私立第三新東京中学校

第二百十八話・愛と現実の狭間に


「・・・・」

視線を一つにしない二人。
アスカは綾波に背を向けたまま黙り込み、そして綾波はアスカの背中を呆然と
見つめながら時は過ぎていった。ただ、天井辺りからの水滴が落ちる音が、こ
こがお風呂場であるということを二人に示していた。

「・・・・・」

アスカがもうこの状況に耐えきれなくなったのか、シャワーを無造作につかむ。
そしてそのまま蛇口をひねってお湯を出すと、泡にまみれた自分の身体を流し
始めた。

「・・・・」

会話はない。この気まずさを回避しようという気も、もうアスカにはないらし
い。アスカは一度の綾波の方を見ようとはせず、あらかたシャワーを浴び終え
ると、そのまま湯船に入っていった。

「・・・・」

残された綾波はプラスチックの椅子にいまだ腰掛けている。今までずっと見つ
めていたアスカの背中が消えてしまった為に、その直前までアスカが座ってい
た自分のと同じタイプの椅子に視線を合わせていた。

「・・・・」

アスカはまだ、綾波に背を向け続けていた。湯船に浸かってからも、綾波とは
反対側のタイル張りの壁を凝視していた。しかし、その感覚では常に綾波を捉
えていた。アスカは気にせずにはいられなかったのだ。

アスカは肌で感じていた。
自分の発言が綾波を硬直させているということを。アスカ自身もそうなること
くらいの予測は立てていた。しかし、実際こうされてしまうとなかなか思って
いるようには振る舞えない。特にアスカは綾波の気持ちがわかるだけに、綾波
を思いやる気持ちも強かった。人外の力を振るう綾波を生理的に恐れこそすれ、
表面的な綾波は単なる儚げな少女にしかすぎないのだ。いや、単なると言うに
は程遠い純粋さ・・・・アスカは自分にはないそれをうらやましく思い、守っ
てやりたいという気になっていた。アスカは僕に対しては感じなかった程の強
烈な保護欲、それを綾波に感じていたのだ。
しかし、綾波の渚さんに接した時の表情・・・・アスカはあれを見て、綾波に
恐怖を覚えた。以前から渚さんに対してはそういう表情をしていたと言うこと
くらいアスカだって知っているし何度も直に目で見ている。しかし、それは渚
さんが僕に接近するがゆえの強い嫉妬のようなものだと思っていた。だから、
純粋すぎるがゆえの、綾波の嫉妬なのだと・・・・
だが、実際は違った。アスカの想像は甘かったのだ。確かに綾波の感情に嫉妬
がなかったとは言えない。むしろ、それが大きな引き金になっているのは事実
である。だが、綾波は渚さんを「完全に排除」しようとしたのだ。使徒とエヴ
ァだけが持っていた、あの恐るべきATフィールドを使って・・・・
嫉妬だけで人は殺せない。そういう意味、アスカはまだまだ子供だった。だが、
アスカは見てしまった。綾波が嫉妬の炎から、渚さんを無き者にしようとした
ことを・・・・

渚さんはATフィールドを張って自分の身を守ることが出来る。しかし、自分
はどうなのか・・・綾波が自分にも渚さんと同じように嫉妬に狂って襲い掛か
ってきたら・・・そう考えると怖い。無論、妹みたいに思っている綾波が、自
分を殺そうとするなんて思わない。だが、あの時の綾波を見てしまったアスカ
は、そんな自分の希望に強い確信が持てなかった。

だから、綾波の口から言って欲しかった。
「アスカには力を使わない」と・・・・

そして、綾波の口からは、アスカの聞きたかった答えは返って来なかった。

しかし、アスカは綾波の気持ちがわかる。
アスカが綾波だとしても、自分の好きな人が他の女とキスしていて、平気でい
られる訳がない。今は僕が自分に魅かれていると知っているから、優位を保っ
ているから余裕を示すことが出来るのだ。しかし、もし今回のことをきっかけ
に、僕が綾波の元へと走ってしまったら・・・・有り得ない話ではないとアス
カは思う。そしてそれが現実となったら、アスカは綾波に何をするのか・・・
自分でもわからないが、綾波と同じ力が自分にもあったとしたなら、それを使
わないなんてはっきりと断言出来るだろうか・・・?

そしてアスカは、いつのまにか壁のタイルから視線を外し、綾波のことを見て
いた。綾波は自分が見られていることになんて全く気付いた様子を見せない。
アスカは湯船の縁に両肘を乗っけてそんな綾波をちょっと微笑ましく見つめて
いた。

なんでこうして何事にも一筋に考えることが出来るんだろう・・・・?

アスカはそう思う。
自分だったら打算やら何やらで、いつでも他のことに気を配らずにはいられな
い。そういう意味ではアスカは僕に似ている。まあ、人への気の配り方が、僕
より大分大人なのだが・・・・
しかし、綾波だけは違う。一つのことだけしか考えていない。そしてアスカは、
そんな純粋な綾波を好ましく思う。自分の小さかった頃でさえ、こんな風には
振る舞えなかったと思う。だから、自分の持ったことのないものを持っている
から、アスカは綾波を大事に思うのだ。自分がこんなだったらという切ない願
望を込めて・・・・

「レイ・・・?」

思わず心の中で呼ぶつもりが、声に出してしまった。
アスカは綾波がビクっとしてこちらを見ると、自分の迂闊さに気がついた。し
かし、今更もう後には退けないということくらい、アスカにだってわかってい
る。そして、アスカはそのまま口を開いて綾波に話し掛けていた。

「ねぇ、どんな気持ち・・・・?」
「・・・何が?」
「・・・・シンジを・・・・シンジを守るって・・・・?」
「・・・言葉に・・・言葉になんて出せない・・・・」

綾波は染み入るような声でそう言うと、そっと両手でそっと胸を押さえた。
アスカはそんな綾波の言葉を聞き、自然な仕種を目にして、自分には出せない
綾波の女の子らしさをうらやましく思った。
いつも僕に対する時でも、なかなか素直に自分の気持ちを出せずに、つい手を
出したりきつい言葉を吐いてしまう。アスカはそんな自分を思い返してみて、
どう考えても自分よりも綾波の方がかわいいと思ってしまった。そしてアスカ
は少しだけブルーになると、そっと綾波に言った。

「いいわね、アンタは・・・・」
「・・・・どうして?」
「アタシは・・・・アタシには、シンジを守る力なんてないから・・・・アタ
シはただ、シンジにすがってるだけだから・・・・」
「・・・・」
「・・・なんかおかしいわよね・・・・アタシよりもアンタの方が、どう見た
ってかわいいのに・・・・」

すると、自嘲的なアスカに綾波ははっきりと言った。

「・・・・かわいいだけじゃ、人形と同じよ。ただ可愛がって、大事にされる
存在でしかない・・・・」
「レイ・・・・」

予想外の発言に、アスカは思わず息を呑む。
が、綾波はそんなアスカに気付いた様子もなくそのまま続けた。

「碇君を守るなんて、所詮私の自己満足にしかすぎない。あの碇君を、誰かが
傷つけると思う?あれでさえ、絶対に碇君を傷つけたりしないわ。絶対に・・・・」
「・・・・」
「私はそれがわかっていながら、可能性だけはあるからと言って、碇君を守る
という立場に自分を置こうとしている。それが私の存在理由だとでも言うよう
に・・・・」
「・・・・」
「私は碇君に必要される存在になりたい。ただそれだけ。かわいいだけの、頼
り無いだけの愛玩人形としては見られたくない・・・・」
「・・・・」
「碇君は私のこと、いつも人間だって言ってくれる。でも、碇君がわざわざそ
う言うのって、私がまだ人形の部分を多分に残しているからなんじゃない?実
際あなたにはそんな事は絶対に言わないし・・・・」
「・・・・」
「碇君は私がいなくても生きて行ける。寂しいとは思ってくれるけど・・・・
でも、寂しいだけなの。私はかわいいだけの存在なんだから・・・・」
「・・・・」
「もうATフィールドなんてどうでもいい。あったってなくたって・・・・た
だ・・・・どうしたらかわいいだけの存在から卒業出来るのか・・・・」
「・・・・」

アスカは綾波に何も言えなかった。
まさか綾波が、自分のうらやましく思っていたかわいささえも忌避していたな
んて・・・・
しかし、アスカは綾波の言葉を聞いて、その想いがよく理解出来た。確かにか
わいいだけでは、単なる人形と言われてもおかしくはない。昔の綾波は感情を
持たないという意味で人形だったが、今の綾波はかわいいだけで他に意味を持
たないという意味で人形だったのだ。綾波はそのため、他に意味を見出そうと
料理や掃除などに取り組んできたが、それは綾波を家庭的にしたというだけで、
根本的には何も変わらなかった。綾波はアスカのように、魂から僕に愛されて
いなかったのだ。外見で物事をはからない僕とは言え、その魂を愛していると
言うのではないと言うことを、綾波もアスカもよくわかっていた。だから綾波
が愛玩人形としてしか愛されていないというのも、あながち間違いではないの
だ。

綾波はアスカにないものを持ち、アスカは綾波にないものを持っていた。
そういう意味では二人とも同じと言えたが、二人の間には決定的に違いがあっ
た。それは・・・・人形としてではなく、人として愛されているのが、アスカ
だけであると言うことを・・・・

無論、僕は人形として綾波を愛したことなんて一度もない。が、綾波のちょっ
とした仕種や純粋さに惹かれることはあっても、成熟した人間として愛してい
たのではなかった。それに対してアスカの場合は、まさにその燃えるような魂
を愛していた。確かにアスカにも弱いところはあるが、アスカはそれに負けず
に何事にも強く立ち向かっていた。そして僕は、アスカのそういうところが好
きだった。それはまさに、アスカの姿勢、アスカの魂を愛したと言えよう。
そしてこうやって改めて綾波の口から出されると、今まで気付きもしなかった
ものが、急に現実味をより帯びてくるのだった。

「・・・・こっち来なさいよ、レイ。」

今のアスカには、それしか言えなかった。
そして綾波は、そんなアスカに対してびっくりした様子を見せる。するとアス
カは、ちょっと苦笑して綾波に言った。

「ほら、いくら夏だからって、裸でずっとそうしてると、風邪ひいちゃうわよ。」
「アスカ・・・・」
「アタシはいっつもシンジには逃げるな、って言ってるけど・・・・」
「・・・・」
「たまには逃げて、そして忘れる方がいいわよ。シンジは逃げてばっかりでど
うしようもないから、しつこくああ言って聞かせてるんだけど、アンタの場合、
ね・・・・」
「・・・・」
「どうにも出来ないことだってあるんだから・・・・そういう時は、あったか
いお湯に浸かって・・・・そして嫌なことを忘れんのよ。アンタにもアタシに
も、辛いことばっかりだからね・・・・」
「・・・・」
「だからせめてお風呂に入ってる時くらい、楽しい気分でいましょ。気になる
あいつは、ここにだけは来ないんだしさ・・・・・」
「・・・うん・・・・・」

アスカの優しい言葉に心が和んだのか、綾波はその上気してほんのり赤味を帯
びたその顔に軽く微笑みを浮かべると、立ち上がってアスカの隣に入っていっ
た。

「・・・あったかい・・・・・」

綾波はそっとそうつぶやく。そしてそれを聞いたアスカは、軽くうなずいて綾
波に言って聞かせた。

「でしょ?だからお風呂は気持ちが休まるのよ。アンタも少しだけ、嫌なこと
を忘れてさ・・・・」
「うん・・・・」
「アタシも・・・・アタシも、忘れるからさ・・・・」

綾波は気付くはずもなかった。
アスカの言葉が、自分に言い聞かせた言葉であるということを。
アスカは綾波の力に決着をつけるつもりで一緒にお風呂に入ろうとしたのだが、
結局それはならなかった。反対に綾波の辛さ、悲しさばかりを見せ付けられる
結果となって・・・・アスカは忘れることにしたのだ。綾波のもう一つの顔、
力を持つ存在であるという闇の顔を・・・・
いつも僕に言い聞かせているのに、アスカ自身も逃げてしまっている。しかし、
現実に直面し続けるには、アスカには愛がありすぎた。愛と現実の狭間に苦悩
して、アスカは愛を選んだ。これは一時的には楽な道なのかもしれない。しか
し、現実はいつまでも後を引き、アスカの心に一片のかげりを残すことだろう。
アスカには十分過ぎるほどわかっている。問題を後回しにするのがどういう事
なのかを・・・?
だが、ここはお風呂場だった。やさしい湯気の立ち上る、安らぎの場所だった。
そしてアスカは、そこで現実を振りかざし続けるほど、強い女の子ではなかっ
たのだった・・・・


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