私立第三新東京中学校
第二百十一話・月の誓い
僕はしばしの間、綾波と抱き締めあっていたが、さすがにいつまでもこうして
はいられない。綾波にとって時間なんて関係ないかもしれないが、僕にとって
は現実の存在も存在するのだ。僕を現実へと引き止める、アスカと言う存在が・・・・
「綾波・・・・」
「何、碇君?」
綾波の表情は、喜びに満ち溢れている。
が、僕は心の中で、それが今だけのものであることを知っていた。綾波の力が
なくなってしまったと言う訳ではなく、僕にそれが受け入れられたと言うだけ
にすぎない。だから、僕はともかく他の人間に関して言えば、何の解決も見出
さず、問題は残されていたのだ。
甘い夢に浸るのもよい。現に今の綾波はそれだ。しかし、それを夢のままに終
わらせてはならない。現実のものとしてこそ、価値が出てくるのだ。そしてそ
れを現実のものにすること・・・・それが僕の役目だ。
現実に、今の綾波は逃げてきたのだ。力ある自分の存在を人に溶け込ませよう
とはせず、人と隔絶することにより、自分の居場所を築こうとした。細かい点
はいろいろあろうが、簡単に言ってしまえば、そういうことだと思う。逃げる
ことに考え続けてきた僕には、今の綾波の状況が手に取るようにわかった。ま
た僕の勝手な思い込みかもしれないが、僕の中にも大事なこととそうでないこ
とがある。そして、逃げることについては、僕にとっては大事なことに当ては
まっていた。
僕は逃げ続ける自分が嫌だった。でも、そう思いつつも常に僕は逃げ続けてい
た。そしてわかっていながらもそうしてしまう自分が嫌で嫌でたまらなかった。
そう思いつつ、僕はなんとなく時を過ごしていた。そして僕は、この第三新東
京市にやってきた。複雑な思いを胸に抱いて・・・・
そして、そんな僕の前に現れたのは、アスカであり、綾波であり、みんなであ
った。みんなは、一人ぼっちだった僕に、それぞれの形で逃げないことを僕に
教えてくれた。みんながみんな、それぞれに問題を抱えているというのに、こ
んな僕の為に・・・・
僕は変わった・・・と思う。少なくとも、僕は変わらざるをえなかった。そし
て変わって行く中でも、みんなは色々僕に教えてくれた。僕が知らないこと、
僕に足りないこと・・・・
自分で言うのもなんだが、僕は少しだけ大きく、大人になれたような気がする。
それは僕の努力の賜物だけではない。みんながいたからこそ、僕は大きくなれ
たのだ。だから、僕もみんなの為に何かしてあげるべきだ。何かしてもらった
からとか、そういう代償行為でなく、僕が何もしなかったのに、何も与えなか
ったのに、僕に色々教えてくれたみんなと同じように、僕も何も得られずとも、
みんなに僕の何かをあげたい。それこそ僕の与えられるものは全て・・・・
そして綾波にも、僕の心をあげたい。
綾波は綾波なりに、僕に勇気を持つことの大切さを教えてくれた。それを教え
てくれたのは今の綾波でなく、僕をかばって消えていった昔の綾波だけど、そ
れでも綾波の本質に違いはないように感じる。だから、綾波は僕なんかよりも
ずっと強いはずだ。なのに今の綾波は、昔の僕と同じように逃げている。自分
の現実の姿から目を逸らして・・・・
僕だって綾波がどれだけ傷つき、苦しんで来たかということくらい察すること
が出来る。人の持たざる力を持つということがどういう事なのか・・・・知る
ことは出来ずとも、感じ取ることは出来る。今の幸せそうな綾波の真紅の瞳の
中に・・・・一筋のかげりが見える。今は幸せそうにしていても、逃げていて
も、全てを忘れ去ることは出来ないのであろう。逃げが何も生み出さないとい
うことくらい、僕も重々承知している。だから僕は、綾波と正面から向き合っ
て、そのかげりを取り除いてあげたい。それはきっと、この僕にしか出来ない
ことであろうから・・・・
「帰ろう、僕達の家へ・・・・」
「・・・・」
綾波は僕の言葉を聞くと、少しだけ表情を曇らせた。それは本当にわずかな変
化であって、普通ならば誰も気付かない程度のものであった。が、綾波のこと
にだけ神経を傾け続けていた僕には、それがすぐさまわかった。無論、僕の言
い出したことに綾波が躊躇するのは当然だった。綾波は人間じゃないという奇
異の目で見られるのが嫌で、そのせいで僕達に迷惑を掛けるのが嫌で、それで
こうして逃げ出してきたのだ。僕は綾波を受け入れるとはいったものの、周り
における綾波の状況は変わらなかったのだ。だから極端な話、綾波がこの僕を
連れて二人だけの世界を築けるどこかに行ってしまおうと言い出しても、少し
も不思議はなかったのである。そして、そうすることは綾波にとって、一番よ
いことであった。たとえ二人だけで生きてゆくことが困難なことであろうとも、
綾波ならば僕と二人でいられるということの方に価値を見出すだろう。
だが、それは逃げであった。世間から、人間から逃げて・・・・そんな事をし
て幸せを得たとしても、それは偽りの幸せでしかない。偽りの、見せかけの、
次善の幸せなんて、誰だっていつだって手に入れることが出来る。人がそれを
手にしないのは、それに価値がないとわかっているからだ。自己満足による幸
せなんて、誰も求めてはいない。真実の幸せを得るには、常に困難が付きまと
う。それは僕の場合にも、綾波の場合にも同じだ。しかし、困難だからこそ、
そこには価値が生まれてくる。滅多に手に入らないもの、なかなか手に入れら
れないものだからこそ、人はそれを求めるのだ。
なかには偽りの幸せで満足しようとする人もいるだろう。それはそれなりにい
い気分を味わえるものだ。しかし、僕はそんなのは嫌だ。ひたすら高みに駆け
登りたいとか、そういうつもりではないにせよ、いつでも手に入るもので終わ
りたくなんかはない。以前の僕はそういうものを手にしては、常に淡い失望を
感じ続けてきたのだから・・・・
「怖い・・・かい?」
僕はそっと、綾波の心に触れようとした。
すると綾波は、そんな僕に小さな心を見せてくれた。
「・・・うん・・・・・」
綾波は僕の腕に包まれたまま小さくうなずく。
綾波がまず見せたことのない感情、それは恐れであった。綾波は何事にも気丈
に立ち向かってきたし、涙を流すことはあっても、人の胸に抱かれたくなるこ
とはあっても、恐れの感情から来るものではなかった。
現に、あの学校の窓から飛び去って行く際にも、綾波は揺るがなかった。辛さ
や悲しさはあったにしても、何事をも恐れなかった。
しかし、今の綾波は、僕に新たな感情を見せていた。
それは紛れもなく、恐れであった・・・・
そして、その新たな感情の芽生えは、今日一日の出来事が綾波の心に大いなる
衝撃を与えていたということを証明していた。綾波の心は弱まっていた。痛み
を知らない空っぽの心ではなく、色々なものがぎっしりと詰まっている宝石箱
であった。その中に入っているものは、ちょっとでも乱暴に取り扱うと、壊れ
てしまうそうなものばかりで、綾波はそれを大事そうに仕舞い込んでいた。そ
の宝石箱自体はかなり頑丈なもので、誰もそれをこじ開けて中身を荒らすこと
は出来なかった。綾波が自分からその鍵を開け、見せてくれることでしか、そ
の中身を知ることは出来なかった。でも、その箱の頑丈さは完全なものではな
かった。今やその箱は無残にも大きなひびが入っている。もはやその中身は安
全なものではないのだ。
だから綾波は恐れる。恐れずにはいられないのだ。
「・・・・大丈夫だよ、綾波。怖がらなくても・・・・」
「碇君・・・・」
綾波はそっと僕の名前をつぶやくと、身を小さくして僕の庇護の下に入ろうと
した。そして僕はそんな綾波を更にふんわり包み込んでこう言った。
「綾波は言ってくれたよね、僕を守るって・・・・」
「・・・・」
「でも、今度は僕の番だね・・・・」
「・・・・」
「綾波のことは、僕が絶対に守るよ。誰が何と言おうと、綾波を傷つけさせた
りなんかしない・・・・」
「・・・・」
「だから・・・・」
「・・・」
「だから、恐れないで、綾波・・・・」
「・・・・」
「世界は綾波に扉を閉ざしたりはしないよ。きっとみんなも・・・アスカもわ
かってくれる。いや、この僕がわからせてみせる!!絶対に!!」
僕は大きな声で、自分の胸に秘めた決意を形に表した。
それは僕の、僕自身への神聖なる誓いだった。
僕の胸に抱かれた綾波に向かってでなく、
あの青白く輝く、白銀の月に向かって・・・・
そして僕は綾波をぎゅっと力強く抱き締めると、綾波の耳元に口を近づけても
う一度言った。
「だから帰ろう・・・・僕達の家へ・・・・」
「・・・・・・・・うん・・・・・」
綾波は僕の胸に顔を埋めたまま、小さく返事をした。
そして、闇夜に漂っていた僕達は、静かに下降し、そっと固い地面に降り立っ
た。しかし、綾波はまだ、ATフィールドを展開し続けている。それは薄ぼん
やりと、僕の目にも確認できた。
「綾波・・・・」
僕は軽く綾波を抱き締めていた腕の力を弱めると、ひとこと綾波に促した。普
通なら、これくらいでは絶対に何を告げたいのかわかるはずもない。しかし、
今の僕と綾波はひとつだった。二人を隔てるものは、何一つなかったのだ。
「碇君・・・・ごめんなさい。もう少しこのままで・・・・・」
「・・・・」
「・・・碇君とひとつでいたいの。こんな夜中に、誰もこの辺りを通る人はい
ないし、それに・・・・」
「・・・・」
「それに私は、碇君が守ってくれるなら、誰に見られたってもいい。何も恐く
なんてない・・・・」
「綾波・・・・」
「お願い、碇君・・・・」
そう言うと綾波は、そっと顔を上げ、僕の目を見つめた。
紅く輝くその綾波の双眸は、あの頭上の淡い光に反射して、一層美しさを増し
ていた。そして僕は、その瞳に応えて言った。
「いいよ、綾波・・・・しばらくこのままでうちに帰ろう。きっとみんなが、
僕達の帰りを待っていることだろうし・・・・」
「ありがとう、ありがとう、碇君・・・・」
僕は真剣な眼差しでお礼を言う綾波に、少し苦笑してこう言った。
「そんないいって。お礼なんて言わなくても・・・・」
「でも・・・・」
納得する様子を見せない綾波を、僕はやさしく諭した。
「綾波が僕を守ってくれた時、僕は何も言わなかっただろう・・・・?」
「うん・・・・」
「それは僕が綾波に感謝していなかったからじゃなくって、それが僕達には自
然なことだったから、僕は何も言わなかったんだ・・・・」
「・・・・」
「でも、今、それが崩れてしまった。僕は綾波に守られる立場でなくて、綾波
を守る立場に逆転したんだ・・・・」
「・・・・」
「そしてそれは、自然なことなんだよ、綾波。だから僕は、綾波にお礼なんて
言って欲しくない。それに綾波がこうなったのも、僕が原因なんだから・・・・」
「そんな・・・碇君は何も悪くない・・・・・」
「いや、僕がいなければ、綾波はきっとあんなことはしなかったはずだ・・・・」
「・・・・」
「でも、僕は自分がいない方がよかった、なんて絶対に思ったりしないよ。」
「碇君・・・・」
「僕は僕がこうしてここにいることに、純粋に喜びを感じているんだ。だから
綾波も、ここにこうして自分がいることに、喜びを感じて欲しい。あるがまま
の自分を受け入れて・・・・」
「あるがままの・・・私・・・・・?」
「そう。力を隠した綾波でなく、力を持つ存在であると受け止めた、あるがま
まの自然な綾波・・・・」
僕はそう言うと、穏かな微笑みを浮かべて綾波の応えを待った。
少し先走りすぎたかもしれない。
が、今の綾波には、その答えが必要だった・・・・
「私・・・・」
「・・・・」
「私、力なんて持ちたくない。でも・・・・・」
「・・・・」
「碇君が・・・・碇君が側にいてくれるなら、私は・・・・力を持つ自分を、
受け入れられるような気がする・・・・」
「綾波・・・・」
「碇君・・・・」
「・・・自分を恥じることなんてないよ、綾波。何があろうと、僕が綾波を愛
していることに変わりはないんだから・・・・」
「碇君・・・・」
「行こう、綾波。我が家が僕達の帰りを待ってる・・・・」
「うん・・・・」
こうして僕と綾波は、二人寄り添ってアスカ達の待つ家に向かった。
ひとつのATフィールドの中で、ひとつになって・・・・
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