私立第三新東京中学校

第二百十七話・ひとつのこと


「さてっと!!これで終わりっ!!」

アスカは綾波の背中を洗い終わると、元気よくそう言った。
終わるまでは存外の時間がかかったのだが、これはあまりに繊細に見える綾波
の肌を傷つけないようにとのアスカの配慮だった。アスカは自分の身体を洗う
のに粗雑なところがあるとか、そんなことは全く無いのだが、それがいい加減
なものに思えるほど念入りに綾波の身体を洗ってあげた。
綾波は人に背中を流してもらうなんてことは初めての経験だった為、普通どの
くらい時間を掛けるものなのか知らない。しかし、アスカのちょっとした言葉
や洗い方などで、綾波はアスカが自分にどれだけ丁寧に接しているかを知るこ
とは出来た。だから綾波はアスカの合図を聞いて、ようやく振り返りアスカの
方を見ると、いつものように礼儀正しくお礼の言葉を述べた。

「ありがとう、アスカ・・・・」

すると、それを受け止めたアスカは、なぜかぎこちなく微笑むと、綾波の言葉
に応えて言った。

「そんな、だからお礼なんていいってば。そんな事言う暇があるなら、アタシ
の背中も洗ってよ。」

アスカはそう言うと、綾波の返事も待たずに綾波に背中を向けた。
アスカのぎこちなさとはここにあった。アスカは別に背中を洗ってもらいたか
った訳ではない。綾波にしてもらうと言うことが、アスカにとっては重大事だ
ったのだ。自分の背中を洗ってくれと言って、まさか綾波がそれを拒絶すると
は、アスカも思ってはいない。しかし、そうとわかっていながらも、アスカは
綾波の答えを正面から受け止めることは出来なかった。だから、半ば無理矢理
背中を向けて、そうせざるをえないように綾波を追い込んだのだった。
こういう手は、アスカがよく使う手だ。僕も似たような感じでアスカに追いつ
められては、アスカの思うが侭にされていた。もしかするとアスカは、人から
拒絶されると言うことを、どんなことよりも恐れているのかもしれない。はっ
きりとしたことはわからないが、そうでもない限りこんなものを常套手段には
したりしないはずだ。

そして綾波は、自分のとは若干異なった、抜けるように白いアスカの背中を見
せられた。綾波は僕とは違って、アスカのこういう仕打ちには慣れていない。
僕を間近に見てアスカがどういう人物なのかは綾波も熟知しているが、綾波以
上にアスカの手を受け続けている僕でさえ逃れることが出来ないというのだか
ら、今まで第三者的な立場にいた綾波が、それをどうこうすることはまず無理
であった。
だから、綾波は少しの間、穴のあくくらいにアスカの背中を凝視していたが、
手元においてあったスポンジを手に取ると、黙ってそっとアスカの背中に当て
た。アスカは綾波が自分の背中を洗ってくれる気になったことを知って、取り
敢えずは心を落ち着けたのだが、すぐにそのやり方が気になってそのままの姿
勢で綾波に言った。

「ちょっとレイ!!もうちょっと強くやってくれる?アンタのは何だか洗って
るっていうより背中を撫でられてるっていう感じで、こそばゆいのよ。」
「ごめんなさい。じゃあ・・・・」

綾波はアスカに言われるがままに、アスカの背中に向けた手に力を込め始めた。
アスカはそれで満足したのか、軽く綾波に声を掛けてやる。

「いいわよ、レイ、その調子・・・・アタシなら大丈夫だから、もっと強くし
てもらってもいいくらいね。もっとごしごしとさぁ・・・・」
「わかった・・・・」

綾波はそう言うと、また少し力を強くする。
実際のところ、アスカにとってはまだそれでも弱すぎるくらいだった。しかし、
自分が綾波にやってあげたのを基準にするならば、そうでもなかったので、敢
えてこれ以上アスカは綾波に言おうとはしなかった。

そしてアスカは綾波に自分の背中を委ねると言う状態のまま、そして綾波に背
を向けた状態のまま、今までとは対照的に静かに口を開いた。

「レイ・・・・?」

綾波も、アスカの声の変化にすぐさま気がついて、アスカの背中を洗う手を止
めた。するとアスカはそんな綾波を静かにたしなめて言った。

「手を止めないでアタシの話を聞いてくれる、レイ・・・・?」
「・・・・」

綾波は、どうしてアスカがそんな事を言うのかわからなかったに違いない。し
かし、だからと言ってそれに異論を挟む余地も無かったので、綾波はアスカに
言われたように再び手を動かし始めた。
アスカはそれを知ると少し落ち着いたのか、重い口を開いた。

「・・・・アンタの・・・・ちから・・・・の、ことなんだけどね・・・・」

綾波は身体をビクっとさせる。
やはり綾波にとって、力のことはいつまで経っても御法度のままだった。特に
アスカは綾波のそれを見て綾波を拒絶すると言ったので、アスカの口からその
言葉が漏れるのは、綾波にとって辛いこと以外のなにものでもなかった。

「・・・・・」
「・・・その・・・辛いのはわかるわよ。でも・・・でもね、レイ。ここでち
ゃんと話をしておく必要があると思うの。アンタとシンジはもう了解の域に達
したみたいだけど、アタシの場合、まだだからね・・・・」
「・・・・」
「アタシは別にアンタのこと、嫌いじゃないし、いじめようなんていう気もあ
るはずが無い。アタシはアンタとこれから一緒に同じ時を過ごしていくにあた
って、不安を取り除いておきたいだけなのよ。」
「・・・・・」
「だから・・・・いい?」
「・・・・」

アスカは、綾波の隠された心、傷ついた心に触れようとした。
しかし、アスカと綾波はそこまで深い関係とは言えなかった。だからアスカも、
僕が綾波に接した時とは違って、かなり恐る恐るのものであった。それはアス
カらしくもないことかもしれないが、それを言うならアスカが作り上げた今の
二人の状況についても同じ事が言えた。
アスカはいつも人の顔を見て話をしろと言っているが、今回のこれは綾波に背
を向けている。それがアスカの恐れの表れであった。そしてまた、アスカは綾
波の手を動かし続けさせた。アスカはこの会話の逃げ道を作っておいたのであ
り、これがすべてではなく、あくまでも背中を洗うついでの会話であるという
状態に持っていったのであった。アスカがそこまで自信の無さを露呈するとい
うのも珍しい話である。しかし、アスカがそうなるだけの理由が、アスカと綾
波の関係には存在していた。アスカは僕と綾波がここに戻ってきた時には昔の
ままのアスカを演じていたが、それは演技であり真実ではなかった。普通の人
にはアスカの演技を見破ることは難しいが、今ここでアスカは演技の仮面を取
り去った。アスカは自分の本当の気持ちを、綾波にぶつけようとしたのである。

「・・・・アンタが何も言わなくても・・・・アタシは勝手に言うわよ。」
「・・・・」

アスカの言葉にも、綾波は口を閉ざしたままだった。しかし、アスカの背中を
洗う手は止めずにいたので、なかなか不思議に感じる。アスカはそれを、綾波
が自分の話を聞く気にあると言う証だとして、そのまましゃべり始めた。

「・・・やっぱりアンタ・・・・ATフィールド、使えんのよね・・・・?」
「・・・・」
「まあ、見ちゃったんだし、今更弁解も何も出来ないわよね・・・・」
「・・・・」

アスカは打ち解けた会話にしようと思っていたのだが、綾波の方で打ち解けよ
うとはしてくれなかった。そしてアスカは更にわざと明るく振る舞って綾波に
言った。

「でも、アタシ驚いちゃった。まさかATフィールドで空を飛べるなんてね・・・・」
「・・・・・」

また一瞬だけ綾波の腕が止まった。
綾波は自分の心の動揺を隠す為、すぐさまそれをさっきよりも速い速度で動か
し始めたのだが、それはアスカに知られずにはいられなかった。現に綾波の顔
はお風呂場だと言うのに真っ青になっていたのだが、アスカにそれは見えずと
も、背中から伝わる綾波の手の感触でそれを知ることが出来た。
そしてアスカは自分の過ちを悟ると、明るく振る舞うのを止め、はっきりとこ
う訊ねた。

「・・・アンタの力は、何の為にあるの?」

そして訊ねられた綾波は、それまでの沈黙を捨て、よどみなくはっきりと答え
た。

「碇君を守る為よ。」
「そう・・・・」
「・・・・」

アスカはそれを聞いたきり、何も言おうとはしなかった。綾波も黙ったままア
スカの背中を洗い続けたのだが、やはりその突然訪れたアスカの沈黙に耐えき
れなくなったのかアスカに訊ねた。

「・・・・何が言いたいの、あなた・・・・?」
「・・・アタシがアンタを恐れる必要があるのか・・・・それを確かめたかっ
ただけよ・・・・」
「そう・・・・」
「同居人を恐れて暮らすっていうのも、なんだか嫌な話だからね・・・・」
「・・・・」
「そういうわけよ、つまり。アタシはまだ、アンタを・・・・アンタのその力
を恐れてる訳。アタシは強がりだから、アンタには見せないように気をつけて
るけどね・・・・」
「・・・・」
「それだけよ、簡単な話・・・・」

アスカはそう言うと、少し肩の荷が下りたのか、軽くほっと息をついた。
そしてアスカは後を綾波の手に委ねた。これ以上は口を開こうとせずに、黙っ
て綾波の言葉を待った。
綾波はしばらくアスカの背中を洗っていた。洗うと言っても、もうほとんど撫
でると言うのに近いくらいの弱いものへと変わっていったが、それは綾波の意
識がアスカの背中を洗うことから、アスカの言葉へと移っていたからであった。
そしてアスカも、背中を洗うのがおざなりになった綾波を咎めることも無く、
黙ってそれを受けていた。アスカも綾波が考えていることくらい、十分理解し
ていたからだ。

しばらくして、とうとう綾波は結論が出たのか、手に持ったスポンジを下に置
くとアスカに向かって答えた。

「・・・あなたが私を恐れるかどうか、それはあなた次第よ、アスカ。」
「・・・・どういうこと?」
「私の力は、碇君の為だけに振るわれる。だからあなたが碇君に危害を加えな
い限りは、あなたは安全よ。」
「・・・・・」

アスカは綾波の言葉に納得しなかった。
アスカにだって、そんな事くらいはわかっている。綾波が不用意に自分の力を
行使したりしないことくらいは。綾波だって、自分の力を厭い、出来ることな
らばなくなった方がいいとさえ思っているのだ。そんな綾波だから、ほいほい
力を多用するなんて有り得ない。しかし、だからこそアスカは恐いのだ。綾波
の力が振るわれる時は、それなりの理由があると言うことが・・・・

「・・・本当にそれだけ?」

アスカはひとことだけ、綾波に訊ねる。
しかし、それだけでは何を言っているか綾波にはわからない。綾波は当然のご
とくアスカに聞き返した。

「・・・どういうこと、それ?」
「アンタが力を使うのは、本当にシンジの為だけ?自分の為には使わないの?」
「ええ、もちろんよ。私の力は、碇君を守る以外には絶対に使いたくないから・・・・」
「・・・・本当に・・・・本当にそう断言出来る訳?」
「・・・あなたもしつこいわね、アスカ。」

綾波はあまりにしつこすぎるアスカに少し嫌気が差したのか、珍しくうんざり
したような声でアスカに言った。するとアスカは自分の語る内容に動揺を隠し
きれない様子で綾波に訊ねた。

「た、例えばよ、これは・・・・例えば、アタシとシンジがキスしてる時、二
人の同意の元でキスしてる時・・・そういう時はどうなの?アタシを攻撃した
りはしないの?」
「・・・・」
「どうなの、レイ?はっきりさせて・・・・」
「・・・・」
「レイ・・・・」

二人の視線は合わない。
アスカは綾波に背中を向け、綾波はアスカの白い背中を見つめていた。
アスカが振り返るか、それとも綾波がアスカの前面に出るか・・・それは為さ
れなかった。お互いに、相手の顔が見れなかったのだ。顔を見たら何と言って
しまうのかわからなくて・・・・辛い関係だった。
二人ともお互いのことを好ましく思っている。似たような境遇が、二人をいつ
のまにか結び付けていた。しかし、ひとつのこと、たったひとつのことだけの
ために、二人の気持ちは交錯することはあってもひとつになることはなかった。
そのひとつのこと・・・・それは二人が全く同じ人間を愛したことであった・・・・


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