私立第三新東京中学校

第二百一話・人にあらざるもの


「・・・・・」

呆然とたたずむ僕。そして、その正面には不思議な笑みを浮かべる渚さんの姿
があった。アスカも綾波も、まだこの事には気付いた様子を見せていなかった
が、トウジとケンスケはこの光景をはっきりと目にしていた。特にトウジは、
渚さんが僕に話し掛けてくる前、僕の間近にいて話をしていただけに、見逃し
ようもなかった。

「おい、渚!!ワレなにしとんねん!!」

僕は正気を失っていたが、その代わりにトウジが渚さんに食って掛かった。し
かし、いまだ動揺するところなどまず見せたこともない渚さんは、トウジの凄
んだ姿など、何の影響も受けないと見えて、いつもの微笑を浮かべながら、し
れっとこう答えた。

「何って・・・・キスだよ。見てわからないかい、鈴原君?」
「アホ!!わいかてそのくらいはわかるわい!!わいが言いたいのは、どうし
ていきなりシンジにそうしたかっちゅうことや!!」
「シンジ君の唇を見てたら、ついそういう気持ちになったのさ。君だってわか
るだろう?」
「わかるかい!!」

と、トウジが叫んだその時、いきなり綾波が間近に現れたかと思うと、鋭い平
手打ちを渚さんにかました。

「・・・・・」

しかし、綾波の突然のビンタにも、全くこたえた様子を見せずに、渚さんはじ
っと黙って綾波を見据えた。

「あ、綾波・・・・」

僕はいきなりのことにかなりの動揺を見せると、渚さんにキスされたことなど
も忘れて、思わず声を発した。すると、そんな僕の声を聞いた綾波は、それま
で鋭い視線を放ち続けていたのをやめ、僕の方に接近した。そしてすっと僕の
顔の方に手を差し伸べ、唇に軽く指先を触れさせながら、こうひとこと心配そ
うに訊ねた。

「・・・・あれにキスをされたの?」
「あ、う、うん・・・・」
「可哀想に・・・・ごめんなさい、碇君。私がつい、碇君から目を離したばっ
かりに、こんなことになってしまって・・・・」
「い、いや・・・・綾波が悪いんじゃないよ。」
「ううん、碇君の唇を守るのは、私の役目だから・・・・」

綾波はそう言うと、少し周りを見渡して、僕と綾波の様子を凝視していたトウ
ジとケンスケに向かって、小さな声でこう言った。

「・・・・お願い、少し見ないでいてくれる・・・・?」
「な、何でや、綾波?」
「私の唇で、碇君の唇を清めるから・・・・」

僕はこの言葉で、綾波がこれから何をしようとしているのかを悟った。これは
既に一度経験があるだけに、僕としても容易に想像が出来る。が、あの時は突
然で、しかもアスカがすぐ側にいたのにそんなものも気にせず行なったのに対
して、今回は周囲の人間に見るなと言ったのだ。
僕はその対比に、この短い期間での綾波の変化について思い知らされた。そし
て僕は、周りの人間も見え始めてきた綾波をみて、安堵と喜びを感じていた。
しかし、それはそれでいいとしても、綾波の意図していることを鵜呑みにする
ことなど出来ない。だから僕は、慌てて綾波にこう言った。

「あ、綾波!!べ、別にそんなことしなくてもいいから!!僕はほら、こうす
れば十分なんだから・・・・」

僕はそう言うと、二の腕を口元に持ってきてワイシャツの袖口のところで、か
なり強めに唇をぬぐった。キスされた唇をぬぐうなど、キスした側にとっては
言語道断な話だというくらい、僕も十二分にわかっていた。しかし、実際渚さ
んにキスなんてされても、うれしくもなんともないし、却って迷惑な話だ。だ
から、渚さんを傷つけるかもしれないが、綾波を止めるという意味も含めて僕
ははっきりとそうすることに決めたのだ。
だが、そんなことでは綾波は引き下がらなかった。綾波は反対に僕をたしなめ
るように、少し厳しい顔と口調でこう言ったのだ。

「駄目、碇君。そのくらいじゃ、碇君の唇はきれいにならないわ。」
「だ、大丈夫だって。渚さんだって、病気持ちでもないんだし・・・・」
「駄目よ、碇君。そう言ういい加減な気持ちが、後で後悔する羽目に陥らせる
んだから。」
「で、でも・・・・」
「碇君・・・キス、させて。最近アスカが大人しいから、私もそういう機会が
少ないの・・・・」

とうとう本音が出た。やはりなんだかんだ理由をつけても、綾波の気持ちには
僕とキスがしたいというのがあったのだ。今の綾波の様子は、何だかアスカが
迫ってくる時の様子を彷彿とさせて、僕もその迫力にやや気おされてしまった。

「碇君・・・・」
「・・・・」

綾波はもう、渚さんにビンタしたことや、トウジ達がすぐ側にいることなども、
完全に頭の中から抜け落ちてしまったのか、瞳を見開いて、僕のことをじっと
見つめていた。
そしてそれから綾波はそっと両目を閉じると、僕の唇がやってくるのを待った。
僕はどうしていいものか困ってしまって、無意識に助けを求めるかのように周
りに視線を走らせた。
すると、僕はアスカと視線が合ってしまった。アスカは渚さんがごたごたした
時も、いつものように爆発して真っ先に僕のところにビンタしに駆けつけると
いうことも無く、気付かない体を装っていたのだ。だが、なぜか今度はアスカ
はしっかりと僕の方を見ており、僕と目線が合うと、そっと静かに僕の方に近
付いて軽くウインクをした。

「・・・・」

僕はアスカのそのウインクが、何を意味しているのものなのか、全く見当もつ
かなかった。だから僕は、興味津々と言う感じで、じっとアスカのことを見つ
めていた。
綾波はアスカが来たことに気付かない。綾波らしからぬ事かもしれないが、と
にかく綾波は目をつぶったまま、軽く唇を突き出してキスを待っていた。そし
て、アスカはそんな綾波に向かって意地悪そうな笑みを浮かべると、なんとい
きなりアスカが僕の代わりに綾波に唇を近づけたのだ。
アスカは以前、寝起きで僕と綾波を間違えて、綾波とおはようのキスをしてし
まったことがあったが、アスカはそれと同じものと、多少なりとも油断してい
たのかもしれない。だが、現実は違った・・・・

「んんっ!」

アスカは冗談半分で、綾波の唇に唇を合わせた。が、綾波はその唇が僕のもの
であり、キスしたのは紛れもない僕だと思っていたらしく、唇と唇が触れた瞬
間、綾波はいきなり両腕でアスカの身体を引き寄せると、きつく抱き締めた。
そして、綾波もさすがにその一瞬でそれが僕ではないということに気付いて、
いきなりアスカを突っぱねた。突然抱き締められたかと思えば、すぐまた反対
に突き飛ばされて、さすがのアスカも対応の仕様がなく、後ろに立っていた僕
の胸に倒れ込んできた。

「アスカ・・・・どういうつもり?」

綾波は閉じていたまぶたを開いて冷徹な瞳でアスカを見つめながら訊ねた。ア
スカはそんな綾波に気圧されるような感じであったが、それでも綾波に反論し
た。

「な、なによ!!アンタこそ、シンジにキスさせようとしてみたり、シンジだ
と思ってアタシのことを抱き締めてみたり、散々後ろ暗いところがあるんじゃ
ないの!?」
「・・・・後ろ暗いことなんてないわ。私は碇君への想いを隠すなんて、そん
なことするつもりもないもの。」
「アンタには後ろ暗くもないかもしれないけど、アタシ達には十分問題ありの
内容なのよ!!ほんと、アタシが身代わりになっていなかったら、シンジはど
うなっていたことやら・・・・」

アスカはそう言うと、ようやく思い出したのか、手の甲で綾波とキスした唇を
何気にぬぐった。

「・・・・・」
「アンタがアタシにしたことが、シンジの身にも降りかかってくるって言う事
なのよね。違う?」
「・・・・だって・・・・・」
「だっても減ったくれもないの!!とにかく余計なキスはしない、いいわね!?」
「・・・・・」
「いい!?してもいいキスは、愛のあるキスだけよ!!それ以外は無意味で、
シンジにも嫌われるだけなんだからね!!」

アスカは綾波にそう言った。が、口ではそう言いつつも、愛のあるキスなんて
なかなかされるもんじゃないということに気付いている様子だった。
アスカは綾波に説教しながら、時々僕の方にちらりと視線を向ける。僕はその
アスカの視線の意味がわかっていた。現に、最近はよくアスカにそういう目で
見られることがあるのだ。そして僕は、そんなアスカの視線が、特別につらく
感じたのだった。
が、その時、綾波にビンタされてから、完全に沈黙を保っていた渚さんが、ア
スカと綾波に向かって言った。

「君たちは僕を責める資格なんてないはずだよ。シンジ君は誰のものでもない
はずなのに、どうして僕がキスをしちゃ駄目なんだい?君たちはシンジ君とキ
スをすることを割と普通に考えているかもしれないが・・・・」
「う・・・・うるさいわね!!アンタは大体怪しすぎんのよ!!女のくせに、
いっつも男の格好をしてるんだから・・・・アタシとしては、アンタのそれみ
たいなのをシンジにも移したくない訳!!」

アスカの指摘は、なかなかに渚さんを黙らせるだけのものを備えていた。だか
ら、渚さんも小さな声で言った。

「僕は確かに君の言う通り男みたいな服装が好きだし、言葉遣いも男の子のそ
れだと思う。だが、僕はれっきとした女なんだ。だから僕は、シンジ君が望む
なら、女に見えるようにするさ・・・・・」
「アンタ・・・・」

僕だけでなく、ここにいるみんなが、渚さんのことがよくわかっていなかった
と思う。だから、たとえキスされたとしても、どういう想いでそうしたのかが、
僕には全くわからなかったのだ。つまり、僕は渚さんの僕への想いというもの
が、その言葉と比較しても、全くの不明だったのだ。
しかし今、渚さんは自分の好きな服装を変えてまで、僕に近付こうと言った。
渚さんの言葉は、いつものようにあまり感情を感じさせないものであったが、
その内容に僕は渚さんの心の動きを感じた。

もしかして、渚さんは綾波と同じなのかもしれない。
感情を表に出せない自分が、常に周囲の人に人形と呼ばれ続けて・・・・
綾波のものとは少し違う。でも、人との目に見えない壁を作るということに関
しては、同じであると僕は思う。現に、転校当初は周りに人が絶えなかった渚
さんも、今では他に友達もおらず、いつも一人でいる姿を目にしていた。それ
を僕は気付いていたが、渚さんはそんな自分に関して、つらそうにして見せた
ことは一度もなく、いつも微笑みを浮かべていた。

渚さんの微笑みは、人形の微笑みなんだろうか?
そう思えるぐらいに、渚さんはいつも微笑みをたたえていたし、いつも笑って
いるので、その原因がどこから来るものなのか僕達にもさっぱりわからずに、
どう対応していいのかわからなかったのだ。だから、こうして考えると、渚さ
んのそれは、人形のもの、人間以外のものと受け止めることが出来る・・・・
って人間以外のもの!?
確かに、渚さんの雰囲気は人にあらざるものであるということを示しているか
のように、普通の人たちとははっきりと区別出来るような何かがあった。しか
し、果たしてそれが人形のものなのか、それとも使徒のものなのか、それは誰
にもわからない。
ただ、渚さんは少しだけ、それから脱皮しつつある。
まるで以前の綾波が、そうであったかのように。
だから僕は何だかうれしかった。
そして、人形であろうと使徒であろうと、僕のこの手で人間にしてあげること
が出来る、そう心の中で考えていたのであった・・・・・


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