私立第三新東京中学校

第二百十話・離したくない


「シンジ・・・・」

僕の言葉は、アスカを沈黙させるほどの重みがあった。
実際、僕は何もわかっていないのだ。ただ僕は、言わば自分の思うままに振る
舞っている。それは自分勝手とかそういう事ではなくて、価値基準を全て自分
に合わせているに過ぎない。だから、僕がしていることは、アスカや綾波の気
持ちがわかって、それを念頭においてしているのではなく、相手がもし自分だ
ったらどうしてもらうとうれしいかとか、そういう考えから生まれ出たものな
のである。それは別に意識してそうしている訳ではない。だが、アスカがいつ
も言うように、僕は鈍感なので、あまり、と言うかほとんど人の心の機微を察
するの関しては出来ていないと言えよう。運がいいことに、今までは僕の考え
とみんなの考えがある程度合致して、問題なくやって来た。しかし、それが噛
み合わなくなり、空回りし出したら・・・・でも、人の心は難しい。

「ごめん、アスカ・・・・謝ってばかりだけど、今は僕も、謝るべきだと思う。」
「・・・・」
「・・・だから僕は行くよ。綾波を捜しにね。綾波の気持ちがわかってない以
上、足で稼ぐしかないからね。」
「じゃ、じゃあ・・・・」

アスカは何だか少し思いつめたような顔をして、僕に言いだそうとした。しか
し、僕は勢いに任せてそのまま言葉を続け、結果としてアスカの発言の機会を
奪うこととなった。

「まだ夜になったって言ってもそんなに遅くないし、しばらく街中をぶらつい
てみるよ。だからアスカは家に帰って僕のことを待ってて。一日中歩き回って
疲れただろうから・・・・」
「シンジ・・・・」

どうして僕はこんな事を言ったのだろう?
まるでアスカを追い払うような言葉を。
しかし、僕にはそれが現実だった。アスカが邪魔だとかそういう訳ではないが、
アスカが一緒にいれば、綾波は絶対僕の前に姿を現さないだろう。別に綾波が
アスカを嫌っているからとか、そんな事はないと思うが、綾波にとって自分の
力を一番否定している存在と言えば、間違いなくアスカだろう。アスカは僕の
次くらいに人間としての綾波を愛していたので、それだけに綾波も辛い。人間
としての自分は愛してくれるが、いざ力を持つとなると、壁を築いて受け入れ
てくれない。綾波は今までそういうことを経験したことはないが、間違いなく、
それが来る日をずっと恐れ続けていたに違いない。そして、それは今、現実の
ものとなった。綾波がどこまでのものを考えていたのか、それはわからないが、
綾波がみんなの前から姿を消そうとした以上、綾波にとって最悪の結果に終わ
ったのだと言うことは、容易に想像がつく。しかし、それをそのまま終わらせ
てはならない。みんなが力を持つ綾波を受け入れてくれなくとも、全ての人々
が綾波を拒んだとしても、僕だけは、僕だけは綾波の全てを知った上で受け止
めて、そして愛しているのだと言うことを、それだけを伝えたい。そして、そ
れ以降は全て綾波の意思に委ねようと思う。僕達の元に帰ることを無理強いす
るつもりはないし、綾波が僕の気持ちを知った上で尚、僕の前から姿を消すと
言う気持ちを固めたのならば、僕にはもう、何も言う権利はない。綾波にひと
こと、「さよなら」と言うだけだ。それが僕にとって、一番言いたくない言葉
だったとしても・・・・

「じゃあアスカ、そういうことで・・・・」

僕はそう言うと、アスカに軽く手を振って、そして背を向けるとそのまま歩き
出した。

「・・・・」

僕の見えないところで、アスカが思わず手を伸ばす。
が、それは空を切っただけだった。そしてアスカの右手は宙をさ迷ったまま、
僕の方に向けられていた。まるで行ってしまう僕を、引き止めたいかのように・・・・

しかし、そんなアスカの姿は、僕の目には届かない。アスカの気持ちに全く気
付かない僕は、そのまま早歩きで街灯の照らす夜道を先へと進んでいった。が、
僕の心の奥底では、アスカの気持ちになんとなく気付いていたのかもしれない。
なぜなら、僕には行く方向なんて決まっている訳じゃないのに、わざわざアス
カに背を向けて行ったのであるから。別れ・・・・と言う訳ではないが、アス
カはそれに近いものを感じたのだろう。いや、綾波を追い求める僕に、不安め
いたものを感じたのかもしれない。
ともかく、僕とアスカの心はすれ違ってしまった。そしてそれがいつ再びひと
つになるのか・・・・それは誰にもわからない。

「・・・・・」

僕の歩みは、次第に速さを増していった。
僕の疲労は間違いなく既にピークに達しているであろうし、わざわざそうする
必要もない。ただ、僕は自然とそうなっていたのであった。何か心の中に焦り
を感じているのか、それとも・・・・・僕に何かが見えているのか。

取り敢えず僕は、足の赴くままに、先へ先へと進んでいった。本来ならば綾波
を捜してきょろきょろすべきであるのに、僕の目は一点、前方にしか向けられ
ていなかった。僕はもしかしたら、綾波を捜しているのではなく、綾波に見付
かる場所を捜していたのかもしれない。綾波が僕の前に自分から姿を現すこと
を信じて・・・・

ふと気がつくと、僕は街から少し外れたところに来ていた。
そこは、僕がこの第三新東京市の中で一番好きな場所の一つ、あの湖のほとり
だった。ここはまだ、僕達の闘いの爪痕が残されている場所であり、今まで通
ってきた広い道路とは違い、人々が散歩して出来た小道があるのみで、街灯も
なかった。したがって、暗闇の中の僕に光をくれるのは、湖に大きく映る、あ
の天空の月だけであった。

そして彼女はそこにいた。
自分にも象徴される、あの青白い月を見上げて・・・・

「・・・・」

綾波は気付いているのだろうか?
僕がここに来ていることに。
多分、かなり前から、僕の存在は知っているのだろうと思う。ただ、それを知
っていても、綾波は何らの反応も示そうとはしなかった。そして僕も、岩の上
に立ってたたずみながらずっと月を眺めている綾波のことを、じっと見つめて
いた。
綾波は間違いなく、僕の視線を感じている。
しかし、それに気付く素振りすら見せない。まるで僕などここにはいないかの
ように・・・・
僕はしばらくしてそう思うと、自分がここにいるということを形に表す為、綾
波にひとこと呼びかけた。

「綾波・・・・」

すると、綾波はそのままの姿勢を全く崩さずに、わずかに口元だけ動かして僕
に応えた。

「・・・何?」

それは、あまりにもそっけなさ過ぎるものであったが、僕は綾波が僕に応えて
くれたということ自体を喜んでいた。そして、僕は振り向いてくれない綾波に
向かってそのまま言葉を続けた。

「・・・綺麗だね、月・・・・・」
「・・・・そうね。」

僕と綾波の言葉は、まるで今までに何事もなかったかのような会話であった。
今朝の衝撃的なあの出来事もなく、また、僕達には何の関係もないかのように
よそよそしく・・・・でも、それは仕方のなかったことなのかもしれない。

「・・・・どうして・・・・ここにいるの?」
「・・・・ここは、私の場所だから・・・・」
「・・・綾波の?」
「そう、私の場所・・・・昔の私が、作ってしまった場所・・・・」

確かにそうだ。
この湖は、あの時綾波が自爆して出来たものであった。
そして、あの綾波が死んでしまった場所でもあるし、今の綾波が生まれ出でる
きっかけを作った場所でもあった。そう思うと、ここは少なからず綾波につな
がりの深い場所である。綾波の思い出深い場所としては、住んでいたアパート
やネルフ本部などがあるが、自然の場所としては、ここだけしかなかった。

「・・・・そうだね。そういうこともあったね。」
「・・・でも、私はそれを知らない。赤木博士から、それを聞いているだけ・・・」
「・・・・」
「・・・・・・」

そして、会話は途切れた。
僕はあまり話の上手い方ではないし、そもそもあまりべらべらとしゃべってい
ても意味がないように、僕には思われた。綾波の方はどう思っているのか僕に
はわからないが、綾波は僕以上に人との会話が上手くないし、別に話す必要も
なかった。しかし、しばらく沈黙が続いた後、綾波の方から僕に話し掛けてき
た。無論、いまだに月を見上げたままで、僕の方を向いてはくれなかったが・・・

「・・・・どうして・・・・」
「えっ?」
「・・・どうしてここにいるの?」
「ど、どうしてって・・・・?」
「帰って。あの人が待っているわ。」
「・・・・・・」
「あなたの声を聴くのは、私にはつらいことなの。だからお願い・・・・」

綾波の声は、心なしかわずかに震えていた。
内容はいつも以上に素っ気無いもので、昔の綾波を思い出させたが、僕は感じ
ていた。今の綾波は、心のある綾波のままであることを・・・・

「・・・じゃあ・・・・どうして綾波はここにいるの?」
「・・・・」
「綾波にどこかに行けって言う訳じゃないけど、自分から行くことも出来るん
だし・・・」
「・・・・」
「・・・僕は綾波がいる限り、ずっとここにいるよ・・・・」
「・・・・・」

僕はそう言うと、今まで以上に熱を込めて綾波を見つめた。
すると綾波は、とうとう耐え兼ねて僕の方を見ると、喉から絞り出すように言
葉を発した。

「・・・どうして・・・・そういうこと言うの・・・・?」
「・・・・駄目かな、言っちゃ・・・・?」
「・・・あなたの言葉は、私を苦しめる。私の弱い心に、甘い蜜を滴らす・・・・」
「・・・・・別に僕は、綾波を甘やかして言ってる訳じゃないよ。それに、た
だ綾波に帰ってきて欲しいから言ってる訳でもない。」
「・・・・」
「僕は綾波が好きだから・・・・だから言ってるんだ。そこのところを、綾波
もわかって欲しい・・・・」

それは僕の心からの言葉だった。
そして今の僕の脳裏には、アスカの姿がよぎることもなかった。
アスカと比べてどっちが、とか、家族として、とか、そう言う細かいことも、
僕の頭を悩ませることはなかった。ただ僕は、純粋に綾波レイと言う個人を愛
していたのだ。それ以上でもそれ以下でも、何でもなかった。

そして、そんな僕の言葉を聞いた綾波は、僕のことをじっと見ていた。
感情のない顔に、感情の存在を証明する、一筋の涙を流して・・・・

「どうして・・・・どうしてそういうこと言うの?」
「・・・僕の気持ちを、綾波に伝えたいから・・・・言葉でないと、伝わらな
いこともあるから・・・・」
「・・・・碇君・・・・・」

綾波はとうとう、僕の名前を呼んだ。
それまでずっと、僕との隔たりを示すかのように、僕のことを「あなた」と呼
んでいたのに・・・・
それを聞いた僕は、嬉しさを隠すことなく微笑んで綾波に言った。

「ようやく言ってくれたね、僕の名前・・・・」
「碇君・・・・碇君、碇君、碇君!!」

綾波は抑え付けていた感情を爆発させるかのように僕の名前を叫ぶと、岩から
飛び降りて僕の元へと駆けつけた。そして、そのまま僕の胸に飛び込む・・・・

「どうして・・・・どうしてそんなにやさしいの、碇君は・・・・?」

綾波は僕の胸に顔を埋めたまま、涙声でそう言った。
そして僕はそんな綾波に向かって、言い聞かせるように言う。

「僕は別にやさしいから言った訳じゃないよ。そこを勘違いしないで欲しい・・・・」
「碇君・・・・」
「僕が言った言葉は、綾波を引き止める為の方便なんかじゃない。僕は心から
そう思ったから言ったんだよ、綾波が好きだって・・・・」
「碇君・・・・」
「綾波・・・・」

僕は綾波の名前を呼ぶと、そのまま包み込むように綾波を抱き締めた。
すると、綾波も僕の背中に腕を回して、抱き締め返してきた。

「碇君・・・・?」

綾波は僕の胸から顔を上げて訊ねる。

「何、綾波・・・・?」
「こんな・・・・こんな私でもいいの?こんな私でも・・・・」

僕はそれを聞くと、穏やかに微笑みながら応えた。

「いいも何も・・・・綾波だから、僕はこう言ったんだよ。」
「私に力があったとしても・・・・?」
「うん。」

僕はよどみなく、綾波の問い掛けにしっかりうなずいて答えた。

「碇君・・・・」
「綾波・・・・」
「・・・・このままずっとこうしていたい。そして、二人でどこかに行ってし
まいたい・・・・」

綾波はそう言うと、ぎゅっと僕を抱き締めた。

「・・・もう、離したくない・・・・」

綾波の言葉を聞いた僕は、少しだけ綾波の身体に回した腕の力を強めて、綾波
に応えた。

気がつくと、僕と綾波の足が地面からわずかに浮いていた。
きっと綾波が無意識のうちにATフィールドを展開し、僕をその中に包み込ん
でいるのだろう。僕は何だか、綾波のあたたかさに包まれているような、そん
な感じがした。そして僕は、自分が宙を漂っていることに、全く違和感を感じ
なかった。むしろ、それが自然のような・・・・
それが何なのか、僕にはわからない。
ただ僕は、その感触に身を委ねることにした。
心も、そして身体も・・・・・


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