私立第三新東京中学校

第二百十六話・背中、委ねて


シャー・・・・

水の流れる音。
水道の蛇口から出る水が、お皿についた洗剤の泡を流す。
家事をずっとこなしてきた僕は、もう既に仕事を身体で覚えてしまって、あま
り意識をそちらに向けなくとも、何も問題なく作業することが出来る。

今は僕一人だ。
話し相手は誰もいない。
僕は独り言を言う人間でもないから、自然と静寂な空間に包まれる。
だから、些細な音が、僕の耳に色々入り込んでくる。
食器が軽く触れ合う音、冷蔵庫の音、そして水の流れる音・・・・

同じ水の音でも、きっと向こうではもっと楽しいんだろうな。
僕はそう思いながら、黙々と食器を洗っていた。


バタン!!

大きな音を立ててアスカがお風呂場の扉を開ける。
全くそんなに勢いよくする必要もないのだが、そこにアスカの決意めいたもの
が感じられる。アスカは元々おしとやかとか、そういうのには縁のない女の子
だが、無意味なことはあまりしない。だから、人に見せる効果として粗雑な振
る舞いをすることもあるが、普段誰も見ていないところでは、割と普通の女の
子らしいところがあった。
そして今回は、綾波に見せ付けるのではなく、アスカの心が出てしまったとい
う感じだ。綾波はまだわかっていないかもしれないが、アスカはこれからのこ
とを思うと不安だった。これからする話は、もちろん普通の女の子同士の話も
するのだが、それ以上に、これから綾波と付き合っていくに際しての、シビア
な、容赦無い会話が為されるのであるから。
アスカの不安が形に表れる。それは珍しいことではない。アスカはいつも強気
な自分を保っていたから、言葉ではまずそれを示すことはない。最近では自分
の気持ちを言葉に表現することも覚えてきたが、やはりまだまだ以前のアスカ
を完全に拭い去れないでいた。長い間そうして過ごしてきたことが、アスカを
固定化させ、それがごく自然なことに変えてしまっていたのだ。だから本当に
大事なこと以外の、アスカが気にもとめない末梢のことに関しては、アスカが
意識しない為、昔のアスカが出てしまっていたのだ。

「・・・・」

アスカは自分の背中に綾波の視線を感じる。
綾波と一緒にお風呂に入ったのは、ここに引っ越してきた最初の日以来だった。
別に綾波を避けていた訳ではないが、なぜか一緒にお風呂に入ろうという気に
はなれなかった。綾波が誘わなかったからというのもあったのだが、綾波にそ
んな事を期待すること自体が無意味であったので、やはり自分が悪いのだろう、
とアスカは思う。アスカは僕と違って、一時的接触を嫌っている訳ではないは
ずだ。現に、洞木さんの家に泊まりに行ったりなどして、一緒にお風呂に入る
機会も少なくない。だから、アスカにとって綾波が特別なのだ。アスカは今ま
で綾波の秘密を知らなかった。無論、綾波がクローンだということは既にリツ
コさんの言葉から知らされていたのだが、アスカが綾波を避ける理由はそれだ
けではないはずだ。もしかしたら、アスカは本能に近いもので、綾波が普通で
はないことを感じていたのかもしれない。そう言えば、僕もそれが何なのかは
わからないながらも、綾波に特別なものを感じていた。僕はいい意味で特別に
感じていたのだが、アスカの場合、悪い意味で特別なものを感じていたのかも
しれない。アスカは現実的であり、論理を重視する為、直感だとかそういうも
ので人をはかったりはしない。だから自分の感じた確実でないものは、表には
出さなかった。そのため表立っては普通に綾波に接してきていたが、こういう
些細なことでは・・・・知らず知らずのうちに、綾波を避けていたのだろう。
アスカがどれほど常ならぬものを拒んでいるかは、綾波の力を見せ付けられた
時に見せた反応を見ればわかる。今ではアスカもかなり落ち着いて、露骨に綾
波を避けることはなく、普通に綾波に接して見せてはいるが、やはり詳細を聞
き出さない限りは、アスカも安心出来ない。だからアスカはこうして綾波と一
緒にお風呂に入るのだ。綾波と一対一で、僕に聞かれぬ場所で話をする為に・・・・

アスカは慣れた様子で足を伸ばすと、隅っこに並べてあったプラスチック製の
椅子をシャワーの近くに移動させた。そして自分の分だけでなく綾波の分も同
じようにして渡してあげた。

「ほら、これに座んなさいよ。」

アスカはぶっきらぼうにそう言ったが、それは冷たい言葉ではなかった。
むしろ馴染んだもの同士が見せるような、そんな言葉だった。
しかし、綾波がどう思っているかはともかく、アスカはそれほどまでに綾波に
は慣れていない。それは、アスカが意識して創り出した、これからの二人の関
係像であったのだ。

「ありがとう・・・・」

綾波は礼儀正しくアスカにお礼を言うと、言われたままに椅子に腰掛けた。そ
れを聞いたアスカは、自分も腰を下ろしながら綾波に注意する。

「別にそんなことくらいで礼なんて要らないわよ。むしろこっちの方が困っち
ゃうじゃない。」
「・・・ごめんなさい・・・・」
「だからぁ、謝る必要も無いんだって。アンタ、そういうとこ、シンジにそっ
くりよ。」

アスカは深い意味も無くそう言ったのだが、綾波はアスカの言葉を聞くと、反
対にうれしそうな顔をして言った。

「碇君に似てるの、私?うれしい・・・・」

アスカはそんな綾波を見ると、呆れ果てて言った。

「アンタねぇ・・・似てるって言っても、シンジのよくないところよ。はっき
り言って喜ばないで欲しいわね。」
「・・・・私、碇君によくないとこなんて、ないと思ってるから・・・・」
「・・・とことん洗脳されてるわね、シンジに・・・・」

アスカはもう綾波に何を言っても無駄だと思ったのか、シャワーのお湯を出す
と、身体に浴びせ始めた。そしてそれを見た綾波も、同じように身体にお湯を
掛ける。それでしばしの沈黙が流れたのだが、シャワーを浴びるのは身体を洗
う前の準備段階だったので、一通り身体を濡らし終えると、アスカはシャワー
を止めて綾波に言った。

「ほら、身体を洗うわよ。」

アスカはそう言うと、スポンジとボディシャンプーを綾波の方に放った。そし
てアスカはそのまま黙って自分の身体を洗い始めた。綾波は割と無造作にアス
カに渡されたそれらを眺めていたが、黙ってアスカと同じようにして身体を洗
い始めた。アスカは綾波が大人しく自分の言われたように身体を洗うのをちら
りと目で確認したが、あることに気がついて綾波に訊ねた。

「アンタ、もしかしてまともに自分の身体、洗ったこと無い訳?」

どうしてアスカがそう思ったのかと言うと、綾波の身体の洗い方が全く自分と
同じだったからだ。同じ、と言うより、綾波がアスカのそれを見つつ、真似し
ていると言った方がより正しいだろう。アスカは前に綾波と一緒に入った時は
全くそのことに気がつかなかったが、こうして今見ると、はっきりとそのこと
がわかる。
そして綾波は、アスカに訊ねられると、小さくうなずいて答えた。

「うん・・・・」

それは無理も無いかもしれない。
綾波には一緒にお風呂に入る人間なんていなかったし、そんな些細なことは誰
も教えてはくれないのだ。きっと綾波がシャワーを浴びるというのも、ただ身
体にお湯を掛けて、汗を流すくらいにしか考えていなかったのかもしれない。
アスカはそのことに気付くと、思わず涙があふれそうになってしまって、慌て
て綾波に言った。

「ほ、ほら、背中を向けなさいよ!!」
「え・・・?」
「いいから言う通りにして!!」

突然のアスカの言葉に、綾波は戸惑いを隠し切れなかったものの、人からの命
令に馴らされていた綾波は、頭で感じるよりも先に行動していた。

「・・・・」

アスカは大人しく自分の言うことを聞いた綾波の小さな白い背中を見る。
傷ひとつない、透き通るように白い肌。
でも、以前ならそれを羨ましいと思うアスカも、今日ばかりはそう思えなかっ
た。アスカは黙って、さっきまで自分の身体を洗っていた泡立つスポンジを手
に取ると、綾波の背中に当てた。
綾波は自分の背中に感じた感触に驚き、思わず振り返ろうとする。が、そんな
綾波に叱責の声が飛んだ。

「ほら、じっとしてて。これから背中を洗ったげるから・・・・・」
「・・・・」

綾波はアスカのその言葉を聞くと、これから何が始まるのか理解して、アスカ
に言われたとおり、黙ってアスカに自分の背中を委ねた。

「アタシが・・・アタシが洗ったげるから・・・・」

アスカは半ば自分の中の綾波に言い聞かせるようにそう繰り返すと、綾波の背
中をスポンジでごしごしこすり始めた。

「ん・・・・」

綾波は今まで感じたことの無い感触に、軽く声を上げる。
別に痛くて声を発した綾波ではないが、繊細すぎる綾波の背中に触れているア
スカは、力が強すぎたと思って綾波に謝る。


「ごめん、痛かった?」
「う、ううん。違うの。私、こういうの初めてだから・・・・」

アスカは綾波のその言葉を聞いて、自分の予想が正しかったことを知った。
綾波はこうして人に自分の背中を洗われた経験が無い。アスカはそれを知って
改めて綾波の境遇を可哀想に思った。が、そう思ってアスカは気付いた。自分
もそれを知ったのは、つい最近だという事実に・・・・・

「・・・・」

アスカは黙ったまま、やさしく綾波の背中をスポンジでこする。
そしてそうしたままアスカは自分に背中を洗ってもらっている綾波の気持ちを
思い、初めて人に背中を洗ってもらった時のことを思い出していた。

アスカが初めて人に自分の背中を委ねたのは、洞木さんの家に泊まりに行って
何度目かの時ことだった。前からそうだったので、アスカはただ泊めてもらう
だけで、お風呂に入るなんて予想だにしていなかった。が、洞木さんは以前の
危ういアスカにはそんな事は言えなかったが、今の回復したアスカになら大丈
夫だろうと思って、一緒にお風呂に入ろうと誘ったのだった。
自分の初めての友達とも言える洞木さんであったが、アスカはそこまで洞木さ
んに心を許してはいなかった。しかし、アスカは拒まなかった。拒む理由も見
出せないまま一緒にお風呂に入り、そして洞木さんと身体を洗いっこした。
洞木さんは気付かなかった。これがアスカが初めて人に背中を委ねた時だと言
うことを。洞木さんは無論はじめてではなかったので、アスカとそうすること
が自然なことであると思い、何の違和感も覚えていなかった。しかし、アスカ
は心の中で感動していた。これが普通の、自然の姿なんだと言うことに。
そして、アスカは洞木さんの家に泊まりに行くたびに、お互いの身体を洗いっ
こしたのだ・・・・

僕は一度だけ、アスカの口からそのことを聞いたことがある。
そして僕も思った。自分もアスカと同じく、人に背中を委ねたことなんて無い
と言うことを。トウジやケンスケのところに遊びに行くことはあっても、僕は
泊まったりすることはなかった。向こうの家族に迷惑を掛けることになるし、
アスカや綾波も心配するだろうから・・・・

・・・・いや、僕は一度だけ、自分の背中を委ねたことがある。委ねたと言う
より、ただ一緒にお風呂に入っただけだが、それは僕にとっては特別のことだ
ったのだ・・・・


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