私立第三新東京中学校

第二百十二話・帰宅


僕と綾波は、ようやく僕達の住むマンションにたどり着いた。
月明かりで僕達の存在は闇夜にくっきりと浮かび上がっていたにもかかわらず、
幸運にも僕達は誰にも遭遇することはなかった。まあ、元々第三新東京市は人
通りが少ないし、マンションの周辺は民家も少なく閑散としていたので、そう
であってもおかしくはない。ただ、その偶然が、これからの綾波の未来を暗示
しているかのようで、僕は次第に心を穏かにしていった。

綾波は既にATフィールドを展開するのをやめていたが、僕に身体をぴったり
とくっつけている体勢は変えようとしなかった。
以前綾波がATフィールドで父さんの目の前にあったコップを切断したことが
ある。その時のATフィールドは僕の目には見えなかったので、綾波もかなり
手加減していたに違いない。ATフィールドは反応、もしくはかなり力が強く
ないと、目視することは出来ない。それを考えて見ると、渚さんに襲い掛かろ
うとした時の綾波は本気であり、学校の廊下で僕を阻んだ時の綾波も本気であ
り、そして僕と抱き締めあった時に展開した時も、綾波は本気だったと言えよ
う。もしかしたら、綾波はいまでも僕達の周りにATフィールドを張り巡らせ
ているのかもしれない。ただそれが、さっきよりも本気で展開しようとしてい
ないだけで・・・・

僕はそう思うと、綾波に訊ねてみた。

「綾波・・・?」
「何、碇君?」
「え、ATフィールドのことなんだけど・・・・」

僕がその話を持ち出すと、綾波はビクっと身体を震わせて、身を小さくした。
綾波もある程度は自分の力を受け入れられるようになってきたとは言え、やは
りそんなものはない方がいい、忌まわしいものだと感じているのだろう。しか
し、綾波がそう思うのも無理はない。綾波の気持ちが落ち着いてから、まだそ
れほど時は経過していないのだから。時間が全てを解決するとまでは言わない
が、やはり時間の経過は安定をもたらす。そして今の綾波の心は、まさしく不
安定なものなのであった。

「・・・・」
「その・・・今でも展開してる?」
「・・・うん。」
「・・・・どうして?」
「・・・碇君と私の間に、誰も入り込めないように・・・・」
「そ、そうなんだ・・・・」
「・・・・ごめんなさい。」

僕が少し納得すると、綾波は急に僕に謝ってきた。
綾波は僕ほどではないにしても、些細なことでよく謝る。しかし、それにはち
ゃんと原因があって、理不尽なその場しのぎの謝罪であることはまずなかった。
綾波の思考というのはそれほど複雑なものでなく、割とはっきりしている。だ
から、僕でも綾波がどうして謝ったのか、大概は即座に理解出来たのだが、今
回のこれは、綾波の謝る原因が全くつかめなかった。

「ど、どうして謝るの、綾波・・・?」
「だって・・・碇君、そういうの嫌いだろうし・・・・・」

綾波の答えを聞いて、僕はなるほどと思った。
確かに綾波の言う通りだ。僕はそう言う、人が全く入り込めないようにするな
んて言うのはあまり好ましく思っていなかった。例えばアスカが僕の腕を取り
ながら、反対では邪魔に思っている綾波を追い払うというような光景は、芳し
いとは言い難い。いや、はっきり言えば、少々むっと来るような事柄である。
まあ、アスカの場合、そこの微妙なポイントを考えて、適度に実行しているの
だが、それでもやはりアスカも完全ではないので、僕に不快感を与えることは
それほど珍しいことではないのだ。
しかし、綾波にそうはっきりと反省されてしまうと、僕も反対に綾波を許して
しまうような発言をしたくなるものだから困ったものだ。

「まあ・・・確かにそうかも知れないけど、綾波が謝ることもないよ。綾波が
そうしたい気持ち、僕だってわかるし・・・・」
「碇君・・・・」
「だから、玄関に着くまではこのままでいいよ。家に入る段になったら、やめ
て欲しいけど・・・・」
「うん・・・ありがとう、碇君・・・・」

綾波はそう言うと、きゅっと僕の身体を自分の元に引き寄せた。
まるで残り少ないこのひとときを、身体中で感じておこうとしているかのよう
に・・・・

そして僕達は、玄関先にまでたどり着いた。

「着いたね、綾波・・・・」

僕は言葉ではっきりと綾波に告げる。
家に着いたという事実が示す事柄は色々ある。だが、僕はわざわざそのことを
綾波にふれようとは思わなかった。ただ、ひとことそう言っただけだ。そして
綾波も僕の言おうとしていることが何と無くわかったようで、軽く身をすくめ
たが、僕の眼差しに導かれて、綾波は顔を上げてしっかりとドアを見つめた。

僕も綾波も、わざわざインターホンで中の人を呼ばずとも、二人とも鍵を持っ
ていたので、黙って中に入ることも可能だった。だが、それでは全く意味がな
い。誰か、特にアスカに迎えられて、綾波は家の中に入る必要があったのだ。
そして僕も綾波も、そのことを重々承知していたから、ポケットの中から鍵を
出そうとすらしなかった。

「・・・・押すのは綾波の役目だよ・・・・・」
「・・・わかってる。」

綾波はゆっくりとインターホンのボタンに手を伸ばす。それはそんなに長い時
間でもなかったが、僕にはまるで永遠のように長く感じられた。

ピンポーン!!

甲高いチャイムの音が鳴った。すると、その音が聞こえるや否や、すぐさま
玄関のドアが鋭く開かれた。

「シンジっ!!」

無論、それはアスカだった。
間髪入れず玄関のドアを開けたところをみると、ずっと玄関先で僕達のことを
待っていてくれたのだろう。しかし、確か以前にも、同じようなことがあった
ような気がする。嵐の晩、家に帰れずに綾波の家に泊めてもらって次の日の朝
に帰ってきた時も、アスカは僕の帰りをずっと玄関先で待っていてくれた。そ
れを見た僕はアスカが僕を心配してくれていたことに喜びを感じたが、今も同
じような感覚が、僕の胸を通り抜けた。

「アスカ・・・・」

僕は黙っているつもりだったけど、思わず声を出してしまった。
そして、そんな僕を見て、アスカもいつもの僕だと少し安心したのか、僕に向
かっていつもと変わらぬ調子で話し掛けてきた。

「おかえりっ、シンジ。遅かったわね、心配しちゃったじゃないの。」
「・・・・」

今度こそ、僕は沈黙を以ってアスカに応えた。
今見て欲しいのは僕ではなく、綾波の方であると言うことを・・・・
すると、アスカもそんな僕の心情をある程度察してか、僕にへばりつくように
している綾波に視線を向けた。

「・・・・」

が、アスカは何も言わない。冷ややかな目、という訳ではないが、あまり家族
を迎えるという感じの視線ではなかった。僕はアスカが何も言わない理由がよ
くわからなかったが、今の僕にはどうしようもない。ただ、二人の展開を待ち
望むのみだ。
すると、しばらくの沈黙の後、アスカが先に口を開いた。

「・・・・いい加減にしなさいよ・・・・」
「ア、アスカ?」
「甘えんのもいい加減になさいよ!!みんなに迷惑掛けて、それでアンタは黙
っているつもり!?自分から先に言えないの!?ごめんなさい、ただいま、っ
て・・・・」

アスカが怒る気持ち、僕にはわかった。そして今のアスカの言葉を聞いて、ア
スカが綾波の思っているほど綾波に隔意を抱いてはいないと言うことを悟った。

「あ、あの・・・・」
「ほら、シンジから離れなさいよ!!アタシのいないとこでは、どうせずっと
そうしてきたんでしょ!?もう十分じゃない!!」

くちごもる綾波の言葉を待とうともせず、アスカは僕から綾波を引き剥がしに
かかる。綾波は既にATフィールドを解いていたので、アスカに恐怖を感じさ
せるような出来事は何とか起こらずに済んだ。
そして綾波も、そんなアスカの姿に唖然としてしまって、アスカの為すがまま
になっていた。アスカは綾波と僕を離させると、改めて綾波に言った。

「何か言うことはないの、このアタシに?」

アスカは威風堂々としていた。そしてそんなアスカに触発されるかのように、
綾波はようやく口を開いた。

「・・・・ただいま。」

すると、アスカは表情を穏かなものに戻して、綾波に応えた。

「おかえり、レイ。心配しちゃったじゃない。」
「・・・ごめんなさい。」
「全く、授業はサボるは何やかんやで、いい迷惑よ。今度から、ああいうこと
は無しよ。いいわね?」
「うん・・・・」

アスカは何だかぷりぷりしている。まあしかし、僕は綾波の力について責めよ
うとはしないアスカの態度が、アスカの綾波に対する思いやりの強さを感じて、
何だか少しうれしくなった。

「ほら、中に入るわよ。いつまでもこんなところにいても、どうしようもない
じゃない。今日の夕食は、このアタシが作ったんだからね。もう冷めちゃった
んだけど・・・・」

最後のつぶやきめいたアスカの言葉は、アスカの今の本心を表していた。僕は
そんなアスカに接すると、無性にアスカにやさしくしたくなって言葉を掛けた。

「ごめんね、アスカ。せっかくアスカがわざわざ作ってくれたのに・・・・じ
ゃあ、もう遅いかもしれないけど、早速食べさせてもらうね。」

僕はそう言うと、そっと綾波の背中を押した。
そして、綾波を促しつつ、僕は玄関のドアをくぐり抜けた。

廊下をすたすたと歩きつつ、僕はアスカに訊ねた。

「・・・アスカ?」
「何、シンジ?」
「その・・・・」
「レイのこと?」

綾波がすぐ側にいて、しっかり耳をそばだてているにもかかわらず、アスカは
はっきりと綾波の話を出してきた。

「う、うん・・・まあ、そうなんだけどね・・・・」

僕は少し我ながら恥ずかしくなった。
逃げない云々と言っていたにもかかわらず、綾波の話を直接アスカに切り出さ
なかった自分が・・・・・

「レイは帰ってきたんでしょ?」
「う、うん。」
「なら、それでいいじゃない。」
「えっ?そんな簡単なことでいいの?」
「いいも何も・・・・帰ってくる気があるなら、ここはレイにとっても我が家
なのよ。それ以外のことは関係ないわ。」
「で、でも・・・・」

僕はアスカのあっさりした結論を素直に受け入れられず、少しくちごもって綾
波の方を見た。すると、綾波が僕の代わりにアスカに訊ねた。

「怖くないの?この私が・・・・?」
「・・・・」
「アスカ・・・?」
「・・・怖いわよ、今でも・・・・でも、仕方ないことじゃない。アンタがそ
うなのは、もうどうしようもない事なんだし・・・」
「・・・・」
「それに、シンジがアンタをここに入れるって決めたんだから、アタシはその
判断を信じる。アンタがやっぱり、綾波レイのままなんだってね。」
「・・・・・」
「まあ、そのことについては、また後でゆっくりと直接聞いてみるわよ。それ
より何より、早くご飯食べましょ。アタシ、アンタ達のこと、ずっとあそこで
待ってたからお腹ぺこぺこでさぁ・・・・」

アスカはそう言ってお腹のところに手を当てた。
何だか今すぐにでも「ぐぅぅ」と鳴ってしまいそうな、そんな気がしたので、
僕はアスカの姿を見て、思わず吹き出してしまった。

「ぷっ・・・そ、それもそうだね。アスカの言う通りにしようか。」
「あ、笑ったわね!?全く、人の苦労も知らないで・・・・待つことって、も
のすごくエネルギーの要ることなのよ。まあ、アンタには絶対にわからないか
もしれないけどね・・・・」
「ご、ごめんごめん。いや、別に悪気があった訳じゃないんだよ。ただ、ちょ
っとね・・・・」
「そ、そのちょっとって何なのよ?」
「いや、アスカらしいセリフだなーっ、と思って。」
「そ、それがアタシを馬鹿にしてるってことなのよ!!」

アスカはいつものごとくカッとして、僕に手を振り上げかけた。が、僕はその
前にアスカから離れると、アスカのビンタに空を切らせた。そして、小走りで
キッチンの方へと向かう・・・・
無論アスカは追いかけてきたし、綾波もその後に続いてきていた。
しかし、結局綾波はろくな会話をしなかった。僕とアスカがわざわざ話を明る
い方向に持って行こうとしたのに。所詮それは逃げの一つの形でもあるが、そ
れでもある程度話を引き出すことには役に立つはずである。だが、現実はそう
うまくは行かなかった。ここにいる綾波は、やはり不自然である。僕もアスカ
も、そのことには気付いている。だから精いっぱい場を明るくしようとするの
だが、それも空回りしている。
その原因は、僕も知っている。綾波を恐れていたアスカが、綾波を受け入れる
とはまだ言っていないからである。それがどうなるのか・・・・今のアスカで
は、よくわからなかった。ただ、僕は、そして綾波は、アスカの言葉を待つ、
それだけであったのだった・・・・・


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