私立第三新東京中学校

第二百八話・紅い瞳


「・・・・」
「シンジ・・・・」

うなだれる僕に、アスカがそっと頭上から声を掛ける。
しかし、心配に満ち溢れたアスカの声も、僕の耳には届かなかった。
ただ、綾波の最後の言葉、「さよなら」と言う言葉が、僕の頭の中でこだまし
ていたのだ。
アスカはそんな僕に対して、悲しそうな表情を浮かべていたが、アスカでさえ
ももうそれ以上は何も言えなかった。

そして、綾波の衝撃の出来事は、辺りに沈黙を呼んだ。
せめてもの救いは、この周辺にいたのが僕達だけだったということで、無関係
の人間が直接今の話を聞き、光景を目の当たりにすることはなかった。
しかし、廊下の窓から飛び去った綾波を外で目にしたものはまず少なくとも数
人はいるであろうし、綾波と関係があるとは言え、トウジ達がいきなりあんな
光景を見せられては、間違いなくアスカ以上に衝撃を受け、綾波を拒むことは
必至であった。

何ともいえぬ気まずい空間はしばらく続いたが、それを破って渚さんが僕に言
った。

「・・・シンジ君、何と言っていいのか・・・・」

渚さんの言葉は、格別意味のある言葉でもなかったが、僕は渚さんと言う存在
を思い出して跳び起きると、渚さんにすがり付いて言った。

「な、渚さん!!君なら綾波を止められるだろう!?綾波を捕まえてよ!!」
「シンジ君・・・・」
「僕のことを好きだというなら、綾波を捕まえてよ!!お願いだから!!」

もう、僕にはほとんど理性が残されていなかった。
ただ、失った綾波を取り戻したい一心であった。
そしてそんな僕に対して、渚さんは静かに応えた。

「・・・・それは出来ないよ、シンジ君。」
「ど、どうしてさ!?」
「確かに僕には彼女を追いかけることは出来る。しかし、僕のことを憎んでい
る彼女が、僕の言葉で大人しく戻ってくると思うかい?」
「そ、それは・・・・」
「だから、僕がやるなら彼女を連れ戻すには力ずくでしか有り得ない。そして、
それを実行に移すならば、きっとどちらかが傷を負うことだろう。つまり、そ
うした場合、君は僕か彼女か、どちらかを失わなければならないんだ。僕は別
にそれでも構わないが、きっとシンジ君、君はそれを肯んじ得ることはないだ
ろう。」
「・・・・渚さんの言う通りだよ・・・・」
「だから、彼女を連れ戻すには、君自身が行かなければならない。彼女にとっ
て最愛の、シンジ君でなければ・・・・・」

僕は渚さんの言いたいことがよくわかった。
そして、その言葉一つ一つが全て納得できた。
つまり、綾波を取り戻すには、今、僕が行かなければならないのだ。
どうして僕は、こんな簡単なことがわからなかったのだろう。
綾波を追いかけることくらい、僕にとっては何でもないのに・・・・
まあ、見つかるかどうかはまた別問題だが、そんなことは僕には関係ない。
綾波が見つかるまで、僕は探し続けるのだ。

僕は渚さんの言葉に、黙って大きくうなずいて見せた。
そして、周りにいたみんな、アスカや渚さん、トウジ、ケンスケ、洞木さんの
顔をぐるりと見渡してから、僕は拳をぐっと握り締めると、綾波を求めて走り
出した。

「シンジ!!」

アスカは僕が最後に見た時、顔を強張らせていたが、きっと僕の行動を予期し
ていたのだろう。もしかしたら、アスカは綾波のことを強く思い、戻って来て
欲しいとさえ思っていても、それでも尚、僕に行って欲しくはなかったのかも
しれない。
が、いつもなら簡単に感じることの出来るそんなアスカの感情も、綾波のこと
しか頭にない今の僕には、それを感じるゆとりさえなかった。

アスカはそうひとこと叫ぶと、凄い勢いで走りゆく僕を追いかけて、駆け出し
ていった。アスカは僕より走るのが速かったが、それでも今の僕には絶対に追
いつけなかった。我を忘れて走る僕には、肉体的疲れすら感じなかったのだ。

「アスカ!!碇君!!」

洞木さんも、とっさのことに反応が遅れたものの、慌てて僕達を追いかけよう
とする。しかし、そんな時、トウジが洞木さんの腕をつかんで引き止めた。

「鈴原、離して!!」

冷静さを欠く洞木さんは、自分を止めるトウジに向かって叫んだ。
が、洞木さんとは対照的に、トウジは冷静さを保っていた。そしてトウジは洞
木さんを諭すように静かに言った。

「やめい、いいんちょー。」
「どうしてよ!?」
「無駄や、いいんちょーが行ってもな・・・・」
「どうしてそんな事が言える訳!?みんなで探せば、綾波さんだってすぐに見
つかるわよ!!」

自分の言うことを聞かないトウジにわずかにいらだちを覚えながら、洞木さん
は声のテンションを落とそうとはしない。だが、トウジはあくまでも穏やかに
洞木さんにひとこと訊ねた。

「ほんまにいいんちょーは、わいらで綾波を見つけることが出来ると思っとる
んか・・・?」
「・・・・・」
「いいんちょーもあれを見たやろ?ならいいんちょーにもわかるはずや。綾波
が自分から見つかろうとでも思わん限り、わいらが綾波を見つけることは出来
ん・・・・」
「・・・・」
「いや、きっと惣流の奴でも無理やろな。せやから・・・・」
「碇君?」
「そうや。シンジや。あいつにしか綾波を連れ戻すことは出来ん。わいらはた
だ、あいつらの帰りをしっかりと守ってやることしかないんや・・・・・」
「鈴原・・・・」

トウジの言葉で、ようやく洞木さんは落ち着きを取り戻すことが出来た。
トウジはそんな洞木さんの様子を確認すると、そのままの調子で話し続けた。

「悲しい話やけど、綾波はわいらの遠くへ行ってしもうた。そして、それと一
緒にシンジと惣流も・・・・・」
「・・・・」
「やっぱりあないなもんいきなり見せられた日にゃあ、なんだかんだきれいご
と言うても、綾波を普通には見れんからな・・・・」
「・・・・」
「でも、わいにとって綾波は綾波や。シンジも綾波も、わいらにはそう思って
欲しいと願ってることやと思う。このわいにも難しいことやも知れんが、少な
くともわいらだけは、綾波の友達として、綾波を見てやろうやないか・・・・」
「鈴原・・・・」

すると、トウジの言葉に賛同するように、ケンスケも口を開いた。

「トウジの言う通りだよ。俺達は綾波やシンジ達に何もしてやれないけど、あ
いつらと今まで通りに付き合ってやることが、一番うれしいことだと思う・・・・」

そして、何とはなしに、トウジとケンスケ、洞木さんの視線が、一斉に渚さん
に向けられた。

「渚・・・・」
「何だい、鈴原君?」
「お前・・・・綾波と同じなんやろ?」
「・・・・ああ。」
「つまり・・・・」
「そういうことだよ。君の想像している通りさ。」

渚さんは少し悲しい顔をしながらも、言葉を待たずしてトウジの想像を肯定し
た。それを聞いた、と言うより見たトウジは渚さんに向かって言った。

「さよか・・・・わいらが綾波を綾波としてみると決めた以上、お前も渚とし
て見んとあかんな・・・・」
「・・・・・」
「わいには細かいことはようわからん。せやけど、シンジはお前を信じると言
うた。わいはシンジのことを信じとるから、渚、お前のことも信じようと思う。
たとえお前が何者であろうとな・・・・」
「鈴原君・・・・」
「まあ、細かいことは気にすんな。わからん事はわからんし、あとはシンジ達
に任せようやないか。な!?」

トウジはそう言うと、ぽんと渚さんの肩に手を置いた。そしてみんなの顔を見
渡して目で合図すると、新しい教室へと向かって行ったのだった・・・・


「渚さん、ちょっと・・・・」

既ににぎやかな三年生の教室に入ってしばらくした後、いつのまにか一人でぽ
つんとしていた渚さんに、洞木さんが声を掛けた。

「洞木さん・・・・この僕に何か用かい?」
「ううん、大した事じゃないんだけど・・・・」

洞木さんは口ではそう言っていたものの、顔に出ていた表情は何やら問題あり
げなものを含んでいた。

「そう?でも、僕に話があるんだろう?」
「うん、そうなんだけどね・・・・」
「言ってごらんよ。僕はもう、何を言われても気にしないから・・・・」

渚さんはもしかすると、例の力のことで、洞木さんに言われると思ったのかも
しれない。そもそもトウジはともかくとして、一番そういうことを受け入れが
たいのが、洞木さんだろう。裏返してみれば、一番現実的であって、日常生活
においては頼りになる存在である。しかし、そうだからこそ、現実の範疇から
外れるものに関しては、頑なな態度を取るのが自然である。
だが、言いにくそうに洞木さんが発した言葉は、渚さんの心配からは外れてい
た。

「その・・・・渚さんが好きなのは、碇君なのよね?」
「そうだよ。でも、それが何か?」
「いや・・・・ごめんなさい、あたし、嫉妬深くって・・・・鈴原が誰かに必
要以上にやさしくしちゃうと、どうしても不安になっちゃって・・・・・」
「そう・・・・でも、鈴原君もいいよね。好意に値するよ。」
「えっ!?」

渚さんの何気ないひとことは、洞木さんに驚愕を与えた。が、それを見た渚さ
んは、軽く笑みを漏らしながら安心させるように洞木さんに言った。

「いや、ちょっとした冗談さ。確かに鈴原君は君が好きになるくらいに素敵な
男の子だろうけど、やはり僕はシンジ君の方が好きなんだ。だから君も心配す
る必要はないよ。」
「そ、そう?な、ならいいんだけど・・・・ごめんなさいね、変なこと聞いち
ゃって・・・・」
「そんな事気にしなくてもいいよ。僕だって君の気持ち、よくわかるからね・・・」
「な、渚さんが?」
「そうだよ。君にとって鈴原君は独占できる存在だけど、僕はシンジ君を独占
できる訳じゃないから・・・・」
「あ・・・・」
「一応僕は、シンジ君の恋人候補としては、後発だからね。シンジ君は僕のこ
とをかばってはくれるけど、多分好きとかそういう感情じゃないだろうしね・・・・」
「・・・・」
「今のシンジ君の心には、惣流さんと綾波さんしか存在していない。何とか僕
の存在もシンジ君の中に割り込ませることが出来たけど、やはりまだ、シンジ
君の心を手に入れることは出来ないだろう・・・・」

洞木さんは、渚さんの言葉にいちいち納得したかのように軽くうなずきながら
聞いていた。が、最後のくだりで表情を一瞬だけ堅くした。洞木さんがそこに
何を感じたのか、洞木さん当人以外は知ることは出来ないが、ともかく洞木さ
んは気を取り直したのかすぐに元の表情に戻ると、渚さんに向かって言った。

「・・・・あたしはアスカとは一番の親友だし、綾波さんとも仲良くさせても
らってる。だから渚さんの応援は出来ないけど、碇君が早く戻ってくるといい
わね。大変なのはわかってるけど、やっぱり今日は初日なんだから、一度も顔
を見せないって言うのは問題じゃない。」
「そうだね、早く帰ってくるといいんだけど・・・・シンジ君・・・・」

渚さんはそうつぶやくと、遠い目で窓の外の景色を見た。
だが、洞木さんの目にも誰の目にも、いつもと変わらない光景が広がるのみだ。
青々とした山の緑と、霞んで見えるビルの林・・・・
しかし、それだけではなかった。
渚さんの瞳に浮かぶ紅い光・・・・
それが何を映しているのか、誰も知ることは出来ない。
そして、誰も渚さんの視線には気付かない。
だが、渚さんは何かを見ていた。
誰にも見えない何かを、その神秘的な紅い瞳で・・・・


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