・・・」

僕はそう言うアスカに、何も言葉を返さなかった。
ただじっと、自分の頭を委ねるだけだった。

そして少ししてアスカは僕の頭を解放した。
ちゃんと乾かしていなかったとは言え、びしょぬれだった訳でもない。いわゆ
る半乾きという奴で、わざわざアスカが拭くこともなかった。だか、これをす
ることによって、自分の殻に閉じこもっていた僕の心が、アスカに向かって開
かれることとなった。アスカはこういうのに、天性の物を持っていたのだ・・・

アスカはタオルを椅子の背もたれの上に引っかけると、ベッドの上に腰掛けた。
そして隣を手でぱたぱたと叩いて僕に呼びかける。

「ほら、ここ、座りなさいよ・・・・」

ここは僕の部屋で、そこは僕のベッドの上だと言うのに、何だかまるでアスカ
がこの部屋の主みたいだ。僕はクスっと笑うと、アスカに応えた。

「はいはい、わかりましたよ。」

そしてアスカの隣に腰掛ける。
僕とアスカはくっつくくらいに接近していると言うのに、僕はほとんどそれを
意識しなかった。アスカも僕と同じで、至って普通だ。もしかしたら、もう既
に僕達にとってはこれが普通の距離なのかもしれない。こうしてお互いの息が
かかるくらいの距離・・・・こういうのを、恋人の距離と言うのだろう。

僕はそう思うと、少しだけ意識してしまって顔を赤らめた。
すると、僕のことをずっと観察していたアスカがそのことに気がついて、僕を
たしなめた。

「バカっ!!なに顔赤くしてんのよ!!不謹慎ね!!」

アスカはそう言いながらも、自分も顔を赤くしていた。
ずっと綾波綾波で来ていたから、こういう二人の時と言うのはなかなか持てな
かったのだ。僕はそのことに気がつくと、そっとアスカにつぶやいた。

「忙しかったね、アスカ・・・・」
「そうね・・・・」
「ちょっとだけ僕も、疲れてたのかもしれない・・・・」
「アタシも・・・・今日はいろんなこと、あったからね・・・・」
「うん・・・・」

少しだけしんみりした会話が続いた後、アスカは急に大きく伸びをして明るく
こう言った。

「あーっ!!問題は山積み、嫌になるわね!!」
「だね、アスカ。」

僕は軽く笑みをこぼすと、アスカの言葉に賛同した。するとアスカも続けて言
う。

「全く、問題児が多すぎんのよ!!レイに渚に、それからシンジ!!」
「ど、どうして僕が最後に来るんだよ?何だか一番の悪党みたいじゃないか・・・」
「あら、違う?問題の焦点はみんなアンタじゃない。」
「そ、それは・・・・」
「今更否定したって遅いわよ。全部アンタの責任なんだから・・・・」
「そ、そんなぁ・・・」
「まあ、全部アンタの責任だけど、それを全てアンタ一人に背負わせるつもり
はないわ。アタシも出来る限り、アンタの背中の荷物を肩代わりしてあげるか
ら・・・・」
「ア、アスカ・・・・」

アスカは明るく振る舞いながらも、その瞳は真剣そのものだった。僕はそんな
アスカの気持ちがわかっていたから、うれしくて涙が出そうになってしまった。
すると、僕の顔を見たアスカが言う。

「ほら、しけた顔するんじゃないわよ。そんな顔してると、罰としてキスする
わよ。」
「・・・・」
「ほんとにするわよ。冗談抜きで・・・・」
「・・・いいよ、別に。アスカになら・・・・」

僕はつい、その場の気持ちでこう言ってしまった。
そしてそんな僕の言葉を聞いたアスカは複雑な顔をしながらも、僕に向かって
言った。

「・・・知らないわよ、後悔しても・・・・・」

そして僕とアスカは、二つの唇を重ねた・・・・


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