私立第三新東京中学校
第二百六話・恋
「ほ、洞木さん・・・・」
僕は予想だにしなかった洞木さんの余りにストレートすぎる言葉に、半ば逃げ
場を失ってしまい、言葉を詰まらせてしまった。そしてそんな僕を見た洞木さ
んは、そうなるのを予想していたかのように、よどみなく僕にこう言った。
「碇君も言いにくいんでしょ?あたしにもそのくらいわかる。でも、あんなに
仲のよかった、って言うのは語弊があるかもしれないけど、とにかく喧嘩はし
てても本当の姉妹みたいだったアスカと綾波さんが、一瞬にして他人行儀にな
っちゃうなんて、おかしすぎると思うの。」
「・・・・」
「あたしは碇君と今みたいな関係になったアスカを見ても、実際まだ完全には
安心出来なかった。でも、ライバル同士のはずのアスカと綾波さんが本当にお
互いの垣根を取り払って交流している姿を見て、あたしはもうアスカを心配す
る必要はないと思ったの。でも・・・・」
「・・・わかるよ、洞木さんの言いたい事。」
一瞬言葉を詰まらせた洞木さんに、僕はそっと言った。
実際僕だってそう思っていた。アスカが退院して、僕という存在が生まれてか
らも、アスカにはまだかなり危うい感じが残されていた。そしてその原因は、
この僕にあるという事くらい、僕だって十分理解している。アスカにとって、
僕というのはほとんど生命綱のような存在であったから、すがり求めるのは当
然であった。にもかかわらず、僕はアスカの求めに完全に応じる事はなかった。
アスカの要求を満たす事によって、アスカの存在が確固たるものとなるとわか
っていたのに・・・・
しかし、それと同時に、そんなやり方でアスカを立ち直らせたとしても、アス
カが不完全になってしまうという事もわかっていた。まあ、僕が自分の気持ち
をごまかす事の出来ない性格だと言う点に、大きく左右された結果だと言わざ
るをえないのだが。
とにかく、綾波ほど明確なものではないかもしれないが、アスカにも自分以外
には僕しかいないという状態があった。だからそんなアスカの世界に、綾波と
いう存在が入り込んだ事については、アスカ自身はさほど感じてはいないかも
しれないけれど、アスカの精神にかなりの安定をもたらしていた。
そしてそれは、僕にだけでなく洞木さんにも、また、トウジやケンスケにすら
わかっていた事なのだろう。そのくらいアスカにとって綾波というのは必要な
存在だったのだ。
「なら、なら碇君、一体あの二人に何があったのか教えて。アスカにも綾波さ
んにも聞いてみたんだけど、頑として口を開いてくれないのよ。アスカは執拗
にそのことから話題をそらそうとするし、綾波さんは・・・・今にも泣きそう
な顔をするの。」
「綾波が・・・・」
「あたし、そんなの耐えられない!!みんなの委員長としてだけでなく、二人
の友達としてなんとかしてあげたいのよ!!」
洞木さんは思い余って大きな声を出してしまった。アスカと綾波は、既に僕達
と洞木さんが何やら話しているという事を知って少し先で止まって待っていて
くれたのだが、何を話しているのか、大体の見当はついているにしても、敢え
て耳に入れようとはしなかった。しかし、今の叫びにも似た洞木さんの言葉は、
アスカと綾波、この二人の耳にも届いた。そして、二人きりになってもお互い
にずっと顔を合わせないようにしていたアスカと綾波が、ほんの一瞬だけ目と
目を合わせた。その時の綾波の瞳には、わずかな希望の光が見えていたのだが、
すぐにアスカの方から視線は外され、再び綾波は悲しみに沈んだ顔を見せた。
そして、それを見てしまった僕の心は、綾波と同じような悲しみに満たされた。
「・・・碇君?」
洞木さんは僕の表情が曇ったのに気付いて心配そうな声をかけた。僕はそんな
洞木さんの呼びかけに、洞木さんと話をしていたという現実に戻されて、慌て
て洞木さんに応えた。
「あ、ほ、洞木さん、何でもないんだ。うん、何でもない。」
「・・・・そう?」
「うん。だから、何も心配しないで。」
「わかったわ。でも、それはいいとして、本当に何があったの?碇君も言いに
くいのかもしれないけど。」
言いにくいとわかっているなら、質問して欲しくなかった。
まあ、だからこそ洞木さんも僕に訊ねているのだろう。そういう洞木さんの様
子は、本当にアスカと綾波を気遣うものにあふれていたのだ。しかし、僕は言
えなかったが、洞木さんをはじめ、他のみんながあの光景を見ていなかったと
いう事は、僕にとってかなりの救いだった。何があったのかと聞かれるよりも、
あれは一体何なのかと詰問される事の方が、とり返しがつかなくなるだろうか
ら。だが、最悪の状態から免れ得たにしても、アスカと綾波の関係が破綻して
しまったという事に変わりはなかった。
「ごめん、洞木さん。やっぱり僕の口からは・・・・」
「言えないの?」
「うん・・・ごめん。」
「あたしたちにも、言えないような事なの?」
「うん・・・・」
「そう・・・・聞かないとあたしには何にも出来ないけど、とにかく頑張って、
碇君。きっとあの二人の関係を元に戻せるのは、碇君だけだろうから。」
僕は洞木さんにもっと追求されると思っていたのだが、案外あっさり解放され
て、少し拍子抜けしてしまった。しかし、洞木さんの言葉はトウジ達の言葉に
も似て、僕の心を少しだけ潤してくれた。
「洞木さん・・・・」
「ごめんね、碇君。やっぱりあたしじゃアスカや綾波さんには何にも出来ない
みたい。親友だと思ってても、あたしと碇君じゃ、根本的に何かが違うのよね・・・」
「そ、そんなことないよ。洞木さんの存在は、アスカにも綾波にも大きいと思
う。少なくともあの二人には友達と呼べる人間がほとんどいないんだから・・・」
「それはそうかも知れないけど、でも、碇君とは違うって言うのは事実なんじ
ゃない?」
「そ、それはまあ・・・・」
僕は洞木さんの言葉を否定出来なかった。
洞木さんと二人との友情の力を否定するつもりはないが、僕には家族、いや、
それ以上のものが備わっていたからだ。
「何だか碇君に重荷を背負わせちゃってばっかりいるけど・・・・碇君達には
あたしや鈴原がいるって言う事を忘れないで。あんまり力にはなれないかもし
れないけど、碇君は、独りじゃないから・・・・・」
「・・・・・ありがとう、洞木さん・・・・・」
こうして、僕と洞木さんの会話は終わった。
現実的に何も実りのあるものではなかったが、それでも僕の心は少しずつ回復
していった。アスカと綾波の関係を元のものに修復する糸口は何も見当たらな
いが、僕はまだ頑張れると思った。
そしてそれと同時に、かすかな喜びを伴った充足感を感じている自分がいた。
何もする事がなく、ただその日一日をだらだらと過ごして来た自分に、重大な
使命が与えられたからだ。空っぽの人生は、何ら喜びを与えてはくれない。ほ
のぼのとした空気に満たされる事はあるとしても、それはごまかしでしかない
のだ。人がどう思うか僕は知らないが、僕は以前、無為な時間を過ごし続けて
いただけに、時間の大切さを十分知っている。今この時はすぐに過ぎ去ってし
まうのだから、僕は今を生きたという証を何でもいいから残しておきたかった。
しかし、僕はそう思いながら、不謹慎な感情を持つ自分に嫌気が差していた。
今はアスカと綾波の事だけを考えるべきであるのに、自分の事ばかり考えてし
まっている自分に・・・・・
『どうしてあんなことをしたの?』
少女の持つ携帯電話から冷たい詰問の言葉が漏れた。
「・・・・済みません。しかし、自分の身を守る為には、ああするより他には
ありませんでした。」
『私が言っているのは、あなたがATフィールドを使った事ではないわ。どう
せあれはそのうちわかってしまう事だし、あなたは既に疑惑を持たれているの
だから・・・・』
「では、何がいけなかったのでしょうか?」
『あなたがシンジ君に行った言葉よ。一体どうしたって言うの?まさか、思わ
ず興奮した、何て言うんじゃないでしょうね?』
「・・・・」
『あなた、まさか・・・・?』
「・・・・そうかも知れません。」
『あなた、自分の使命を忘れた訳じゃないでしょうね?』
「わかっています。でも・・・・」
『言い訳の言葉は通用しないわ。あなたが駄目なら、他のものを使うまでよ。』
「・・・・」
『存在していたいなら、あなたはあなたのなすべき事をなさい。いいわね?』
「・・・・わかりました。」
感情のこもらないかすかな微笑みをたたえながら、渚さんは通話の終わった携
帯電話をまだ耳元に当てていた。そして、しばらくして静かに携帯電話をたた
むと、そっとこうつぶやいた。
「・・恋・・・か・・・・」
幸運な事に、その言葉は誰の耳にも届かなかった・・・・
僕達は問題を抱えながらも、一緒になって同じ教室へ向かった。が、途中で窓
の外を眺めながら、廊下にたたずむ渚さんの姿を見出した。
「渚さん・・・・」
僕はあの結末を思いだし、思わず声を上げた。
すると渚さんは、僕達の存在に気付いてこっちを振り向く。
「シンジ君・・・・・」
僕は一瞬渚さんにだけ気を取られたが、すぐに危険を感じて周りを見渡した。
アスカはというと、眉間にかすかな皺を寄せながら、綾波に対するよりも露骨
な嫌悪感を見せていた。が、渚さんに対しては何を言うでもなく、反対に逃げ
るかのように少しだけ身体を僕の後ろに隠した。
そして綾波は・・・・いつものように冷たい視線を渚さんに浴びせ続けていた。
しかし、何だか綾波の目には、確固たる自信が欠けているような気がした。い
くら綾波の出した力が本気でなかったとは言え、渚さんに敗れた事は事実だっ
た。そしてそのことが、綾波の心に不安・・・果たして自分の力でこのものか
ら僕を完全に守り通すことが出来るのだろうかと言う不安を芽生えさせていた。
特に綾波自身、自分の力が弱まりつつあると感じているだけに、その不安はこ
れから一層強くなるであろう。
しかし綾波は、先程とは違ってかなり冷静であったので、いきなり返礼とばか
りに渚さんに襲い掛かるという事はなかった。やはり綾波にとって渚さんは許
すべからざる存在とは言え、みんな、いや、僕の前で再び力を振るう事は出来
ない事であった。僕はそんな綾波の気持ちがわかっているから、ここでは割と
安心していることが出来た。が、それとは反対に、一つの心配があった。綾波
から目を離して渚さんと二人きりにさせてしまったら、必ずや綾波は自分の力
を尽くして渚さんを排除するであろうという事を。そんな事は絶対にさせては
ならない。だから、僕は綾波から一時たりとも離れてはいけないのだ。
・・・・と僕は思って、あることに気がついた。
どうして僕は、綾波と渚さんとを対決させてはならないと考えたのだろう。別
に渚さんがどうでもいい存在ならば、綾波に好きなようにさせても構わないは
ずだ。と言う事は、僕は綾波の勝利を確信出来ない?いや、僕にはどっちが勝
つかなんてわからない。しかし、僕は綾波が傷つく事だけを恐れているのでは
ない。渚さんの事も、僕は心配しているのだ・・・・
渚さんは、僕にとって綾波ほどの価値はないと断言出来ると思う。しかし、僕
はあの渚さんの感情をほとばしらせた叫びを聞いてしまったのだ。あれを聞い
て、僕にとって渚さんの存在が違うものへと変わった。言葉では上手く説明出
来ないけど・・・・
「さっきはごめん、シンジ君。つい、興奮してしまって・・・・」
「い、いや・・・・」
渚さんは、自分の力の事には全く触れようとはしなかった。無論僕も、そんな
事は言えないし、口に出したくもない。だから僕は、渚さんに対してなんて言
ってよいのかわからずに、くちごもってしまった。
すると渚さんは、軽い微笑を浮かべながら僕に向かってこう言った。
「でも・・・改めてわかった事があるんだ。」
「・・・なに?」
僕はそう言う渚さんの言葉に興味をひかれて、少し身を乗り出しながら訊ねた。
すると渚さんは、その真紅の瞳で僕を覗き込むと、静かに、しかししっかりと
した口調で言った。
「やっぱり僕は、シンジ君、君に恋してるっていうことを・・・・・」
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