私立第三新東京中学校

第百九十九話・後ろ姿


「ほら、さっさと走る!!ヒカリ達を待たせちゃ悪いでしょ!?」

アスカは駆け足をしながら、斜め後ろの僕に声をかける。僕はそんなアスカに、
息を苦しくしながらも愚痴っぽい言葉を返す。

「そ、そんな事言って、アスカのせいじゃないか、遅くなったのは。」
「アンタ、人のせいにする気!?アタシ達は一緒に学校に行くことになってる
んだから、遅れるのは連帯責任なのよ!!」
「じゃ、じゃあ、まるで遅れるのは僕のせいみたいに言わないでよ!!」

アスカには困ったものだ。こういうことはまあ、いつものことだと言っても、
なんだかんだ言いながら責任を人に転嫁して行くのには、あまり滅多なことで
は怒らない僕もうんざりして、アスカに言い放った。
しかし、アスカは僕の反論など予期していたかのように至って普通に応えた。

「アタシは別にアンタのせいで遅れたなんて言ってないわよ。ただ、アンタに
もっと速く走れって言ってるだけなんだから。」
「そ、そんな事言ったって・・・・」
「ほら、アタシはこうしてしゃべってても、アンタより速く走れるのよ。だか
ら、アタシはしゃべっててもいいけど、アンタはアタシに追いつくためにしゃ
べる余裕もないほど全力で走るべきなんじゃない?アタシはそこんとこが言い
たかったのよ。」
「・・・・・」

僕はアスカの理論を否定したいと思いつつも、それが正しいものであって、反
論の余地がないと感じてしまったので、アスカに返事をすることが出来ずに黙
ってしまった。しかし、アスカはそんな僕の沈黙を、自分の意見に素直にした
がったと感じたようで、僕に向かってこう言った。

「そう、それでいいの。アンタは黙ってアタシの後について来りゃいいのよ。
レイだってそうしてるでしょ?」

アスカはそう言うと、僕より更に少し後方からついてくる綾波に視線を移した。

「・・・・」

確かにアスカの言う通り、綾波は黙って僕達の後ろを走ってついてくる。しか
し、綾波は何とかアスカについて行こうと思って、黙って走っているのではな
くて、余計なことはしゃべらないという綾波の性格から来ていることにすぎな
いだろう。だから、何ともアスカに言えずにいたのだが、アスカはそんな僕の
ことには気付かずに、後ろの綾波に向かって自慢げに呼びかけた。

「レイ、アンタもアタシにちゃんとついてくるのよ!!シンジみたいにアタシ
に逆らってばっかりいると、ろくな女の子にはならないんだからね!!」
「・・・・」
「まあ、アンタは走り慣れないかもしれないけど、そのうち速くなるわよ!!
アタシの言うことを聞いてれば、全てはうまく行くんだから!!」
「・・・・そんなことないわ。」

アスカの言葉に、うっかりしていると聞こえないほどの小さい声であったが、
力強い口調で綾波ははっきりと否定した。そして、僕がその言葉を聞いたよう
に、アスカも当然のごとく耳に入れていた。

「な、何ですって!?もう一度言ってみなさいよ!!」

アスカはあまりのことに、立ち止まって綾波に叫んだ。
僕からすれば、綾波がそういう応えを返すことくらい、予期していたし、だと
しても大した事ではなかった。しかし、アスカにとってはそうではないらしい。
まあ、アスカの気持ちもわからないではない。信じていた自分のものが人にあ
っさりと崩されてしまうということは、心を大きく揺り動かされる原因に十分
なり得るであろうと思う。
僕はまだ、そういう事はない。僕が信じていたものは何一つなかった。僕にと
って父さんは、疑いの対象であり、今ではそれが変わったといえるかもしれな
いが、今現在においては父さんに裏切られたと痛感することはなかった。そし
てアスカも綾波も、僕にとっては信頼の対象である。アスカにも綾波にも、困
らされることは幾度となくあったが、それは裏切りでもなんでもなく、僕に生
きがいを与えてくれることであった。だから、僕は自分に仕事をくれるこの二
人に感謝こそすれ、憎むことなど有り得なかった。そして僕は、いまでは僕の
手を必要としなくなりはじめている二人に、多少の寂しさめいたものを感じて
いた。人に必要とされるということが、どういう事なのか、今の僕にはわかる
ような気がする。アスカも綾波も、今でも僕を必要としてくれると言っている。
だが、僕はそれが完全な嘘でないことを知っていることは知っているけれど、
完全な真実でもないこともよくわかっている。アスカだって綾波だって、僕が
いなくなれば涙の一つも流してくれるだろうが、それでもそのまま生きていか
なければならないのだ。人は結局独りであり、他人とどのようなつながりを持
とうと、死を迎えるに当たって、それを引きずって行くことは出来ない。
アスカなどに言わせれば、僕がそんな気持ちを持つのは愛を知らないゆえんだ
と言うかもしれない。しかし、僕はそれだけではないと思う。僕が知らないの
は、愛だけではない。愛も憎しみも悲しみも裏切りも、僕は何も知らなかった。
僕は心を閉ざし、それによって心が動かされ、傷つくことを避けていた。
しかし今、僕は少しずつではあるけれど、心の動き、感情の起伏を身につけて
きたような気がする。そしてそれを覚えることにより、衝撃と同時に僕が今ま
で感じたことのなかった不思議な喜びを与えてくれた。だが、僕はまだ、不完
全だと言わざるをえない。だから僕は、うまくアスカみたいに物事を考えられ
ないのだろう。

と、僕はそこまで考え、あることに気がついた。
僕は何も知らなかった訳ではない。父さん以外に、僕が裏切られたと感じた人
が一人だけいた。
それは、カヲル君だった。僕が一人だけ、信じて信じ抜いた存在、唯一人の人
間であった。僕にはどうして、カヲル君が僕を裏切ったのかわからない。そし
てまた、どうしてあの時の僕が、カヲル君のような存在を疑いもせず受け止め
たのか、全く理解出来なかった。だが、僕はとにかくカヲル君を信じた。理由
もなくカヲル君を信じた。
もしかすると、僕が人を愛せないようになってしまったのは、この事のせいな
のかもしれない。人と触れ合うことによって、知らず知らずのうちに自分の心
を見せはじめた自分。そして、僕がもっとも助けを必要とした時に現れたあの
人。そんな僕は彼にすがり、彼に自分の全てを見せることにより、自分を救っ
てもらおうとしたのに、結果は最悪なものに終わった。
今、別に僕はカヲル君をうらんではいない。しかし、僕ははじめて完全に人に
自分を見せた時に、今までに無いくらい心を傷つけられたのは事実だった。だ
から、僕はいまでもそのことを引きずり、アスカにも綾波にも、本当の自分を
見せていないのだろう。

「・・・アスカ、走らないと遅れるわ。」

僕の勝手な思考をよそに、アスカと綾波の会話、と言うか口論がまた始まりそ
うな様相を見せている。

「アンタに言われる筋はないわよ!!それよりアンタはアタシのこと、一体ど
う思ってる訳!?」
「・・・・わからない。」
「わからない!?どういう事よ!?」
「・・・・わからないものは、わからないの。」
「じゃあ、シンジのことはどう思ってるのよ!?これならアンタははっきり言
えるんでしょ!?」
「・・・・好き。」
「アタシは?」
「・・・・わからない。」
「シンジは?」
「・・・・好き。」
「アタシは?」
「・・・・わからない。」
「好きじゃないの?」
「わからない。」
「アンタ、好きって言うのはどういう事だと思ってるの?」
「その人と、全てを共有すること。」

アスカの何度かの問い掛けに小さな声で答えていた綾波も、今の質問にははっ
きりとよどみなく答えた。そしてそれは、綾波にとって、愛とはどういう事な
のかが、はっきりと認識されていることを証明していた。
そしてアスカは、そんな綾波の姿を改めて見て、多少強硬な態度を崩してこう
言った。

「じゃあ、アタシとは全てを共有したくなくても当然よね。アタシだって、別
にアンタとそういう関係になろうなんて思ってないんだから。」
「・・・そうね。」
「でも、好きの形って、一つじゃないんじゃない?」
「どういうこと?」
「好きって言う言葉にも、いろいろ種類があるってことよ。」
「・・・・・」
「アタシはアンタの言ったのと大して変わらない形で、シンジのことを好きな
つもりよ。でも、アタシは別の意味で、アンタのことが好きなの。」
「・・・・私のことが・・・好き?」
「そう、アタシはアンタのことが好きよ。アンタはアタシが見たこと無いくら
いに純粋で、憧れてるくらい。そして、シンジへの想いも、アタシみたいに歪
んでない・・・・」
「・・・・・」
「まあ、アタシがアンタを好きなのは、それだけじゃないわよ。アタシがアン
タを好きなのは、アンタが綾波レイだから。アタシの人生の中にしっかりと割
り込んできた二人の人間のうちの一人、綾波レイだからなのよ。」
「・・・・」
「で、アンタはアタシのこと、どう思ってる訳?」
「・・・・」
「アタシは別に、アンタにアタシがアンタに向ける気持ちと同じものを持って
欲しいと思ったりなんかしないわよ。」
「・・・・」

アスカは綾波をはっきり好きだと言った。
しかし、綾波はアスカの問い掛けに、答えることは出来なかった。

アスカが綾波のことを好きだと言ったのは、これが初めてのことではなく、時
々口に出して言っていた。綾波はそれを聞くたび、うれしそうにしていたけれ
ど、人に好かれることとは別として、自分からどう思うかはわからない。だか
ら、こうしてはっきりと聞かれた綾波は、一種の戸惑いめいたものを感じたの
かもしれない。
そしてアスカも、そんな綾波に気付いたのか、綾波から視線を逸らし、揺れ動
く気持ちをごまかすかのように僕に向かって強く言った。

「ほら、ぼさぼさしてると、冗談じゃなくって遅刻するわよ!!」

僕はアスカの気持ちがわかっていたから、何事もないかのようにいつものよう
にアスカに応じた。

「って、ぼさぼさしてたのは、僕じゃなくってアスカの方だろ!?」
「うるさいわねっ!!とにかく急ぐのよ、いいわね!?」
「わ、わかってるって!!ほら、綾波も行くよ!!」

僕はアスカに大声で応じると、まだ現実に戻りきっていない綾波に向かって呼
びかけた。

「・・・うん、碇君。今行くから・・・・」

綾波は僕にそう言うと、僕の後ろからついて来る。
そしてまた、はじめの三人の並びに戻った。
しかし、三者三様の思いが胸の中に残されていた。

人を愛せないことについて考え続ける僕。
常に人を愛する自分とその反応の相違について心を曇らせるアスカ。
そして、一つでない愛の形に戸惑う綾波。

それぞれは、自分以外の人間にとっては大した問題に感じないのかもしれない。
が、僕もアスカも綾波も、真剣に悩んでいた。その度合いは差こそあれ、心に
負担をかける問題だろう。
しかし・・・・アスカが、あのアスカが、綾波との問題から逃げて、僕に捌け
口を求めたのだ。僕はアスカに過剰評価をしているのかもしれなかったが、そ
れでもアスカに逃げて欲しくはなかった。僕はアスカの僕にない強さ、何事に
も正面から立ち向かう、そんな強さが好きだった。

アスカは僕に背中を向けて、走り続ける。
僕はそんなアスカの後ろ姿に、アスカの後ろめたく感じる気持ちを見ていた。
アスカには逃げないで欲しい。
これは僕のわがまま。
でも、僕はこんなアスカの背中を見たくはなかった・・・・・


続きを読む

戻る