私立第三新東京中学校

第百九十五話・ひとことの愛


「ふぅ・・・・」

僕は大きなバスタブの端に身体をもたせ、あごの先までお湯に浸かりながら、
大きく息をついた。

「・・・・何だかあんまり違和感感じないなぁ・・・・・」

本当にそうだった。
普通、僕は知らない人の家に来たら、こんなにくつろげることはない。洞木さ
んやトウジの家に行った時でさえそうだ。それなのに、はじめて使うお風呂場
なのに、どういう訳か心は穏やかだ。
また、僕の心に穏やかさを与えてくれる出来事があったからなのかというと、
そうも思えない。大体基本的に僕の周りではいつもごたごたしているし、気苦
労も絶えない。まあ、以前の無為な生活よりとは比べようもない、充実した毎
日を送っていると感じているので、それは僕にとって苦痛でもなんでもなく、
心地よい刺激を与えてくれるものであった。

人はすることがないと、腐ってしまう。
今の僕も、少しはそうなのかもしれない。アスカも綾波も立ち直り、もう僕に
出来そうなことはほとんどない。だから、さっきみたいに綾波に言うこともあ
るけど、大方のほほんとしていても全く問題はない。だから、これから僕も何
かを見つけなくてはいけない。ちょうど引っ越しという一大事業も果たしたこ
とだし、これから続けられるものを見つけるべきだろう。
今の僕に出来るものと言ったら、料理とチェロくらいなものだ。しかし、料理
はともかくチェロとなると最近はほとんど弾いていない。まあ、僕は元々うま
い訳でもなく、人がやらないものを珍しくもやっていたから、少々注目に値す
るだけで、それを一生続けるとなると考えてしまう。
第一僕はチェロが好きなんだろうか?そう改めて考えて見ると、料理のような
情熱めいたものは感じない。ただなんとなく、心を慰める時に弾く程度だ・・・・
だとすると、やはり僕には料理しかないのだろうか?たとえプロの料理人とし
てやっていかなくとも、僕の好きなこととして、これからも料理は続けたいと
思う。ちょうどいい環境が与えられたことだし、ちょっと今までとは違った、
割と本格的な料理を作ることに挑戦でもしてみようか?

僕はそう思うと、立ち上がって湯船から出た。
身体はもう十分暖まっている。後は、自分の部屋に戻って寝るだけだった。取
り敢えず僕は、バスタオルでざっと身体を拭くと、部屋から取ってきておいた
着替えを身につけた。本来ならもう少し身体がちゃんと乾くまでゆっくりした
いところだが、どうもアスカと一緒に暮らすようになって以来、さっさと服を
着ることが習慣づいているらしい。
そして、僕は着替え終わるとキッチンへ戻った。アスカや綾波がまだいるかも
しれないと思ったからなのだが、僕が行った時には、もう既にアスカと綾波の
姿はなく、照明も消されていた。だから僕は、そこから自分の部屋に戻ろうと
したが、途中でふと足を止める。

「・・・・父さん、何してるんだろう・・・・?」

父さんはあれ以来、僕達の前に全く姿を現さなかった。僕は父さんが愛想のい
い人間だなんて微塵も思っていないから、それは全く不思議に感じてはいない。
いや、むしろそっちの方が父さんらしいと思っている。
しかし、奥に少しだけ他よりも立派そうなドアがあって、そこからかすかに明
かりが漏れていた。物音一つしなかったので、さっきまでは全くそのことに気
付かなかったが、僕はちょうどこれから寝るということで、盛大につけられて
いた明かりを切っていったので、辺りは夜の暗さを取り戻し、そこでその部屋
のことに気付いたのだ。

父さんはこの中にいる。
何をしているかなんて僕にはわからなかったけど、とにかくいることだけはわ
かった。そして自然と僕の足は、そのドアの前に向かっていた。

「・・・・・」

しかし、それ以上、僕は何も出来ずに立ち止まってしまった。
果たしてここで中に入って父さんと顔を合わせるべきなのだろうか?
僕は別に、父さんが怖い訳ではなかった。でも、何だか入ることは無性にため
らわれた。父さんはきっと忙しいだろうし、夜遅くで疲れているかもしれない。
それに、朝顔を合わせるからいいではないか・・・・
と、そう思って僕ははたと気がついた。無意識のうちに父さんから逃げようと
してしまっている自分に。
今まではそれでも構わなかったかもしれない。しかし、これからは家族として
一緒に暮らすことになるのだ。だから逃げてなんかいられない。そもそも、初
日からそうすれば、後々まで引きずるということは目に見えているはずだ。だ
から僕はここで父さんと話をしなければならない。何でもはじめが肝心なのだ
から。

こうして僕は意を決すると、重々しいドアをノックした。

コンコン!!

「・・・・何だ?」

静かで重々しく、そっけないいらえ。でも、それは予期していたことだ。

「父さん?」
「だからなんだ?用があるなら早く言え。」
「・・・・僕、もう寝るから。だから・・・・・」
「・・・・」
「・・・ちょっと入ってもいいかな?」
「・・・・好きにしろ。」

僕は恐る恐るそう訊ねた。内心ではすげない拒絶の言葉に出会うのではないか
と思っていたが、現実はもう少し僕にやさしく微笑んでくれた。

「あ、ありがとう、父さん。」

僕は少し驚きながらそう言うと、ドアノブを回し、中に入った。

「・・・・・」

父さんは僕が中に入っても、こっちを向いてくれようともしなかった。部屋は
僕の部屋よりもずっと広く、調度品も立派なもので、まるで学校の理事長室を
思い出させた。しかし、理事長室は、ドアに向かって座るような形になってい
たが、この父さんの部屋は、ドアに背を向けて座るような配置であった。
父さんは僕の視線を背後に感じているのかどうなのかわからないが、なにやら
書き物をしているようだった。何を書いているのか後ろから覗き込むほどの度
胸は僕にはなかったが、とにかくこうしてずっと立っている訳にも行かないの
で、そのまま父さんの背中に話し掛けた。

「・・・・と、父さん?」
「・・・・・」
「あ、あの・・・・今日はありがとう。」
「・・・・・」
「・・・こ、これからは一緒に暮らすようになるんだけど・・・・父さんはど
うかな?」
「何がだ?」
「い、いや、ほら、迷惑とか大歓迎とか・・・・・」
「・・・・・私には、大して関係のないことだ。」
「・・・・ど、どうして?」
「・・・・別にお前達と一緒にいる訳でもない。それに、お前達に時間を割い
てやれるほど、私は暇ではないからな。」

僕はそんな父さんの言葉に、ひとことつぶやいた。

「・・・・忙しいんだ、父さん・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・いつも父さん、何してるの?理事長なんて、する仕事もほとんどな
いんでしょ?どうせ細々したことは前みたいに冬月校長にやらせるんだろうし・・・・」
「・・・それこそ、お前には関係のないことだ。」
「・・・・・関係ないの?」
「当然だ。」
「本当に?まだ全ては終わってないんでしょ?」
「・・・・・」
「ねえ、教えてよ。今、僕達の周りに何が起こっているの?何だか何か変わり
つつあるような気がするんだ。父さんもそれに関わっているんでしょ?」

僕はつい、話に深入りしてしまった。もしかして、顔を合わせずに話をしてい
たということが、僕の心に油断を与えていたのかもしれない。とにかくそれが
僕の過失だということに気付かされたのは、次の父さんの言葉を聞いてからの
ことだった。

「・・・・お前は私の仕事の邪魔をしにここに来たのか?」
「え・・・・」
「用がないなら出て行け。私は忙しい。」
「・・・・・わかったよ、父さん・・・・・」

そして僕は、結局一度も父さんと顔を合わせぬまま、父さんの自室を後にして
いった。

「・・・・・」

僕は最後に重々しいドアに視線を向けて、それから自分の部屋へと向かった。
が、その前に、アスカの部屋に立ち寄る。綾波は自分の部屋に一人でいるのも
怖いみたいな事を言っていたから、アスカの部屋に一緒にいると思ったのだ。

コンコン!!

「アスカ、入っていい?」

僕がドアをノックしてから、部屋の中のアスカに呼びかけた。すると、すぐに
アスカから返事が返ってくる。

「いいわよ。入りなさいよ。」
「う、うん。じゃあ・・・・」

僕はそう言って、静かにドアを開け、身体を部屋の中に滑り込ませると、音を
立てないようにドアを閉めた。すると、そんな僕を見たアスカがこう言ってき
た。

「アンタ、何だかそれじゃあ夜這いにくるみたいじゃない。そんなに静かにゆ
っくり閉めなくっちゃなんない訳?」
「えっ、い、いや、夜だし静かにした方がいいと思って・・・・って、綾波は
一緒じゃないの!?」

僕はアスカの言葉に言い訳しつつも、部屋の中を覗いてみて、そこにアスカ一
人しかいないことに気付いた。そしてそれに驚いてアスカに疑問の声をぶつけ
る。するとアスカがそんな僕に向かって少々苦い表情をして言って聞かせた。

「そうなのよ。アタシは取り敢えずシンジが来るまでここにいろって言ったん
だけどね。」
「そ、そう・・・・じゃあ、綾波は今、あの自分の部屋にいるの?」
「違うのよ。あいつ、アンタの部屋でアンタの帰りを待ってるって・・・・ほ
んと、まるで女房気取りよね。もしかしたら、三つ指ついてお出迎えなんてこ
とも有り得るかもよ?」
「じょ、冗談はやめてよ、アスカ・・・・」

僕はアスカの言葉に困ったようにそう言うと、アスカはいつものように僕をか
らかうことなく、少し真剣そうに言った。

「冗談なんかじゃないって。アンタだって、あながちなくもないって思わない?」
「そ、それは・・・・」
「思うでしょ?レイならやりかねないわよ。最近やたらとそういうこと、勉強
してるみたいだから・・・・」
「そ、それもそうだね・・・・」

僕はアスカの苦々しい表情に、同じく苦笑いを浮かべながら相づちを打った。
すると、アスカは僕に向かってこう言う。

「だからアンタ、今晩は十分注意なさいよ。あいつ、何をしでかそうとするか
わかったもんじゃないから・・・・」
「う、うん。アスカに言われたとおり、十二分に用心することにするよ。」

僕がそう言うと、アスカは意外そうな顔をして僕に言った。

「・・・・アンタにしちゃあ珍しいわね。いつもだったら大丈夫だよ、とか、
そんなことあるわけないじゃないか、って言うのに・・・・」
「あ、そう言えばそうだね。」
「・・・・アンタ、何かあったの?少しだけ、いつもと違うような気がするけ
ど・・・・」
「・・・・・・・・アスカの気のせいだよ、きっと。」
「そう・・・?」
「うん。じゃあ、僕はもう寝るけど、アスカもゆっくり休んでね。」
「え、もう行っちゃうの!?」
「うん。綾波をあんまり待たせるのも悪いし・・・・」

僕はそう言った時、瞬時にアスカの表情が曇ったのがわかった。だからと言う
訳ではないが、僕はアスカを安心させるようにやさしく言った。

「でも、アスカは安心していいよ。気を付けるし、それにほんとに危なくなっ
たら、アスカに助けを求めるからね。」
「・・・・・」

僕はそう言うと、アスカに背を向け、部屋の扉を開けた。そして部屋を出てド
アを閉める時、ここに引っ越して来る途中の道で言おうと思っていたことを、
忘れずにアスカにひとことだけ告げた。

「・・・・好きだよ、アスカ。おやすみ。」

そして、アスカの反応を待たずに僕はそっとドアを閉めた。
僕はこれがアスカをどれだけ安心させるかわからないけど、今の僕に出来る最
大のことだと思って満足していたのだった・・・・・


続きを読む

戻る