私立第三新東京中学校
第二百七話・さよなら
「・・・どういうつもり?」
綾波の小さな口から、冷たい言葉がこぼれる。
それは、綾波が先程から鋭い視線を浴びせ続けていた、渚さんに向けられたも
のであった。
そして、そんな綾波に対して、渚さんはもう敵だと半ば認めてしまったのか、
いつもの微笑はやめ、無感情の視線を向けつつこう言った。
「どういうつもりも何も・・・言葉の通りさ。」
「・・・・あなた、私の碇君をどうするつもり?」
「どうもしないよ、僕は。」
「嘘。あなたの言葉は信用できないわ。」
「どうして・・・?」
渚さんがそっと綾波に訊ねると、綾波は少しくちごもり、そして僕の顔を見た。
僕はそんな綾波の視線の意図に気付き、軽く横に首を振った。綾波は僕の意思
を確認すると、渚さんに向かって答えた。
「・・・・ここでは言えないわ。」
「そう・・・ならどうしようもないね。」
「・・・・でも、どうしてそんな事を言うの?」
「そんな事、とは・・・?」
「・・・碇君のことを、好きだって言ったことよ。」
「・・・・・君にはわからないかい?」
「わからないわ。」
「じゃあ、君はどうしてシンジ君が好きなんだい?」
「・・・・あなたに言う必要はないわ。」
「それもそうだね。でも、僕には大体のことがわかるよ。」
「・・・・どういうこと?」
「僕がシンジ君を好きな理由、それはきっと、君と同じだからさ。」
「・・・・・」
「君を認めてくれた唯一の人間がシンジ君であったように、僕を認めてくれた
唯一の人間も、シンジ君なんだ。そして君と僕は・・・・」
「やめて!!」
渚さんの言葉を遮って、綾波が叫んだ。
渚さんはそれを聞くと、言葉を中断させた。が、僕には渚さんが言いたかった
ことの見当はつく。つまり、渚さんは「自分と綾波が同じ」だと言おうとした
のだろう。そして綾波にも、渚さんがそう言うであろうことがわかった。だか
ら、綾波は悲痛な叫び声をあげて、渚さんがそれを言うことを阻止したのだ。
渚さんにとって、綾波とはどういう存在なのか、僕にはよくわからない。しか
し、綾波にとって渚さんは、忌むべき存在であった。使徒であるかもしれない
存在で、なおかつこの僕に近付く。それだけで綾波に敵意を抱かせるというの
に、渚さんが使徒であるのではということが現実味を帯びて来た今、それは更
にエスカレートした。そして、渚さんが綾波と同じ、人ではない存在であるの
に、人として生きたい綾波は、それと同じであると言われることが耐えられな
かったのであろう。
僕はそう考えたのだが、それと同じ見解に立てた人間は誰一人としていなかっ
た。そもそもトウジ達は、綾波や渚さんの力については何も知らない。だから、
そういう発想を持つことすら不可能である。しかし、アスカはついさっき知っ
たことではあるけれど、一応力の存在については知っている。だから、もしか
したら綾波の気持ちを察することが出来ているのかもしれない。しかし、それ
以上にアスカは恐れていた。自分をいとも簡単に排除できる、この二人のこと
を。
僕は今、アスカのことを考えて、はじめて今のアスカの状態に気付いた。
アスカはおびえていたのだ。アスカが僕の後ろに隠れたことは知っていたが、
綾波と渚さんが一触即発の今、アスカは僕の背中にぴったりとしがみついてい
た。別に震えていたりはしないが、僕の背中から、アスカの不安な気持ちが伝
わって来た。僕はそれに気付くと、そっと右手を後ろに差し出した。すると、
アスカはその手をしっかりと握り締めた。絶対に離さないように、強く、強く・・・・
「シンジ・・・・」
わずかな震えを伴った、アスカのか細い声。僕はそれに対して、軽く首をひね
ると、やさしくアスカに声をかけた。
「・・・何、アスカ?」
「・・・・シンジは・・・恐くないの?」
「恐くないよ。」
「どうして?殺されるかもしれないのに・・・・」
「殺されたりしないよ、僕は。」
「どうして?どうしてそう断言できるの?」
「・・・・綾波が僕を、守ってくれるから。」
「レイを・・・レイを信じているの?」
「うん。それに・・・・」
「なに?」
「綾波だけじゃなく、渚さんも信じてる。」
「どうして?あいつはアタシ達に危害を加える存在なのに。」
「そんな事はないよ、アスカ。僕は渚さんの心に触れたから、彼女の気持ちが
わかるんだ。渚さんは絶対に、僕達を傷つけることはないよ。」
「・・・・」
「それに、僕は信じたいんだ。」
「・・・・なにを?」
「人の・・・・人の言葉を・・・・・」
「・・・・シンジ・・・・・」
「人を疑うのは簡単だよ。でも、人を信じるのは難しい。そして、難しいから
こそ、価値があるんだ。今まで僕は、難しいからっていうだけで逃げて来たけ
ど、僕はもう、そんなくだらない逃げで自分を貶めるのは嫌なんだ。」
「・・・・」
「渚さんを疑う理由はいくらでもあるさ。でも、信ずべき理由だってある。だ
から僕は、それを大切にしたいと思う。」
僕の言葉を聞いたアスカは、後ろからそっと抱き付いて僕に言った。
「・・・・やっぱりシンジは、シンジなんだね。」
「えっ?」
「アタシなら、そういう風には絶対考えられないもん。」
「・・・・・」
「だからね・・・だから、アタシはシンジが好きなんだよ。誰よりもやさしく
て、そして誰よりも強くて・・・・・」
「アスカ・・・・」
「シンジはアタシとは違う、本当の強さを持ってる。だからみんな、シンジの
ことが好きなのよ。アタシもレイも、そして渚も・・・・・」
アスカはそう言うと、そっと僕の身体から離れて、いつのまにか僕とアスカの
やり取りに聞き入っていた二人のうち、渚さんに向かってこう言った。
「・・・よかったわね、アンタ。」
「・・・・どういうことだい?」
「アンタが何者だろうと、きっとシンジが守ってくれるわよ。たとえレイがア
ンタを嫌っててもね。」
「・・・・」
「いくらアンタの方が力があるって言っても、所詮今のアンタは一人ぼっち。
誰もかばってくれやしないわ。レイのようにはね。」
「・・・そうだね、君の言う通りだよ。」
「でも、だからこそ、シンジはアンタを守るのよ。アタシとレイが喧嘩した時、
大抵シンジはレイをかばうように・・・」
「・・・・」
「だから、アンタの言葉が本当だとしたら、シンジに迷惑をかけるのはやめる
のね。レイとも余計な揉め事を起こさないで。」
「・・・・わかってる、わかってるさ、僕だって・・・・」
「どこがよ!?アンタのしてることは、ただ騒動を撒き散らしてるだけなのよ!!
ところ構わずしゃしゃり出て来て爆弾発言をしてみたり・・・・シンジが困る
って思ったことないの!?シンジが好きなら、もう少しシンジの立場を考えて
あげなさいよ!!それじゃあまるで、ちょっと前のレイみたいじゃない!!」
アスカはしゃべっているうちに、恐れを忘れてしまったのか、それとも僕が渚
さんを信じると言ったことを受けて、自分にも身の危険はないと思ったのか、
とにかくだんだん熱がこもってしまって、最後にはいつものアスカになってし
まっていた。
だが、それがアスカの油断を呼んだ。アスカの言った最後の言葉は、綾波にと
っては聞きたくもない言葉だった。僕はそれを聞いてとっさにそのことに気付
き、綾波の方を見た。すると、綾波はその血の気のない顔を更に蒼白にして、
ショックを隠しきれない様子であった。
アスカは自分の発言の重大さに気付かなかったが、僕が綾波の方を急に向いた
のを見て、何事かと同じく綾波の方を見た。そして、自分の言葉が綾波を傷つ
けてしまったことに気付いた。
「あ、綾波・・・・」
「・・・・・私は・・・・・」
「綾波?」
「私は私。綾波レイなの。他の誰でもないの・・・・・」
「そ、そうだよ、綾波の言う通りだよ!!」
僕は一体綾波が何を言い出すのかと思って恐怖を感じたが、綾波の口から出た
言葉は自分を補完する言葉だったので、僕は安堵して大きな声で綾波の言葉を
肯定した。しかし、そんな僕の考えは甘かったのだ・・・・
「でも、私は人間じゃない・・・・・」
「な、何言ってるんだよ、綾波!?」
「私は創られしもの。そして、人の持たざる力を持つもの・・・・」
「や、やめろよ、綾波!!」
「ごめんなさい、碇君。碇君は一生懸命私を人間にしてくれようとしたけど、
やっぱり私は人間にはなれないの。所詮、人の形をした化け物でしかない・・・・」
「・・・・」
「ありがとう、碇君。こんな私を信じてくれて。私も碇君の信頼に応えたかっ
た。だから一生懸命頑張ったんだけど・・・・」
「な、何言ってんだよ!!綾波の力だって、だんだん無くなって来たんだろう!?
それは人間になるって言う証じゃなかったの!?」
僕はもう、なりふり構ってられなかった。
今更隠し事も出来なかったし、今の綾波の言葉を聞けば、トウジ達だって綾波
に疑いを持たない訳には行かないだろう。だから僕は、みんなの前で「力」と
いう言葉を使った。遠回しの言い方では、今の綾波には届かないと思ったから
だった。
しかし、僕の必死の説得も、綾波には影響を与えなかった。
「それは違うわ、碇君。私の力はきっと、永遠に無くなることなんて無い。た
だ、ずっと使っていなかったから、それが弱まっていただけだと思う・・・・」
「じゃ、じゃあ、あれはどうなんだよ!?そ、その・・・・せ、生理は!?」
「・・・・碇君の子供、作りたかった。でももう駄目。私には、碇君と一つに
なる資格なんて無い・・・・」
「あ、綾波っ!!」
僕は思わず、綾波の手をつかもうとした。が、僕の手はその寸前で妨げられた。
おぼろげに輝く、透き通った血の色の壁に・・・・・
「・・・ごめんなさい、碇君。碇君を私に触れさせて、碇君を汚したくない。
碇君には、いつまでも私の好きだった綺麗な碇君でいて欲しい・・・・」
「綾波っ!!やめろよ!!綾波っ!!」
僕は何とか綾波の展開したATフィールドを突き破ろうと、拳で激しく叩いた。
が、当然それは虚しいものに終わった。人間の力で、ATフィールドを破るこ
となど、不可能なのだ。僕にだってそのくらいわかっている。しかし、わかっ
ていても、僕は叩かずにはいられなかった。まるで綾波が、遠くへ行ってしま
うような気がしたから・・・・
「碇君、もう諦めて。碇君の手が傷つくわ。」
「じゃあ、これをやめてよ!!僕は綾波がこれを解くまで、叩くのをやめない!!」
「・・・・わかったわ、碇君・・・・」
「じゃ、じゃあ・・・・」
綾波の言葉に、一瞬僕の顔に希望の色がよぎる。が、続いた綾波の言葉は、そ
れを無残にも打ち砕くものであった。
「碇君が退かないのなら、私がここからいなくなればいいだけのこと・・・・」
綾波はそう言うと、ATフィールドで僕を遮ったまま僕達に背を向け、そして
廊下の窓ガラスを開けた。
「あ、綾波っ!!」
僕の悲痛な叫びがこだまする。が、綾波の耳には届いていないかのようだった。
「碇君・・・・」
綾波は窓を大きく開けると、最後に振り返って僕を見る。
「碇君、たくさんの思い出ありがとう・・・・・」
「やめろよ!!そんな事言うなよ!!」
「私、碇君と過ごして来たこの数ヶ月の間が、私の全てだった・・・・」
「聞きたくないよ、綾波!!」
「私は決して忘れない・・・・」
「綾波!!」
「最愛の人、碇シンジ・・・・」
「綾波ぃっ!!」
「さよなら・・・・さよなら、碇君・・・・」
綾波はそう言うと、再び僕達に背を向けた。
窓から吹き込んでくる風が、綾波のスカートと短い水色の髪をなびかせる。
そして綾波は窓のサッシに片足を掛け、そのまま外へ身を乗り出した。
ここは地上三階。まともに飛び降りれば無事では済まない。
しかし、綾波は落ちなかった。
そのまま宙を漂うと、校舎を離れ、彼方へと飛び去っていった。
「綾波・・・・どうして・・・・」
僕は廊下に崩れ落ち、床を激しく拳で叩いた。
何度も、何度も・・・・
だが、綾波は戻ってこない。
ただ、開け放たれた窓から、涼しげな風が吹き込んで来るだけだった。
そして、僕はいつのまにか、大粒の涙を流していた。
それは去っていった綾波と、綾波を人間に出来なかった僕に対する、悔悟の涙
であった・・・・
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