私立第三新東京中学校
第百九十八話・ビンタを受ける義務
月日は流れた。
父さんのところ、つまりここに引っ越してきて以来、不安だった僕の心も次第
に落ち着き、以前と変わらぬ時間を過ごせるようになっていた。
綾波は、はじめてここに来た時は、かなり父さんを恐れ、また憎んでいたもの
の、時間が綾波を変えていった。実際父さんと僕達が顔を合わせる時間は一日
のうちでもほんのわずかの間でしかなかったが、その間、父さんは寡黙でぶっ
きらぼうではあるが、僕達に対してひどい扱いはしなかったし、まあ、言うな
ればいてもいなくても変わらないような、そんな存在だった。だから綾波も、
次第に父さんへの強硬な姿勢を崩し、何とか事務的な作業をこなすところにま
で進展した。綾波と父さんの間にはまだ大きな隔たりがあったが、それもいつ
か時が解決してくれるだろうと、僕は楽観的に見ていた。
「おじさま、食事中に新聞を読むのは止めてください。」
和やかな朝食中に、父さんにそう注意するのは、他ならぬアスカだった。
アスカは数ヶ月経った今でも、父さんに対して丁寧な言葉を使い続けていたが、
その内容については、だんだんと家族らしい馴れたものに変わっていた。しか
し、アスカが父さんにものを言う時は、大抵何かを注意するか、それともおね
だりするような時であった。僕だったらなかなかそんな風に父さんに接するこ
とはためらわれるが、アスカにはそんな無駄な遠慮はなく、一番この共同生活
を楽しんでいた。
「・・・ああ、済まない。」
「もう、そう言うんだったら、ちゃんと言われた通りにやめてください!!全
く、親子揃って頑固者なんだから・・・・」
「・・・わかった。」
アスカにきつく言われて、父さんはしぶしぶ新聞を畳んだ。そして、僕が腕に
よりをかけて作った朝食に箸を延ばした。
「せっかく私達が頑張って作ったんですから、よく味わって食べてくださいね。
シンジもおじさまに食べてもらうのがうれしくって、いつも早起きしてるんで
すよ。」
「・・・・わかっている。」
「じゃあ、シンジにお礼を言ってあげてください。私もレイも、シンジを手伝
ったって言うだけで、ほとんど作ったのはシンジなんですから。」
さすがの父さんも、アスカにかかっては形無しだ。いくら丁寧口調とは言え、
アスカの言葉には人に有無を言わせず従わせるような、何か強いものが感じら
れていた。
そして父さんは、アスカに言われるがままに、僕に向かってお礼を言う。
「・・・・毎日済まないな、シンジ。感謝している。」
「あ、ありがとう、父さん。どうかな、今日の朝食は?」
「・・・・ああ、うまい。」
「そう・・・・よかった。父さんにそう言ってもらえて、僕もうれしいよ。」
僕はそう言いながら思わず笑みをこぼす。そしてそんな僕をじっと見つめなが
ら、アスカは僕に皮肉めいた口調で言った。
「まったく、アンタはどうしてこんなちょっとした言葉でそんなにいい笑顔が
出せる訳?アタシにだって、滅多に見せてはくれないのに・・・・」
「そ、それは・・・・やっぱり、自分の作った料理を食べてもらって、それで
おいしいって言ってもらえれば、それが僕にとっては一番うれしいよ。」
「アンタ、それ、本当なの?」
「う、うん・・・・」
「じゃあ・・・・」
アスカはそう言って、少し上目遣いで僕を見ると、小さくこう言った。
「・・・きょ、今日の朝食も、おいしかったわよ、シンジ。」
「ありがとう、アスカ。うれしいよ。」
僕はアスカのそんなお褒めの言葉に、少しうれしそうにお礼を言った。が、そ
んな僕を見て、アスカは急にカッとなって怒る。
「って、どうしてさっきと違う訳よ!?アタシには微笑みの一つも見せられな
いって言う訳!?」
「そ、そういう訳じゃないよ、困ったな・・・・僕だって、意図的にに微笑ん
でる訳じゃないんだから、そういつも同じように微笑むことが出来るわけない
よ。」
「そんなことわかってるわよ!!でも、アタシはちゃんと毎日チェックしてる
んだからね!!アタシに向ける微笑みと、おじさまに向ける微笑みじゃあ、い
つも段違いの差があるわよ!!」
「そ、そうなの・・・?」
「そうなのよ!!」
こうなってしまっては、なかなかアスカも手が付けられない。しかし、一体僕
はどうしたらいいのか見当も付かなかったので、アスカの怒気を吹き出させる
ままにしておいた。
「・・・・」
「ったく、だからアンタはファザコンだっていうのよ!!アタシみたいなかわ
いい女の子に誉められるよりも、半分いやいや言ってる中年男のお世辞の方が
うれしいなんてね!!」
父さんもすぐ近くにいるというのに、アスカの言葉は辛辣だ。果たして父さん
がどう思っているのかと思って、ちらりと父さんの方に視線を向けると、アス
カが僕を怒っているのをいいことに、畳んでしまっておいたはずの新聞を再び
広げて目を通しながら、片手でお椀を持って味噌汁をすすっていた。
「と、父さん・・・・」
僕は半ば呆れるように、そうつぶやいた。すると、それを耳に入れたアスカも
父さんの方に視線を向け、僕に向けていた怒りを父さんにもぶつけた。
「もう、いい加減にしてください!!何度言ったらわかるんですかっ!!」
「・・・・・」
アスカは顔を真っ赤にしながら怒りを辺り一面に振りまいている。しかし父さ
んは、そんなアスカに向かって何も言おうとはせずに、ただ黙って新聞をまた
下に置いた。
「今度したら、朝食抜きですからね!!」
「・・・・」
果たしてアスカの言葉を聞いているのかどうなのか、父さんは黙々と味噌汁を
すすっている。心なしかお椀で顔を隠しているような気もするが、まあ、父さ
んの気持ちもわからないでもない。アスカも言っていたように、父さんと僕が
やはり親子なのだと感じさせられたのは、ここに引っ越してきてしばらく経っ
てからだった。僕は自分ではそんなこと無いと思っていたのだが、アスカに言
わせると、自分の考えを絶対に曲げない極度の頑固者だそうである。そしてア
スカは、父さんについてもそうだと言う。僕にはそういう実感はあまり無いが、
よく考えてみると正しいような気もするので、僕としても複雑な心境だった。
こうしてアスカが父さんと対峙していると、すっと綾波が僕のところに近寄っ
てきて静かに訊ねる。
「・・・・碇君、おかわり、いる?」
「あ、ああ。じゃあ、よろしく頼むよ、綾波。」
「わかったわ。量はどのくらい?」
「普通より、ちょっと少なめ。」
僕がそう綾波に注文を出すと、綾波は慣れた手つきでご飯をよそい、僕に茶碗
を手渡してくれた。
「・・・・はい、碇君。普通よりちょっと少なめ。」
「あ、ありがとう、綾波。」
「ううん、大した事じゃないから・・・・」
「いや・・・・そうだ、じゃあ、お礼と言っちゃ何だけど、綾波には僕の卵焼
きをあげるよ。」
僕はそう言って箸で自分のお皿の卵焼きをつまみあげると、綾波の方に差し出
した。
「・・・・いいの、碇君?」
「もちろんだよ、綾波。さ、綾波のお皿をこっちに持ってきて。」
「・・・・その必要はないわ、碇君。ほら、こうすれば・・・・」
綾波はそう言うと、すっと僕の差し出した箸の方に顔を寄せて、そして直接僕
の箸から卵焼きを口で受け取った。
「・・・あ、綾波・・・・」
僕は半ば呆れて声を上げる。しかし、綾波はそんなことは気にせずに卵焼きを
もぐもぐやりながら、僕に満面の笑みで応えてくれた。そして口の中のものを
飲み込み終わると、僕に向かってこう言う。
「・・・おいしかったわ、碇君の卵焼き。碇君の味がして・・・・」
しかし、今の言葉を耳に挟んだアスカが、父さんを放り出して、綾波に食って
掛かった。
「ちょっと、アタシがいないと思って、二人で好き勝手楽しんでるんじゃない
わよ!!まったく、油断も隙もあったもんじゃないわね!!」
「・・・別にアスカのいない時を狙った訳じゃないわ。」
「でも、結果としてそうなったんでしょ!!動機はどうあれ、結果がすべてな
のよ!!」
「・・・そうなの?」
「そうなのよ!!いくらいいことをしようと思ってたって、それが結果として
悪をもたらしたのならば、それは悪いことなのよ!!わかる!?」
「・・・ええ、わかるわ。」
「なら、以後気をつけるのね!!」
アスカは綾波が分かってくれたと思ったに違いない。が、綾波はそんなアスカ
の自分勝手な意見など、完全に聞き流してでもいたかのごとく、唐突に僕にこ
う言った。
「・・・・碇君、今の卵焼きのお礼に、これ、あげる。」
綾波は朝のちょっとしたサラダにつけられていたプチトマトを手に取ると、僕
に向かって差し出す。僕は本来なら手で受け取ったのだろうが、それがあまり
にも僕の鼻先近くに突きつけられていたため、思わず口で受け止めてしまった。
そして、当然と言ってはなんだが、その時に僕の唇が、綾波の指先に触れる。
「碇君・・・・」
「こら、シンジ!!どうしてわざわざ口で受け取るのよ!?手を使いなさい、
手を!!」
「あ、ご、ごめん・・・・」
「ごめんじゃ済まない!!」
「で、でも、あんまり口に近かったもんだからつい・・・・」
僕がいい訳がましくそう言うと、アスカは綾波に向けて怒鳴った。
「アンタ、シンジがこうすること、狙ったんでしょ!?」
アスカの大きな叫び声を直接受け止めることとなった綾波は、少し嫌そうな顔
をして、アスカにひとこと言った。
「・・・・アスカ、声が大きいわ。」
「アタシが声が大きいのは、生まれつきなのよ!!それが嫌なら、アンタはこ
こを出て行きなさい!!」
「・・・・わかったわ。碇君と一緒に、ここを出て行く。ね、碇君?」
「って、シンジを扇動するんじゃない!!」
「・・・みて。碇君、私と一緒に出て行きたそうな顔、してると思わない?」
「思わないわよ!!」
「・・・とにかく、大きな声を出さないで。アスカの言いたいことは、十分わ
かっているから。」
「何がわかっているって言うのよ!?」
「私と碇君の仲、嫉妬してるんでしょ?私にはわかる・・・」
「余計なお世話よ!!アンタなんかに言われる筋合いはないわ!!」
取留めのない口喧嘩が、今日もまた、家中にこだまする。ほとんどアスカと綾
波の喧嘩については毎日行われているので、僕はもう相手にすることも無く、
朝食を済ませることに全神経を傾けた。父さんも、この光景を目の当たりにし
ている人物なだけに、慣れたもので自分を蚊帳の外に置いている。そして僕は、
二人が喧嘩している中で、父さんと同じ思いを共有出来たような気がして、何
だかちょっぴりうれしかった。
そして喧嘩は、それほど経たないうちに終結を迎える。綾波は別になんともな
いのだが、アスカは無駄に大声を張り上げ続けているせいか、すぐに疲れてし
まうのだ。僕はそんな気をうまく読み取り、さりげなく二人に喧嘩を止めるよ
うに呼びかけるのだ。
「ほらアスカ、綾波。今日は大事な始業式だろ?まだ時間はあるって言っても、
ちょっと早目に出た方がいいと思うよ。」
僕の言葉に、綾波は即座にしたがって返事をする。
「わかったわ、碇君。ごめんなさい、碇君に余計な心配をかけて・・・・」
しかし、アスカはというと、綾波とは正反対に僕に文句を言ってきた。
「うるさいわね!!アタシは今日こそはレイと決着をつけるのよ!!一歩も退
かないんだから!!」
「・・・・そんな事言わないでさぁ・・・・口喧嘩くらい、別に今やらなくっ
ても、いつだって出来るだろう?」
「そんなのは百も承知よ!!でも、アタシは今日出来ることは今日のうちに済
ませるって言うのをモットーにしてるんだから!!」
「・・・・と、とにかくここは僕に免じて・・・ね、お願いだよ、アスカ。」
「・・・・ま、まあ、アンタがそう言うのならいいわよ。でも、アタシはレイ
を勘弁した訳じゃないんだからね!!アンタの顔を立てて、今日のところは見
逃してやるだけなんだから!!」
「う、うん・・・済まないね、アスカ。」
僕がかなり情けない態度でアスカにお礼を言う。するとアスカは、どっかと椅
子に腰を下ろして、朝食に手をつけはじめたかと思うと、いきなり箸を延ばし、
僕のお皿から素早く卵焼きを掠め取った。
「あ、一個残しておいた僕の卵焼き!!」
僕がアスカの仕打ちに多少の怒りを以ってそう言うと、アスカはいきなり箸を
ぱちりとテーブルの上に置いた。僕はまたアスカが怒り出すのかと思って、少
し身構えたが、アスカは僕に手を上げる代わりに自分のサラダからプチトマト
を取って、いきなり僕の口にねじ込んだ。
「んんっ!!」
「アンタは卵焼きよりこっちの方が好きでしょ!?だから、これをくれてやる
わよ!!」
「・・・・・・ひ、ひどい・・・・」
思わず悲しくなる僕に、アスカはしれっと言い訳にもならない言葉を言った。
「トマトは健康にいいのよ。アタシはアンタの健康を考えて、トマトと卵焼き
を取り替えてあげたのよ。」
「・・・・いつか仕返ししてやる。」
僕は小さな声でぼそっとそう言う。運良くアスカには聞こえなかったのだが、
綾波の方に聞かれてしまった。
「・・・・碇君、アスカへの仕返しなら私も協力するわ。何でも言って。」
「あ、綾波っ!!」
僕は慌てて綾波を黙らせようとしたが、もう時既に遅し、だった。アスカは迫
力のある声で僕に詰め寄った。
「・・・・どういう事かしら、シンジぃ?」
「い、いや、それは・・・・・」
「問答無用!!」
びしっ!!
・・・・アスカのビンタが、ほっぺたに染みる。最近は以前ほどやられなくな
ったが、それでも今日みたいに時々はアスカのビンタの洗礼を受けていた。
アスカはここに引っ越してきてから、僕にキスを強要することはなくなった。
だから、鬱憤を晴らす材料がなくて、すぐに手を上げてしまうのかもしれない。
僕ははっきり言って、ビンタをされるなんて痛いだけだったが、それでもアス
カの心が落ち着くなら、ほんのたまにはひっぱたかれても仕方ないと思ってい
た。
アスカの心をいらつかせる原因が僕にあると思うのは、僕の思い上がりだろう。
だが、その原因の一端を僕が担っている以上、僕にも責任があった。
僕が心から愛を込めてアスカにキスをすることが、そうそう出来ない以上、僕
にはアスカのビンタを受ける義務がある、そう思っていたのであった・・・・
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