私立第三新東京中学校

第二百十九話・僕だけの人形


「ふぅ・・・いいお湯だったわよ、シンジ。」

お風呂から上がり、着替え終わったアスカと綾波が、ようやく僕の所に姿を現
した。僕は早々に後片付けを終えてしまったので、かなりの時間をキッチンで
待たされたことになる。別にここでずっと待っている必要などなく、自分の部
屋にでも戻って好きなことでもしていればよかったのだが、なぜか僕はここに
いたのだ。そしてアスカも、僕がここで待っているのがわかっていたのか、キ
ッチンまで綾波を連れてきたのだ。

「あ、アスカ、綾波、おかえり・・・・」

僕はアスカの声に振り向いて言葉を返した。
アスカはTシャツにホットパンツといういでたち、そして綾波はアスカからも
らっただぶだぶのパジャマを身につけている。綾波はまだ濡れた髪をタオルで
丁寧に拭いているアスカの斜め後ろに立って、じっと僕のことを見ている。
この斜め後ろというのが綾波らしいと思う。アスカの前や真横に立ってでしゃ
ばるのでもなく、かといってアスカの真後ろで自分の姿を隠すのでもなく、ち
ゃんと僕の視線に映り、かつ僕を視界に入れられるようにしている。
綾波もその様子からアスカと同じく髪を洗ったのが僕にもわかるが、アスカと
違い短いので、完全に乾いているとは言えないまでも、もうタオルで拭く必要
もないようだ。それに対してアスカの髪は厄介だ。その結構いい加減とも思え
る性格から、適当に自然に乾くがままにしておいてもおかしくもないのだが、
そこは年頃の女の子の常とでも言うべきか、アスカは自分の身なりについては
おかしいほどに気を配っていた。まあ、それは女の子としてみれば普通のこと
であって、自らの格好などどうでもよい男の僕だからやりすぎだと思うのかも
しれない。

「何よ、そのおかえり、って・・・おかしくない?」

アスカは僕の「おかえり」という言葉に違和感を覚えたらしい。
確かにお風呂から出ただけなのに、おかえりと言うのも変だ。しかし、そうア
スカに言われるほどおかしくもないし、どうでもいいことではないかと、僕な
どは思う。

「そ、そうかな・・・?」
「そうよ。単にお風呂から上がって、ここに戻ってきただけだっていうのに・・・・」

アスカはそう言いながら、片手で無造作に僕の隣の椅子を引くと、どっかと腰
を下ろした。きっと意識もしていないのだろうが、アスカはかなり僕に接近し
て座った。お風呂上がりの甘いアスカの洗い髪の匂いが、僕の鼻腔をくすぐる。
それがなんとなく荒んだ僕の心を和ませてくれた。そして僕も、早くお風呂に
入って自分もさっぱりさせたいと思った。

「じゃあ、僕もそろそろお風呂に入ろうかな・・・・」

僕はそう言って立ち上がろうとしたが、アスカがそんな僕を止めた。

「まあ、もうちょっと待ちなさいよ。アタシの髪が乾くまでさ・・・・」
「う、うん・・・別にそう急いでる訳じゃないから、僕は構わないけど・・・・」

どうしてアスカが僕を止めたのか、僕にはよくわからなかった。が、別に逆ら
う理由もないし、折角アスカと綾波が戻ってきて、一人じゃなくなったという
のに、また入れ替わりで僕がお風呂に入って一人になりに行くと言うのも、何
だかちょっぴり寂しい気がしたのだ。
そして僕は浮かしかけた腰をまた下ろすと、完全に会話をする姿勢に入ろうと、
アスカに向き直った。が、アスカはタオルで髪を拭いている状態のまま、口を
開こうとはしない。そしてそうこうしているうちに、いつのまにか綾波がテー
ブルの反対側の椅子に腰掛けていた。

「碇君?」

アスカと話をするつもりだった僕は、急に綾波に呼びかけられたことにびっく
りして、少し素っ頓狂な声で応えてしまった。

「な、何、綾波?」
「あ、ごめんなさい、驚かせちゃったみたいで・・・・」
「い、いやいや、そんな事ないよ。綾波が悪い訳じゃなく、僕が一人で勝手に
驚いただけなんだから。」
「でも・・・・」

すると、僕と綾波のやり取りに業を煮やしたアスカが、大きめの声でびしっと
言った。

「謝りすぎよ、アンタ達二人・・・・ほんと、いい加減にしてもらいたいわ。
大した事じゃないって言うのに・・・・」
「そ、それもそうだね・・・・」

僕はごめんと言いそうになるのを何とかこらえてアスカにそう言った。そして
綾波は、アスカに対しては何も言わず、ただちらりとそちらに視線を送っただ
けだった。何やらお風呂で二人の間に了解が取れていたのか、アスカもそんな
綾波に対して軽くうなずいて見せただけだ。

「・・・・」

僕はそんな二人のやり取りに、何だか微笑ましいものを覚えていた。そして、
なんとなく二人を眺めていたのだが、アスカはすぐにそれに気がついて、僕を
たしなめる声を上げた。

「な、何じろじろ見てんのよ、シンジ!!アタシもレイも、見せもんじゃない
わよ!!」
「あ、い、いや、これはその・・・・」
「何よ、もっとはっきり物事を言いなさいよ!!アタシとレイが目で通じ合っ
てるってのは、何かおかしい訳!?」
「お、おかしくなんてないない!!いいことだと思うよ、アスカも綾波も仲良
くなって・・・・」

僕がそう言うと、急に二人の表情が曇った。そして僕はそれを見て、物事が表
面上に見えるよりもずっと複雑なのだということに気付いた。しかし、そう思
ったのが僕の顔に出てしまったのか、アスカはすぐさま明るい顔を作って僕に
無理に大きな声で言った。

「そ、そうなのよ!!やっぱり一緒にお風呂に入ると、何かこう、通じ合える
ものが芽生えるのかしらね!?」
「アスカ・・・・」
「も、もしかしたら、アンタからレイを取っちゃうかもよ?レイって女のアタ
シから見ても、じゅうぶんかわいいし・・・・」

アスカはそう言って、自分の失言に気付いた。お風呂場でのあの綾波の言葉を
聞いたのだから、かわいいと言うのがまずいことだということくらい、アスカ
にもわかっていたのだ。何も知らない状態だったら構わないことかもしれない。
しかし、アスカは綾波の心の叫びを聞いていた。そしてそのことが頭から離れ
なかった。なのに迂闊な発言をしてしまった自分を、アスカは責めた。そして
自分を責めつつ綾波が気付いたかどうか、その表情を探ろうとした。

「碇君・・・・」
「あ・・・何かな、綾波?」
「・・・私って・・・・私って、かわいいと思う?」
「え・・・?う、うん。かわいいと思うよ。」

僕は綾波の発言の意図がわからぬままに、綾波の問いに答えた。そして綾波は
僕の答えを聞くと、悲しそうな表情をしてひとこと言った。

「そう・・・・」
「あ、な、何か悪いこと言っちゃったかな?」
「ううん、別に・・・・碇君は何も悪くないわ。何も・・・・」

綾波はそう言いながらも、更に表情を曇らせていった。僕は急に落ち込み始め
た綾波に困ってしまい、どうしてなのかその理由を探ろうと、綾波の顔を見つ
める。しかし、綾波の表情からは、何も見出すことは出来なかった。

「綾波・・・・」

僕が途方に暮れてつぶやくと、アスカが僕に小さな声で言った。

「・・・アタシが・・・・アタシが悪いの。」
「えっ?」
「アタシがレイに、かわいいなんて言っちゃったから・・・・」
「・・・・どういうこと?僕にはさっぱりわかんないけど・・・・・」
「アンタにはわかんないわよ。でもアタシは、レイの言葉を聞いちゃったの。
なのに・・・・」
「ど、どういうことさ!?さっぱり話の筋がつかめないけど・・・・」

僕は、いつもなら歯切れよく要点だけを話すアスカが今回だけはやたらともど
かしく言うのに耐え切れなくなって、少しだけ大きな声を出してしまった。す
るとアスカも少し吹っ切れたのか、僕に事情を話してくれた。

「・・・・かわいいってのは、レイには禁句なのよ。」
「・・・どうして?」
「レイは自分のこと、かわいいだけの存在だと思ってるから・・・・」
「・・・・」
「かわいいだけの、かわいがられるだけの人形ってことよ。つまり、いまだに
人形の自分から脱却出来ない訳。アタシはそう、お風呂でレイに聞かされたの
よ。」
「そ、そんな・・・・かわいがられるだけの人形だなんて、そんな事あるわけ
ないじゃないか!!」
「・・・そう?アタシにはレイの言うこと、なんとなくわかるような気がする
けど・・・・」
「どうしてさ!?アスカだって知ってるはずだろ!?綾波が人間らしい心を作
っていって昔の綾波じゃないってことを!!」
「・・・・もちろん知ってるわよ。でもね、シンジ、それはレイがもっと出来
のいい人形に作り替えられたって言うだけの話。人形だって言うことに変わり
はないのよ。そしてアンタは、その人形を愛でる持ち主なの・・・・・」
「で、出来のいい人形って・・・・・」
「アンタにもっともっと愛されるように、アンタが好むように創り出された人
形。アンタが好むように振る舞い、アンタの嫌いなことはなるべくしない。そ
してアンタの機嫌を損ねると、必要以上に謝ってしまう・・・・」
「・・・・」
「レイにとって、アンタは主人なのよ。人形は持ち主に愛される為にしか、存
在していない・・・・」

僕は嫌だった。
アスカの口から、こんな言葉は聞きたくなかった。
綾波がまだ人形だって。そして綾波は僕の為に存在している、僕の為だけの人
形なのだと・・・・
僕は両手で耳を塞ぐと、大きな声で叫んだ。

「どうしてそんな事言うんだよ!!僕は一生懸命に頑張ってきたって言うのに!!
綾波によかれと思って頑張ってきたことなのに!!」

すると、それを聞いたアスカは、僕の手を耳から引き剥がして厳しく言った。

「逃げるんじゃないわよ、シンジ!!アンタのしてきたことは、無意味なこと
でもなんでもないのよ!!だからちゃんとしっかりその耳で、アタシの言葉を
聞きなさい!!」
「・・・・・」

僕は一気に爆発してしぼんでしまったのか、大人しくアスカに言われるがまま
に自分の耳から手を離した。そしてアスカも少し落ち着いて僕に語り掛ける。

「アタシは言ったでしょ、出来のいい人形になったんだって・・・・」
「うん・・・・」
「アンタがその手でレイを変えたのよ。それはアンタの功績なの。誰にも出来
なかったことを、アンタが成し遂げたんだから・・・・」
「・・・・」
「だからアンタはそれを、誇ってもいいくらい。アタシも、そして誰も、アン
タを咎めたりなんてしないわ。もしそんな奴がいたら、このアタシがひっぱた
いてやるんだから。」
「・・・・」
「でも、実際のところ、レイの言うように、レイはまだ出来のいい人形でしか
ないわ。アンタに愛されるようにしか振る舞えないんだから・・・・」
「・・・・じゃあ僕は・・・・僕はどうすればいいの?」

僕はようやくアスカの言葉を受け入れられるゆとりが出てきて、アスカに訊ね
た。しかし、僕の質問に、アスカは答えられずにこう応えた。

「さぁ・・・悪いけど、アタシには答えることが出来ない。アタシにとっても、
難しすぎる問題だから・・・・・」
「そう・・・なんだ・・・・」
「ごめんね、シンジ。力になれなくて・・・・」
「いや・・・いいんだよ。僕が考えなきゃいけないことなんだから・・・・」

僕がそう言うのを聞いたアスカは、静かに僕に言った。

「それ・・・違うんじゃない?」
「えっ?」
「アンタが考えなきゃいけないなんて、そんな事ないわよ。レイに関して全責
任がアンタの肩にかかってる訳じゃないんだし・・・・」
「・・・・」
「それに、レイには自分しかないって言う、そういう考え方が、アンタをレイ
の唯一人のご主人様にしていくのよ。ただでさえアンタはカッコいいんだから、
アンタがそういう考えでいると、レイは他の人間なんて見えなくなっちゃって
もおかしくないんじゃない?」
「・・・・そうかな・・・?」
「そうよ。まあ、アンタにレイに冷たくしろとも言えないから、どうしようも
ないんだけど・・・・」

アスカはそう言って、綾波の方をちらりとみる。そして本人の前で言い過ぎた
と思ったのか、態度を一変させると僕に向かって大きな声で言った。

「ほら、そろそろお風呂に入って来なさいよ!!早くしないと明日起きるのが
辛くなるんだから!!」
「あ、う、うん。わかったよ、アスカ・・・・」

こうして僕は、アスカに追い立てられるようにキッチンを後にした。
しかし・・・・アスカの言った言葉は、僕の胸に重くのしかかっていた。まさ
か綾波が、僕の為だけの人形だったなんて・・・・
もしかすると、昔の父さんだけを見ていた綾波も、父さんの前では今の綾波み
たいに振る舞っていたのかもしれない。僕はそう思うと、自分が嫌になった。
自分で意識はしていなくとも、父さんと同じ道を歩もうとしていたという自分
に・・・・

しかし、僕にはどうしようもなかった。
これ以上何をしてよいのかわからなかった。
綾波にやさしくすることは簡単だ。しかし、それでは綾波にとっていいことと
は言えない。かといって綾波に冷たく接することも出来ないし、そのことに意
味があるとも思えない。まさに八方塞がりだった。
そして僕は、頭を切り替えてアスカのことを思う。アスカは僕と綾波の間に板
挟みとなって、頭を悩ませている。アスカにとっては綾波が今のままであろう
と大した問題ではないというのに・・・・アスカももう、綾波のことを完全に
自分の家族、大事な人として受け入れてくれたのだろうか?だからこんなに親
身に綾波のことを考えていてくれるのだろうか?
僕はそう思うと、何だかうれしかった。もちろん綾波にとってもだが、アスカ
にとっても・・・・
アスカは結局のところ、ミサトさんを受け入れたとは言えなかった。やはりア
スカも、受け入れたのは僕唯一人だったのだ。そういう意味ではアスカも綾波
と変わらない。それがもう一人、綾波という存在を受け入れるようになって・・・・
アスカは気付いていないかもしれないが、これは大いなる成長だった。アスカ
には大変なことが増えるかもしれないけれど・・・・僕はそんなアスカがうれ
しかった。
そして最後にキッチンを出て行く時に振り返って見たアスカの髪は、もう既に
ほとんど乾ききっていた・・・・


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