私立第三新東京中学校

第百九十二話・それぞれのベクトル


クリーム色に塗られた壁。
タンスはないが、クローゼットがある。
そして窓際に机がひとつ・・・・
今僕が寝そべっているのは、割と頑丈そうなセミダブルのベッドだ。
それには真っ白い清潔そうなシーツがかけられ、毛布も新品のものが用意され
ていた。

僕は別に、自分に与えられた部屋に家庭的なものを求めた訳ではない。人がい
なかった部屋に来るのだから、そうであって当たり前である。だから僕は今の
環境を嘆きはしなかったけど、こうして天井を眺めていると、今まで住んでい
たミサトさんのマンションが思い出され、ほんの少しだけ切なくなった・・・・

コンコン!!

「シンジ、入るわよ。」

ノックなど何の意味もないかのように、アスカがいきなり返事も待たずに僕の
部屋に入って来た。

「・・・アスカ、なに?」

僕は取り敢えずベッドから身体を起こしてアスカに訊ねた。するとアスカは大
きな声で僕にこう言ってきた。

「なに、じゃないわよ!!アンタ、もしかして今晩はずっとこうしてるつもり!?」
「え・・・?ま、まあ、そうだけど・・・・・」
「アンタバカ!?アタシ達はまだお風呂にも入ってないのよ!!」
「そ、そうだねぇ・・・・」
「ったく、アンタは男だから一日くらいお風呂に入らなくったっていいって思
うのかもしれないけど、アタシもレイも、年頃の女の子なんだからね!!」
「うん・・・・それは僕もわかってるけど、だから僕にどうしろと?」

僕はどうしてアスカがこんなに大声を張り上げているのかが全くわからずに、
大して気のない声でアスカにそう訊ねた。アスカはそんな僕の言葉を聞くと、
更に大きな声を出して僕に言った。

「ア、アンタって正真正銘の馬鹿ね!!さっきから言ってると思うけど、アタ
シ達は今んとこアンタのおまけなの!!だからレイはともかくこのアタシが勝
手にこの家の中を物色してまわるわけにはいかないでしょ!?」
「そ、そうなの・・・・?」
「そうなのよ!!だから、アンタもアタシに付き合いなさい!!いいわね!?」
「い、いいけど・・・・」
「ほら、わかったならさっさと行く!!もう夜も遅いのよ!!早くしないとお
風呂に入る時間なんてないじゃない!!」
「わ、わかったよ・・・・」

こうして、僕はアスカに急き立てられるように、自分のベッドから飛び降りて、
アスカに続いて部屋を出た。

コンコン!!

「レイ、いるでしょ?入るわよ?」

アスカは僕の時と同じように、綾波の部屋にもほとんど勝手に入り込んだ。ま
あ、僕の偏見かもしれないが、僕の時に比べればアスカのやり方は随分と丁寧
だ。大体最近のアスカは綾波に甘すぎる。確かに綾波はこう、何と言うか、何
事にもまめだし、素直なのでかわいげがある。僕はそこが綾波のいいところだ
と思っているのだが、きっとアスカにもそれは伝わっているのだろう。

アスカがドアを開け、僕もアスカの肩越しに綾波に与えられた部屋を覗き込ん
だ。外観は僕の部屋と全く同じで、部屋の設定には何の思惑もなく、機械的に
整えられたのだと言うことがわかった。
しかし、そんなことはどうでもいいと思えてしまうような光景が、僕の目に飛
び込んできた。それは、その時の綾波の状態が、僕のようにベッドの上に寝そ
べっていた訳でもなく、また勉強机とセットになっている椅子に腰掛けている
訳でもなく、床の上にぺたりと体育座りをしていたからだった。

「・・・なに、アスカ?」

綾波はいつもの平板な声で、そこに座ったままアスカに訊ねる。しかし、アス
カは綾波の不可解な様子に驚いてしまって、本来の目的を語らずに綾波に訊ね
た。

「ア、アンタ、一体そこでなにやってんのよ・・・?」
「・・・何って・・・・何もしていないわ。」
「そ、そんなの見ればわかるわよ!!アタシが言いたいのは、どうしてそんな
床にべたっと座ってるのかってことよ!!」

アスカは綾波がよくわかっていないことにいらだち、大きな声で綾波に叫んだ。
しかし、僕がすくんでしまうアスカの叫びにも綾波は一向に動じる気配を見せ
ずに、静かにアスカに応えた。

「・・・・特に、理由はないわ。」
「って、理由がなかったら、普通はベッドだとか椅子だとかに座るでしょうが!!
床に座り込むなんて、アンタちょっとおかしいわよ!!」
「・・・・・」
「聞いてるの、レイ!?」
「・・・・聞いてるわ。」
「じゃあどうして椅子とかに座んないのよ!?」
「・・・・・触りたく、ないから。」
「・・・・な、何言ってんのよ、アンタ・・・?」
「・・・・・私、やっぱり怖いの。」
「・・・・・」
「・・・・あの人が、また以前のように私を扱うんじゃないかって。だから、
あの人の触れたものにはあまり触れたくないの・・・・・」
「レイ、アンタ・・・・」
「あの人がわざわざ自分でこんなことはしないだろうってことくらい私にだっ
てわかるの。でも、もしかしたら・・・・もしかしたらって思うと、私は怖い。」
「・・・・・」
「私はずっと、あの人のすることが普通だと思ってた。アタシはあの人のこと
しか知らなかったから。でも、私の元に碇君が現れて・・・・それで私ははじ
めてあの人が私に向けるものがおかしいことに気付いたの。だから今、私はあ
の人が怖い。そしてあの人の住む家が、あの人の側にいることが怖くてならな
いの・・・・」

アスカは綾波の告白に唖然としてしまったが、何とか口を開いて綾波にこう言
った。

「・・・・アンタ・・・そこまで嫌なら、わざわざアタシ達についてくること
なかったのに・・・・」

すると綾波は、そういうアスカの言葉をきっぱりと否定した。

「でも、私は碇君と一緒にいたかったから・・・・・」
「い、一緒って言ったって、学校もあるんだし、ミサトのところでも大して問
題はないじゃない!!」
「・・・・私は一時も、碇君と離れたくない。」
「じゃ、じゃあこれからどうすんのよ?そんな怖いなんてこと言ってたら、と
てもじゃないけど暮らして行けないんじゃない?」
「・・・・多分、しばらくすれば大丈夫だと思うから・・・・」
「そ、そう?」
「うん・・・・」
「でも、しばらくじゃない時はどうすんのよ?今日とか明日辺りは・・・?」

アスカがそう訊ねると、綾波はすっと立ち上がって僕の方に近付いて来て、そ
して僕に向かってこう言った。

「・・・碇君・・・・」
「な、何、綾波?」
「少しの間だけでいいから、碇君の部屋に一緒に居させて?」
「え、えっ!?」
「碇君と一緒に居れば、私も大丈夫だから・・・・」
「で、でもねぇ・・・」

僕は半ば困ったように、綾波に言葉を返す。するとアスカがそう言う綾波に提
案して来た。

「・・・・アタシのところに来なさいよ、レイ。何だったら、しばらく一緒の
ベッドに寝かせてあげてもいいから。」

アスカの言葉は、何だかやけに力強いものがあった。きっとそれは、ほとんど
強制の言葉だったのだろう。僕はアスカのちょっとした口調の変化で、すぐに
それが読み取れた。しかし、綾波はそこまでアスカの心を読むのに長けてはい
ない。綾波はアスカのそれをただの申し出としか受け取らずに、アスカに向か
って静かにこう言った。

「・・・ごめんなさい、アスカ。でも、やっぱりまだ、アスカじゃ駄目なの。
アスカのことを避けてる訳じゃないんだけど、私には碇君じゃないと・・・・」
「・・・・・」

アスカはそう答えた綾波の瞳を黙ってじっと覗き込んだ。そしてアスカは綾波
の目に少しの邪念も無いことを悟ると、僕の方を向いてきっぱりと言った。

「シンジ、わかってるわね?」
「へ?」
「レイには指一本触れるんじゃないわよ。触れたらコロスからね。」
「・・・・も、もちろんだよ、アスカ。」
「襲われそうになったら、大声でアタシの助けを呼ぶのよ、いいわね!?」
「お、襲うって・・・・・」

僕はアスカの言い様に呆れた声を出したが、アスカはそんなものは気にもとめ
ずに綾波に向かって言った。

「レイ、アンタも、いくらシンジと二人っきりだからって、よからぬ事を企む
んじゃないわよ、いいわね!?」
「・・・・・」
「ど、どうしてそこで返事が出来ないのよ!?アンタがはっきりとアタシに誓
うまで、シンジの部屋で寝かせることは許さないわよ!!」
「・・・・わかったわ、アスカ。」
「な・に・が、わかったのよ?そこのところをはっきりと口にしてもらわない
と、アタシも安心して眠れないわね。」

アスカは抜かりなく、綾波の言質を取ろうとした。アスカもいろいろ懲りてい
るのか、こういうところは細かくなっている。そして綾波もアスカにそこまで
はっきりと言われてはあいまいなことを言うことも出来ずに、心なしか仕方な
さそうにアスカに言った。

「・・・・碇君の部屋では、碇君には手を出さないわ。」
「シンジの部屋ぁ!?」
「・・・アスカだって、どうせ碇君に手を出すんでしょう?だから私も・・・・」

綾波が小さく非難めいた口調でそう言うと、アスカは少し真剣な顔をして綾波
に言った。

「・・・アタシはもう、シンジには手を出さないわよ。絶対に・・・・」
「・・・・・」
「アタシはこれから、シンジに手を出してもらうのを待つことにしたんだから。」
「・・・・アスカはそれで・・・・いいの?」
「・・・いいわよ。アタシは別に、寂しくなんかない。」
「そう・・・・わかったわ。じゃあ私も、なるべく碇君には手を出さないよう
にする・・・・」
「・・・・・」

アスカは黙ってしまった。
アスカの心に去来するもの、それが何なのか僕にはわからない。
ただ、今のアスカが、いつものアスカではないと言うことは、僕にもよくわか
っていた。

綾波がそんなアスカをどう思ったのか、僕には知るすべはなかったが、綾波は
そのままアスカに背を向け、自分の少ない荷物を手に取ると、再びアスカの正
面に立ってこう言った。

「・・・・この荷物、碇君の部屋に置いて来たいんだけど・・・・」
「・・・そうね。アタシもここに来た理由、この家を探索するのにアンタも誘
おうと思ったって言うことだから、ちょうどいいわね。さっさと荷物を置いて、
三人で行きましょ。」
「・・・・わかったわ、アスカ。」

そして僕達三人は、綾波の部屋を出た。
綾波は速やかに僕の部屋に荷物を置き、家の中を探索することになった。

「・・・アスカ?」
「なによ、シンジ?」

アスカの返事は、何だかいつもより少しよそよそしい。僕にはその理由が、な
んとなく感じ取れていた。しかし、そんなことはおくびにも出さずにアスカに
いたって普通に訊ねる。

「その・・・・僕達、勝手にうろついちゃってもいいのかな?」
「・・・・いいに決まってるでしょ。アタシ達は親戚のうちにでも泊りにきた
訳じゃないのよ。ここは今日からアタシ達のうちなんだから、好きなようにし
て構わないの。まあ、家のものを壊すとかそういうのは論外だけど・・・・」
「・・・そ、そうだね・・・・」
「そうよ。全くアンタは、そういうところがよくわかっていないんだから・・・・」

アスカは何だか少し寂しそうにそう言った。
アスカの言葉の内容は、いつものものと変わりがない。しかし、アスカの口調
は大きく異なっていた。普通なら「アンタバカ!?」とでも言ってから、大き
な声で僕を責めるって言うのに・・・・

アスカの気持ちはわかる。
むしろ僕は当然のことだと思う。
でも、僕はいつものアスカ、飛びきり元気なアスカの姿が見たかった。こんな
しおれたようなアスカは、僕の知ってるアスカじゃない。それは僕の勝手な考
えなんだろうけど、その考えを捨てることは出来なかった。
もしかして僕も、アスカと同じなのだろうか?アスカは僕を自分好みの僕にし
たくていろいろうるさく言ってしまうと言っていた。そして僕も、アスカを自
分好みの元気な女の子に戻したいと躍起になっている。もしかして僕は、アス
カのことが好きなんじゃないだろうか?今までは綾波よりは好き、と言う程度
にしか見ていなかったけど、よくよく考えて見ると、最近の僕はアスカのこと
を追いかけてばかりだ。こういうのは客観的に見て、僕はアスカのことが好き、
と見ることが出来るのではないだろうか?
だとすると、何だかうれしい。あまり実感はないけど、それは僕が、普通の中
学生になってきたという証拠なのだから・・・・


続きを読む

戻る