私立第三新東京中学校

第二百十四話・あなたになりたい


「ア、アスカ・・・・」

僕はアスカの言葉に、なんと応じてよいのかわからなくなってしまった。
僕にとって綾波を捜すというのは確かに大事なことであった。しかし、それを
成功に導く為に意図的にアスカを置いていったことは事実である。アスカがそ
れを知っているのかどうか、僕にはわからなかったが、アスカを大きく傷つけ
たことは間違いなかった。
それなのに僕は呑気にもアスカの気持ちを考えようとせず、アスカのおでんに
意識を持って行っていたのだ。こうしてよくよく考えてみると、どれだけ僕が
アスカを傷つけてきたことか・・・僕にはアスカに合わせる顔がない。恥ずか
しくて情けなくて、このまま自分の部屋に逃げ帰ってしまいたいくらいだ。
だが、そんなことは出来ない。だから僕は、唇を軽く噛み締めながら、アスカ
の言葉を待つだけだった・・・・

するとアスカは、そんな僕の様子に気付いたのか、慌てて訂正してこう言った。

「あっ、い、今のは軽い冗談だから!!だからシンジも気にしないでね!!」
「・・・・」

気にしないでいられる訳がない。また僕は、アスカに気を遣わせてしまった。
僕がこれほどアスカを傷つけてきたというのに、アスカはまだ、僕のことを思
ってくれる。僕はアスカのそれに値しないような、愚かな人間だというのに・・・

そしてアスカは自分の言葉で更に僕が意気消沈したのを見ると、続けて僕にこ
う言った。

「ほら、せっかくあっため直したんだから食べよ!!冷めちゃうじゃないの、
アタシ特製のおでんが・・・・」
「う、うん・・・・」
「ほら、箸を持って・・・・レイもよ。」

僕はこうしてアスカに促されるがままに箸を取った。そして落ち込む僕と、ま
だここでの自分の存在を認めきれていない綾波が、二人とも役に立たないので、
アスカは自ら率先して大きな声でいただきますの挨拶をした。

「いっただっきま〜す!!」
「いただきます。」
「・・・いただきます・・・・」

アスカの元気も空回りだ。こういう時、僕もアスカに応じて元気よく行くべき
なのだが、今の僕はそれが出来ない。アスカには悪いと思うのだが、とても大
きな声を出す精神的余力など残されていないのだ。

アスカはいただきますを言った後、僕が取ってあげたおでんを早速食べはじめ
た。そして僕も綾波も、心ここにあらず、といった感じで無気力におでんに箸
を伸ばした。するとそんな陰気な光景を見たアスカが、今度こそ作り物でない
大きな声を出して僕達二人に言った。

「アンタ達、アタシを馬鹿にしてる訳!?アタシが折角こうしてみんなで明る
く食べられるようにって思ってお膳立てしてあげたって言うのに、人の涙ぐま
しい努力を無視してまずそうに食べるんだから・・・・ふざけんじゃないわよ!!」
「ア、アスカ、ご、ごめん・・・・」
「ごめんじゃない!!この馬鹿!!」
「・・・・ごめん・・・・・」

アスカは顔を真っ赤にして怒っている。
しかし、アスカの怒りも無理はないだろう。僕がこうして人の好意を無にする
ようなことをしているのだから。僕はアスカの好意を踏みにじろうとなんて思
ったこともないし、そんなことしたくもない。しかし、僕は今、明るく振る舞
うなんて出来ない。自分をごまかせるほど、強い僕ではないのだ・・・・

そしてアスカは、謝る僕をもう放っておいて、綾波の方に矛先を向けた。アス
カは綾波を気遣ってか、さりげなく綾波の傷に触れないようにして、僕だけと
会話をしていたのだが、もうそうも言ってはいられなくなったようだ。

「レイもよ!!アンタ、一体いつまで悲劇のヒロインを気取る気!?アタシは
そういうの、いっちばん我慢なんないのよ!!」
「・・・・・」
「ほら、何とか言ったらどうなのよ!?アンタだって口がついてるんだし、こ
のアタシに何とか言ってみなさいよ!!」

僕はいくら自分が責められてもいい。現に僕には責められる原因がいくらでも
あるのだから。しかし、綾波は違う。綾波が責められる理由なんてない。それ
に綾波は悲劇のヒロインを気取っている訳ではない。まさに悲劇のヒロインな
のだ。綾波の持つ苦しみに比べれば・・・・僕の悩みなど、ゴミ屑同然のもの
だろう。だから僕は、アスカから綾波をかばった。

「やめろよ、アスカ。綾波をそっとしてあげなよ・・・・」
「・・・・」

僕がアスカに向かってそう言うと、アスカはギロっと僕のことを睨み付けた。
力強いものを感じながらも、どことなく儚げな、そんな大きな瞳で・・・・

僕はそのアスカに瞳にどきっとさせられた。
が、僕はそのまま続けてアスカに言った。

「綾波は十分傷ついてるんだ。少しくらい黙り込んだって、大目に見て・・・・」

僕がそう言うと、アスカはそれを途中で遮るように言った。

「そうやって、レイをかばうんだ・・・・」

僕はそのアスカの言葉に、続きを口にすることが出来なくなってしまった。
その言葉の内容もそうだが、それ以上に寂しそうな、つらそうなアスカの声で・・・・

そして僕が何も言えずにいると、アスカはそのままの調子で続けた。

「・・・アタシだって、レイと同じくらい、傷ついているつもりなのにね・・・・」
「・・・・・」
「レイは幸せよ。こうして自分の気持ちを素直に出せるんだから・・・・だか
ら辛い時、悲しい時、シンジがかばってくれる。でも、でもアタシの場合は・・・・
いっつも強がっちゃう。自分の気持ちをごまかしちゃう。それをみんなはアタ
シが強いんだと思って勘違いして・・・・」
「アスカ・・・・」
「・・・シンジだけは・・・・シンジだけは本当のアタシ、知ってるつもりだ
と思ってた。シンジなら、アタシのこと、わかってくれると思ってた。でも・・・・」
「・・・・」
「アタシって馬鹿ね。シンジの奴が、そんなに物分かりいいはずないのに、何
でもわかるはずないのに・・・・・」

アスカはそう言いながら、大粒の涙を流していた。
そして僕は、そんなアスカの涙を、ただ呆然と眺めていた。

「あれ、おかしいな・・・どうして涙が出るんだろう?アタシ、悲しくなんか
ないのに・・・・」
「アスカ、アスカ・・・・」
「・・・・止まらないや、涙・・・・・」

アスカはそう言うと、右手でごしごしと涙があふれる目をこすった。僕はそん
なアスカの姿を見るのが辛くて、軽く目を逸らした。それが逃げだとわかって
いても・・・・

すると、そんな僕とは反対に、一人の影がアスカに歩み寄った。

「アスカ・・・・泣かないで、アスカ・・・・」

綾波だった。それまでアスカに拒まれた悲しさを隠そうともせず、ひたすら大
人しくしていた綾波が、アスカの悲しみに触れて動き出した。
人の心で、心が動かされたのだ・・・・

「・・・レイ・・・・・」
「あなたが私のこと、避ける理由は私にもわかる。そして私にはそれを責める
権利はない。でも・・・・あなたの悲しみを癒す権利くらい、私に頂戴・・・・」
「・・・・」

綾波はそう言うと、そっとアスカの身体に手を掛けた。アスカは綾波に触れら
れる時、一瞬身体をビクっとさせた。しかし、綾波の手を避けることはなかっ
た。そして綾波はアスカに語り掛ける。

「私にはあなたの悲しみ、よくわかるわ、アスカ。だって私はあなたと同じ人
を好きになったのだから・・・・」
「・・・・」
「でもね、アスカ、碇君を信じてあげて。」
「・・・・」
「碇君は私を守ってくれると言ってくれたわ。でも・・・・いくら碇君が私を
守ってくれても、私はまだ、それ以上の関係じゃないの。あなたみたいな・・・・」
「・・・・」
「言わば碇君はあなたに安心してるのよ。だから色々誤解もあるけど・・・・
私はそうであっても、あなたを羨ましく思う。私も碇君と、守る守られるの関
係でなく、そういう自然にお互いを想える、愛の関係になりたい・・・・」
「レイ・・・・」
「私もあなたの涙が欲しい。碇君に愛されているが故の、悲しみの涙が・・・・
いくら悲しくても、辛くても、私は本当の、心からの愛を求めてる・・・・」

それは、僕にもアスカにも、全く考えつかないことであった。
アスカが涙を流すのは、アスカの悲しみは、そこに愛の関係があるからなんて・・・
普通の人が言ったなら、ただのこじつけだ、慰めにすぎないと、一笑に付すこ
とだろう。しかし・・・・しかし、言ったのは綾波だった。綾波の瞳は、いつ
も真摯な紅に輝いていた。そして今、それはいつも以上に光を増しているよう
に、僕には思えた。

「どうして・・・・どうしてアンタはそう綺麗なままでいられるの?どうして
そんなにいつもいい方にいい方に物事を考えられるの・・・・?」

アスカの悲しみは、いつのまにか自分を貶めていた。だからアスカは、自信を
持ってそう言える綾波を羨ましく思ったのかもしれない。実際僕も、そんな綾
波を羨ましく思っていたのだから・・・・

「私は綺麗なんかじゃない。私だって汚れてる。以前の私は何も知らないまま、
ただ人の命令を聞くだけの人形だったけど、今の私は喜びも悲しみも憎しみも、
みんなみんな知ってるの。だから、碇君が欲しくてあなたを騙したり、そうい
うこともしてる・・・・」
「・・・・」
「だから、私の言葉は本当のこと。私の心から出た、本当の言葉。私はあなた
を羨ましく思ってるし、碇君に愛されるあなたに、私もなってみたい・・・・」
「・・・・」
「泣かされたっていい。背中を向けられたっていい。ただ、碇君が本当の愛を
持って、いたわりでも同情でもなく、心からの愛を持ってキスしてくれるなら・・・・
私はどんな辛さにも、耐えられると思う。その喜びが、私を潤し、癒してくれ
るのだから・・・・」
「・・・・」
「あなたは幸せよ。幸せすぎる。幸せすぎるから、ちょっとした悲しみが大き
な悲しみに感じるのよ。私の持つ幸せは、あなたの持つ幸せに比べて遥かに小
さなものだから、私はそれを大事に大事に抱え込んで、それに一人で浸ってる
だけ。今の私には、それしかないから・・・・・」
「・・・・・」
「私はあなたになりたい。あなたの幸せが欲しい。あなたはこんなに幸せだか
ら、みんなに対して、この私に対しても、強く強くいられるの。あなたの強さ
は、この幸せから来るものなの。それを覚えておいて。あなたは幸せなのよ。
世界中の誰よりも、碇君に愛されているのだから・・・・・」

綾波はアスカに、ほとばしる想い、抑え付けられていた自分の想いを、一気に
ぶつけた。そして、いつもの寡黙な綾波から想像もつかないくらいの熱弁に、
僕もアスカも心を動かされた。綾波の論理自体を全て肯定することは出来ない
かもしれないが、綾波の言葉が、綾波の心が、僕とアスカを揺り動かした。

「レ、レイ・・・・」
「だから、私はあなたが泣くことなんて許さない。幸せなあなたに涙なんて似
合わない。碇君は笑顔のあなたが好きなのよ、アスカ。だから笑って。あなた
は不幸なんかじゃない。この・・・・この私に比べれば・・・・」
「・・・・ごめん・・・・ごめんね、レイ・・・・・アタシ、アンタの気持ち、
考えないで・・・・」
「私のことなんてどうでもいい。この私が誰に憎まれようと、疎まれようと、
碇君が私を守ってくれる。碇君だけは私の側にいてくれる。それが真の愛では
ないとしても、今の私はそれだけで充分だから、今の私には、それしかすがる
ものがないから・・・・」
「レイ・・・・」

アスカは涙を拭き、そして綾波を見つめた。
今の綾波には、一本の柱が見えた。それがどんな悲しみの色に彩られようとも、
柱は柱だった。だから綾波はそれがいくら辛くとも、それで自分を支えていか
なければならない。綾波はアスカとは違うのだ。綾波はそれが十分わかってい
るから、アスカにああ言ったのだ。アスカは幸せだ、と・・・・
僕は一概にアスカが幸せだとは言い切れない。しかし、アスカと綾波を比べた
ら・・・・アスカには悪いが、綾波の言う通り、アスカの方が幸せだろう。
でも、僕はアスカにも綾波にも、何も言うことは出来なかった。僕が口を開け
ば、アスカと綾波、どちらかが傷つくのだ。僕が何を言おうと、人を傷付けず
にはいられない。僕はやはり、不幸を招く存在であった・・・・


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