私立第三新東京中学校

第百九十六話・沈黙


コンコン!!

「綾波、いる?」

僕はアスカの部屋を出ると、綾波が待っているであろう自分の部屋のドアをノ
ックした。

「うん、入って、碇君。」

姿の見えぬ綾波は、僕の呼びかけに即座に答えると、わざわざ僕のためにドア
を開けてくれた。

「う、うん・・・・ありがとう、綾波。」

僕はそのことに少し戸惑いながらも、とにかく綾波にお礼の言葉を述べた。
そして僕は、綾波に招かれて自分の部屋に足を踏み入れた。しかし、考えてみ
るとなんだかおかしい。大体ここは僕の部屋であって、綾波の部屋ではないの
だ。それなのに、まるで綾波が主人で僕がお客様みたいだ。そもそも、僕が自
分の部屋に入るのに、ノックをするというのがまた奇妙だ。
しかし、僕のお礼の言葉に対して綾波が見せてくれた曇りのない微笑みに、僕
のひねくれた考えも、すぐに消え去っていった。

「・・・座って、碇君。」

綾波は完全に僕を部屋に入れた後、勉強机の椅子を僕に差し出して、座るよう
に勧める。

「あ・・・ありがとう、綾波。」

何だか僕は、綾波に対してお礼しか言えないでいる。僕は今の状況に少なから
ず違和感を感じていたが、それでもなぜか、ほんの少しだけ心地よくも感じて
いた。

「・・・・お風呂、どうだった?」

綾波は、珍しく積極的に僕に話し掛けながら、そのままぺたりと床に腰を下ろ
した。僕はそんな綾波に向かって、慌てて止める。

「あ、綾波!!そんなところに座る必要なんて無いよ!!」
「・・・・でも、他に座るところ、ないから・・・・それに、私は別に、床に
そのまま腰を下ろすことは苦痛じゃないから。」
「く、苦痛とかそういう事じゃないだろ!?とにかく、ほら、ベッドの上にで
も座りなよ!!」
「・・・・いいの?」
「当たり前だろ?そんな、大した事じゃないんだし・・・・」
「・・・じゃあ、碇君の好意に甘えて・・・・」

綾波はそう言うと、静かにすっと立ちあがり、そして僕に言われたとおり、ベ
ッドの上にちょこんと腰をかけた。

「うん、それでいいんだよ、それで。」

僕もなんだか偉そうに綾波にそう言う。しかし、僕は相手を見下ろしながら話
をするようなことはとてもじゃないけどしたくなかったので、綾波が大人しく
ベッドに座ってくれたことに関しては安堵していた。まあ、綾波が僕の意見に
大した理由が無いのに逆らうというようなことはないと思っていたので、心配
めいた気持ちはほとんどなかったのだが・・・・

「・・・・碇君?」
「・・・何、綾波?」
「・・・・お風呂、どうだった?」
「あ、ああ、それね。なかなかゆったりとした気分になれたよ。」
「そう・・・・よかった。」
「それより綾波は、慣れないお風呂で大丈夫だった?」
「うん。それは、アスカがいてくれたから・・・・」
「そう・・・まあ、アスカがいれば綾波も心強いよね。アスカもあれで案外、
なかなか世話焼きさんみたいだから。」
「・・・・・うん。」

綾波は、僕の言葉に小さくうなずく。そして、そこで一瞬話が切れた僕は、さ
っきから目についていたあることについて話を切り出した。

「・・・綾波、それ・・・・」
「・・・・アスカにもらったの。」
「そう・・・・いや、よく似合うよ。うん。」

そのあることとは、綾波の今の服装だった。綾波は僕達のうちに来てから、と
言うより、あの買い物に行った日から、トウジに買ってもらった白いジャージ
を寝間着にしていた。だから、僕が制服以外で見かける綾波の服装は、ほとん
どそのジャージであったが、今の綾波の服装は、清潔そうな白と淡い青のスト
ライプの少し大きめのパジャマであった。

「・・・うれしい・・・・でも、少し大きくない?」

綾波はうれしそうに頬を染めながらも、自分の服装を見ながら頭にさっきから
浮かんでいたであろう疑問を僕にぶつけてきた。
確かに、綾波が言うのも無理はないくらいに、大きめのパジャマだった。多分、
きっと男の僕が着ても、やはり大きすぎるサイズであろう。綾波は既にアスカ
の服をいくつかもらっていて、既にそれがちゃんとぴったり着れるということ
を証明して見せてもいるのだから、アスカにとっても大きすぎるサイズだった
かもしれない。でも、それはきっと自分がサイズを間違って買ってしまったの
を綾波に押し付けているとかそういう事ではなく、アスカはこのゆったりぶか
ぶかサイズを楽しんでいたのだろう。そう言えば以前、アスカを起こしに行っ
た時に、こういうのを着ているのを見たことがある。まあ、アスカは服持ちな
ので、いくら家であろうとパジャマと部屋着は分けているようであるから、そ
う頻繁に見れる訳ではない。僕がそれを見たのはベッドの中にいる時のアスカ
であって、だからしてあまりじろじろ見たことはない。だから僕としてもあま
り強い印象はなく、言われてみればああそうかという程度であった。

「まあ、確かにちょっと大きいかもしれないけど、別におかしくはないよ。そ
ういうぶかぶかサイズを好む人、結構いるみたいだから・・・・」
「そう・・・・アスカも、こういうのが好きなの?」
「いや、ちょっと僕も知らなかったよ。一応アスカがそれを着てるところはち
らっと見たような覚えがあるんだけど、そんなにぶかぶかだったとは気付かな
かったからね。」
「・・・・・」

綾波は僕の言葉を聞くと、口には何も出さなかったものの、少し口元を崩して
笑みをこぼした。もしかしたら、この綾波にして僕とアスカの仲を邪推でもし
ていたんだろうか?綾波はついこの間、僕をちょっとだけ疑ってしまったこと
に関して、深く心を痛めていたということがあったが、今の綾波はいろいろ何
かで勉強しているみたいだし、いわゆる普通のちょっと照れ屋な女の子くらい
になってしまったのかもしれない。まあ、それはそれでいいことだし、それで
もまだ綾波は他の女の子に比べてはるかに純粋であるから、僕の綾波に向ける
目は変わらない。
しかし、そんな綾波に気付いてしまった僕は、何だか綾波に声をかけづらくな
ってしまった。だから、今の話から方向転換して、綾波に向かってこう言った。

「それより綾波?」
「何、碇君?」
「布団だけど・・・・まだ持ってきてなかったの?」
「えっ・・・?」
「いや、布団だよ。綾波の寝る布団。」
「だって、私は碇君と一緒の布団に・・・・・」
「って、駄目だってば。同じ部屋で寝るだけで十分じゃないの?」
「・・・・うん。ごめんなさい。」
「そう・・・・でも、綾波には悪いけど、これは譲れないよ。」
「どうして?」
「だって、まずいだろ、思いっきり。」
「・・・・私は平気よ。」
「綾波が平気でも、僕が駄目なの!!」
「・・・・・」

僕は物分かりの悪い綾波に対して、少しじれったさを感じてほんの少し大きな
声を出してしまった。それは別に、怒りを表していると言うところまで行くも
のではなかったが、それだけでも綾波はしゅんとしてしまった。そしてそれを
見た僕は、慌てて綾波を慰める。

「あ、べ、別に怒った訳じゃないんだからね、綾波。だから気にしないで・・・・」
「・・・・・」
「ほら、機嫌直して・・・・・」
「・・・・」
「・・・どうしたら、機嫌を直してくれるのかな?」
「・・・・碇君の布団で一緒に寝かせてくれたら。」
「・・・・・」
「・・・・駄目?」
「・・・ごめん。」
「・・・・アスカにも誓ったわ。碇君には手を出さないって。」
「・・・・・」
「私も、別に碇君に迷惑をかけるつもりはないの。だから・・・・」
「・・・・」
「お願い、碇君・・・・・」
「・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・わかったよ。僕はアスカに誓った、綾波の言葉を信じることにす
る。」
「・・・・ごめんなさい、碇君・・・わがまま言って・・・・・」
「いや、いいんだよ。僕だって、ついこの間まで父さんを避け続けてきたんだ。
だから綾波のそんな気持ち、わかるような気がするよ。」
「碇君・・・・」
「もういいよ。とにかく寝よう。もう遅いんだし・・・・・」

僕は少しそっけなく、綾波にこの非生産的な会話の終結を促した。

「・・・・」

綾波は、沈黙を以って、僕に肯定の意を表した。僕はベッドの上の夏がけを引
き剥がし、部屋の照明を暗くした。そして、ベッドの上に登ると、そのまま壁
際のところに小さく横たわった。

「・・・・」

僕はそのまま両目を閉じた。そして綾波も、黙ってベッドの上に乗り、そっと
横たわると僕と自分にその夏がけを掛けた。

「・・・・」

僕は目をつぶり、さっさと眠ろうと心がけたが、そういう事を考えている時は、
大抵眠れないものである。それに、綾波がほんのすぐ側に横になっているとい
うことが、僕の神経を過敏にして、心を落ち着けることを出来なくさせた。
すると、僕の背中の方から、綾波の声が聞こえた。

「・・・・碇君?」
「何、綾波?」
「まだ、眠ってない?」
「うん。こうして返事してるからね。」
「・・・・・こっち、向いてくれないの?」
「・・・うん。綾波には悪いけど。」
「・・・・・」
「まあ、背中を向けて話をするなんて、失礼なことかもしれないけど、こうし
てていいなら、少しくらい話をしてもいいよ。」
「・・・・ありがとう、碇君・・・・」
「いや、話を聞くくらいは大した事ないよ。」
「・・・・・」
「・・・・話、ないの?」
「ううん・・・」
「何か、言いにくいことなの?」
「うん・・・」
「そう・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・・・」

少しの間、僕と綾波の間に沈黙が流れる。しかし、僕は別に綾波を急かすつも
りはなかった。さっきのキッチンでの会話もあるし、これから綾波の口から出
る言葉が、重いものかもしれなかったからだ。

「・・・・碇君・・・・?」
「・・・何、綾波?」

僕はいつものように、それしか言わない。そして、そんな僕の態度が、綾波の
重い唇を動かす結果となった。

「・・・・私、おかしい?」
「えっ・・・?」
「私、普通じゃないの?」
「・・・・どういうこと?」
「碇君は私にどんな力があるか、知ってるでしょ?」
「・・・うん・・・・・・」
「だから、私はなれないの。普通の女の子には・・・・」
「・・・・」
「とにかく、今までの私はそうだと思ってた。でも、今は・・・・」
「・・・今は?」
「私も普通になれる、そんな気がするの。」
「・・・・」
「でも、誰もそれを証明してくれる人はいない。たとえ碇君でも・・・・」
「・・・・僕は・・・・駄目なの?」
「碇君は私のこと、やさしいって言ってくれる。それは私にとって、とてもう
れしいことなの・・・・」
「・・・・」
「でも、やさしくするのは、人間でなくても出来る。機械も人形も、人にやさ
しくすることは出来ると思うの・・・・・」

僕はそういう綾波の考えを、少し違うのではないかと思っていたが、それより
も綾波の話の腰を折ることを恐れ、そのまま黙って続けさせた。

「・・・だから、やさしいってことは、私が人間だって言うことの証明にはな
らないの・・・・」
「・・・・どうすれば、人間だっていう証明が出来るの?」
「・・・・・・・こうすること・・・・・・」

僕の問い掛けに、綾波は小さくそう言うと、そっと僕の背中から抱きついてき
た。

「あ、綾波っ!!」

僕は慌てて声を出したが、綾波はそんな僕にかまわずに、何事も無かったかの
ようにそのまま言葉を続ける。

「・・・・私、あったかい?」
「・・・・」
「・・・私、血が通ってるの。だから冷たくなくて、あったかいの。」
「・・・・」
「・・・・答えて、碇君。私、あったかい?」
「・・・・うん。」
「・・・よかった、碇君がそう言ってくれて。」
「・・・ならもういいでしょ?綾波だって、アスカと約束したんだし・・・・」
「・・・・・」

綾波は僕の困ったような言葉に、黙ったまま応えようとはしなかった。そして、
そのまま僕の身体をきゅっと抱き締める。

「・・・・」
「・・・碇君もあったかいのね。私とおんなじ、人間の証・・・・」
「・・・・」
「・・・・・碇君、ごめんなさい・・・・・」
「・・・・」
「・・・碇君が嫌がっても、もう私は離さないから・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・・・・・碇君・・・・」

何も言えない自分がそこにいた。
僕の理性では、綾波を拒むべきだと思った。
しかし、僕の感情はそこまでしては可哀想だと言っていた。
そして僕は、その狭間にとらわれて、身動きが取れなくなっていた。
綾波の言うように、綾波の温もりが伝わる。
そして、それと同時に綾波の心も・・・・

僕は綾波の言葉が、こうするための口実であると悟っていた。
はっきり言って、アスカとのやり取りになれた僕にとっては、ぎこちない綾波
のやり方は、手に取るようにわかっていた。
しかし、そうやって技巧を凝らす綾波の中に、僕にすがり付いてくる綾波の姿
もあった。

綾波の心は泣いていたのだ。
ほとんど人間と変わりがないにもかかわらず、ほんのわずかな違いがあること
によって、綾波が完全な人間になることを妨げている。
綾波がそうだということは誰も知らない。
少なくとも、世間一般の人は綾波を見て何か疑いを持つものはいないだろう。
しかし、僕がそれを知っているのだ。
綾波が一番知られたくなかった、この僕が・・・・・

僕と綾波との始まりは、綾波がそうであるというところから来ていた。
だから、綾波がそうでなければ、もしかしたら僕と綾波の関係は成立していな
かったのかもしれない。
そう考えると、僕の心は複雑だ。
そしてきっと綾波の心は、僕以上に入り乱れているだろう。
だから、綾波はこうすることで逃げているのかもしれない。
どうにもならない、悲しい自分自身について・・・・

今の僕には、綾波の逃げを非難することも出来た。
しかし、僕はそんな資格がないと思っていた。
綾波も人間なら、逃げの一つや二つは当然してもしかるべきであろうから・・・・

だから、僕は黙っていた。
綾波が自分からやめるか、それとも僕が、眠りに落ちてゆくまで・・・・


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