私立第三新東京中学校
第百九十話・風
起伏のある街、第三新東京市。
少し市街地を外れると、そこにはもう、広大な自然が広がっている。
もう日本に自然はなくなったなんていう人もいるけど、僕にはまだ、たくさん
残っているように思える。無機質な建物が視界に広がりはしても、その合間に、
木々の緑が僕達の目を楽しませる。人の手によって作られた自然ではなく、自
ら生み出した自然。それは僕達に、いつも生命の喜びを教えてくれた。
そして今、僕はなだらかな坂を登る。
暗闇の中、僕達を照らすのは街灯の明かりだけで、それは僕達のアスファルト
に塗り固められた足元を照らしてはいても、すぐそこにある木々を照らしては
くれなかった。だから、僕の目にはよく見えなかったけれど、穏やかな風が運
んでくる草木の匂いに、僕はそれがそこにあることを感じていた。そして今、
僕は明日の朝、またここを通る時に朝日の元で見る緑の景色を思い浮かべて、
幸せな気持ちに浸っていた。
「シンジ、あれ・・・・が、そうなんじゃない?」
「うん・・・・」
アスカが指差す建物に、僕も同じものを感じていた。
辺りにそれらしい建物は見当たらないし、僕にはなんとなく、直感でそれがわ
かった。
「まあ、一戸建てじゃないけど、悪くないマンションなんじゃない?」
「うん・・・・まあ、取り敢えず住めれば僕はいいよ。」
「って、冗談でしょ!?アタシはそんなんじゃ満足しないわよ!!せめて、自
分の部屋くらい持てなくっちゃ!!」
「その辺は大丈夫なんじゃない?ミサトさんだってあんな部屋数のあるマンシ
ョンに住んでたんだし、それよりえらい父さんなら、もっと部屋数くらいたく
さんあると思うよ。」
「だといいんだけど・・・・しかし、それにしても、ずいぶん辺鄙なところね
ぇ・・・・これじゃあ学校に行くのも一苦労なんじゃない!?」
「そうだね。でもまあ、その分自然がいっぱいあって、悪くない環境だと思う
よ。」
僕がそう言うと、アスカは露骨に馬鹿にしたような口調で言った。
「アンタバカ!?アンタはまだ年寄りじゃないんだから、自然に恋焦がれるこ
ともないでしょ!!大体中学生なんてのは、街の喧騒を求めるもんなのよ。だ
から、こんなところは立地条件としては最悪ね。それに、今度からヒカリ達と
一緒に学校に行けなくなっちゃうじゃないの!!」
「あ・・・・それもそうだね。すっかりそのことを忘れてたよ・・・・やっぱ
りトウジやケンスケ達と一緒に学校に行きたいし・・・・」
僕はアスカの言葉に大事なことを気付かされてそう言った。すると、それまで
黙っていた綾波が、僕達に向かって言う。
「・・・それなら大丈夫よ。ここは、学校からそんなに遠くないから・・・・」
「って、どうしてそんな事がアンタにわかんのよ?」
アスカは綾波の発言に疑わしい視線を送りながらそう訊ねた。しかし、綾波は
そんなアスカの視線には動じることなく、はっきりとした口調で答えた。
「私、この街の地理はすべて頭の中に仕舞い込んであるから。だから、ここが
どの辺りなのかも、大体わかるの・・・・」
「じゃあ、もしかしてアンタ、シンジのお父さんの家の場所、知ってたんじゃ
ないの?」
アスカはまだ綾波から疑いを解くことなく、そう自分の疑問をぶつけた。綾波
はアスカの質問に身体を一瞬ぴくりと震わせたが、何事もなかったかのように
アスカに返事をした。
「・・・・知らないわ。確かに私か碇理事長の家を知ってた。でも、そこは今
の場所とは違うの。闘いが終わってから、この街も大分変わったから・・・・」
「そ、そう・・・・ならいいけど。でも、それよりここから学校がそんなに遠
くないって言うのは本当なの?」
アスカは綾波の雰囲気に、もしかして自分は何か聞いてはならないことを聞い
てしまったのかとでも思ったのか、少しいつもの覇気を欠いていた。そして、
今の話から話題をそらそうとするかのように、綾波に訊ねた。
「・・・・ええ。以前程近くはないけど、アスカが心配するほど、遠い距離じ
ゃないわ。」
「ほんとでしょうね?」
「ほんとよ。間違いないわ。」
「・・・・ならいいけど。で、アンタのその地理的判断からして、ヒカリ達に
はいつものように迎えに来てもらった方がいい訳?それとも、アタシ達が向こ
うに行った方がいいの?」
「・・・・どっちもよくないわ。私たちも、洞木さん達も、迎えに行くには離
れすぎてるから、だから、途中で待ち合わせをするのが一番だと思う。」
「待ち合わせねぇ・・・・まあ、仕方ないのかもしれないけど・・・・」
「ええ。仕方のないことなの。」
「じゃあ、後でヒカリのところに電話しとかないとね。まったく、めんどくさ
いたらありゃしない。」
アスカはそうぶつぶつこぼすと、頭の後ろで両手を組んで、周りの景色を眺め
始めた。僕と綾波が重い荷物を持っているのに、アスカは手ぶらで呑気な話だ。
僕はそんなアスカの様子にちょっとだけむっと来たが、まあ、怒ってもしょう
がないことなので、僕は諦めて気にするのをやめた。全く、アスカと付き合っ
ていると、とことん気が長くなってしまう。まあ、そうでもないと、とても正
気ではいられないのは事実なのだが・・・・
「綾波、済まないね・・・・」
「・・・何が、碇君?」
「いや、綾波が一番荷物が少なかったのに、僕と同じくらい持たせちゃって、
反対にアスカは手ぶらだなんて言うんだから・・・・」
僕が綾波に済まなそうにそう言うと、綾波は少し微笑んで僕にこう応えた。
「そんなこと気にしないで、碇君。私は好きでやってることなんだし、アスカ
はアスカで、何か考えがあるんだと思うから・・・・」
「アスカに考え!?少なくともこれに関しては、深い意味なんてないと思うけ
どなぁ。」
「そう?」
「そうだよ。綾波も、アスカのことを買いかぶりすぎなんじゃない?まあ、綾
波が考えているように、アスカはかなりの策士でいろんなことに含みを持たせ
てたりするけど、今回のこれは単に楽をしたいだけだと思うよ。」
「碇君はそう思うの?」
「うん、そう思う。」
「じゃあ・・・・」
僕が綾波にはっきりそう断言して見せると、綾波はそう言ってとことことアス
カの方に行ってしまった。そして僕が止める間もなく綾波はアスカと何か話を
すると、アスカを伴って僕のところにやってきた。
「ほら・・・・」
アスカはそう言って、僕に両手を差し出す。しかし、僕はアスカの行動が何を
意味しているのかさっぱりわからずに、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「はぁ!?」
「は、はぁ、じゃないわよ!!アタシが折角荷物を持ってやろうって思ったの
に!!」
アスカは大きな声を出して僕を非難した。僕はようやくそれではじめてアスカ
の意図することを理解し、済まなそうにこう言った。
「ご、ごめん、アスカ。気が付かなくって・・・・」
「全く、アンタの鈍感には参っちゃうわよ。いいから貸しなさい!!アタシが
半分持ってあげるから・・・・」
「い、いいよ、別に・・・・」
僕はアスカの申し出に素直に従うのは何だか気が引けたので、小さな声で拒む
と、アスカはいっそう大きな声を張り上げて、僕に怒りをぶつけた。
「ア、アタシの好意を無にする訳!?それに、自分からアタシを手ぶらにさせ
ておいて、それでまたレイにアタシの文句を言うんじゃ世話ないわよ!!」
「あ・・・・」
「あ、じゃないわよ!!全く、アタシをおとしめて、そんなにアンタは楽しい
訳!?どうせある事ない事、アタシの悪口をレイに吹きまくったんでしょ!!」
「そ、そんなことしてないよ・・・・」
「・・・どうだか?アタシは強引だとか、アタシはわがままだとか、アタシは
狂暴だとか言ってたくせに・・・・」
「い、言ってないってば!!」
「アンタの嘘にはもう真っ平なのよ。信用置けないわ。」
「う、嘘なんかじゃないって!!」
「じゃあ、どうやってそれを証明するつもり!?アンタがうそつきだってのは、
周知の事実なのよ。」
「そ、それは・・・・・」
「・・・・どうせアタシのこと、好きだなんて言ったのも、嘘なんでしょ?」
「う、嘘じゃないよ!!第一僕がそう言って一体何のメリットがあるって言う
んだよ!?」
「アタシと愛のあるキスが出来るわ。そしてあわよくばそれ以上も・・・・」
「な、何言ってんだよ。」
「アンタはやったことなかったから、ちょっとだけやってみたかったのよ。ア
タシの愛を利用して・・・・ひどい男ね。女の子の純情をもてあそぶなんてっ!!」
「ア、アスカぁ・・・・」
アスカの勝手な妄想に、僕はほとほと困ってしまった。それに、アスカが本気
で言ってるのか、冗談で言っているのかがわからなかったので、何て言ってよ
いかわからなかったのだ。
するとアスカは、僕をじっと見つめてひとこと訊ねる。
「・・・・もてあそんだんでしょ?」
「ち、違うって。」
「じゃあ、そうじゃないっていう証をちょうだい。」
「あ、証って・・・・ほ、ほら、これがあるだろ?」
僕はそう言うと、自分の前髪を軽くかきあげて、まだうっすらと残るアスカの
キスマークを見せ付けた。アスカはそれを見て、一瞬だけ躊躇した様子を見せ
たが、そのままの調子を保って言った。
「それはアンタがアタシのものだっていう証でしょ?アンタがアタシを愛して
るって言う証にはならないわ。」
「・・・・キス・・・かい?」
僕はアスカが僕をはめようとして言っているんだっていうことが、さっきのア
スカの様子でわかったものの、アスカの罠にはまらない具体的方法なんてまっ
たく見当も付かなかったので、仕方なくそう訊ねた。
「・・・・アンタがそう思うのなら、それでもいいわ。」
「綾波がいるけど・・・・」
「それが?」
「・・・・・わかったよ。」
僕はそう言って綾波の方をちらりとみると、諦めてアスカをすいと抱き寄せた。
そして僕は急いでキスをしてそれで勘弁してもらおうとしたのだが、そんな僕
の考えは甘過ぎるだけでなくひどいものだった。
「んんっ!!」
僕がアスカの身体に手をかけるや否や、アスカもものすごい力で僕を引き寄せ
た。そしてほとんど僕からキスをするのでなく、アスカに唇を奪われると言う
ような感じで、唇と唇を重ねた。そして、長いキスの後、離れ際に思いっきり
アスカに唇を噛み付かれた。
「いててっ!!何すんだよ、アスカ!!」
僕が怒ってそう言うと、アスカは厳しく僕に言った。
「すべてアンタが悪いのよ、バカシンジ!!」
「・・・・どういうことだよ?」
「アタシは言わなかった!?愛のあるキスしかしたくないって!?」
「・・・言ったけど・・・・・」
「でしょ!?だからこれはアンタへの罰なのよ。それにレイの視線ばっかり気
にしちゃってさ!!」
「・・・・・」
「だからアンタは、二重の罪を犯したのよ。レイにアタシの悪口を言っただけ
でなく、アタシの気を静めるにはキスの一つもしてやればいいって言うその根
性が気に食わないのよ。わかってんの!?」
「・・・・ごめん・・・・・」
僕がそうアスカに謝ると、アスカは今までの態度を一変させて、小さな声でこ
う言った。
「アタシが言ったのは冗談なんかじゃないんだから。女の子の純情をもてあそ
んでるって・・・・」
「・・・・・」
「・・・・わかってるの、シンジ・・・・?」
「・・・・うん・・・・・・」
「全ては愛なんだからね。愛があれば、キスなんていらないんだから・・・・」
「・・・・・」
「アタシ、わかんなくなっちゃった。アタシはレイよりいっぱいシンジにキス
してもらってるけど、果たして愛の量はどうなのかってね・・・・」
「・・・・・」
「でも、アタシはまだ、アンタの言葉を信じてるから。アタシはさっきアンタ
のこと、嘘つきだって言ったけど、ほんとはアタシ、そうは思ってないから。
だからアタシは、シンジがあの時言ってくれた言葉、アタシの方がレイより好
きだって言う言葉を、今でも信じてるから・・・・・」
「・・・アスカ・・・・」
「別にアタシはシンジに無理矢理キスさせたい訳じゃない。アタシだって、シ
ンジに嫌なことをさせたくないから・・・・」
「・・・・」
「でも、アタシはその証拠が欲しいの。そうだってはっきりとわかる何かが欲
しいの。それがキスだってなんだって、アタシは全然構わない・・・・」
「・・・・・」
僕はアスカの言葉を、ただ黙って聞いていることしか出来なかった。アスカの
言葉、一つ一つが僕の胸に突き刺さり、僕の心を傷付けていた。しかし、それ
は僕が悪かったから、僕のしたことがアスカを傷つけたから、その痛みが僕に
返ってきているだけだった。
僕は自分が嫌だった。ごまかしの、形だけの振る舞いをアスカにしていた自分
に・・・・
「・・・・アタシはさっき、今晩アタシのところに来てって言ったけど、やっ
ぱり今日は、来なくていいわ・・・・」
「・・・・・」
「アタシが馬鹿だったのかもしれないわね。アンタになんでも求めて・・・・
レイの言ったとおりよ。もう、アタシはなるべく、アンタに求めないことにす
るわ・・・・」
「・・・・・」
「別にそんな顔しなくてもいいわよ。アタシはアンタのこと、別に怒ってやし
ないし、アンタのことが好きなのも変わりがないから。でもただ、今日だけは、
今晩だけは・・・・ゆっくりと一人で考えたいの。だから、アタシを一人にし
ておいて・・・・」
「・・・・・」
冷たい風が、僕の身体をすり抜ける。
それが本物の風なのか、それともアスカの言葉なのか、今の僕にはそれを確か
める余裕なんてなかった。
考えなければならないのは僕の方だ。
アスカはもう、しっかりと答えを出している。
アスカはきっと、僕に一人で考えろといいたいのだろう。
考えすぎるのはやめようと思った僕。
それはアスカの言葉によるものだった。
そしてそれは今でも変わらない。
今の僕にはもう、考える必要がないほどはっきりとした答えが出ていた。
アスカは僕に、部屋に来るなと言ったけど、
僕は今晩、アスカの部屋を訪ねようと思う・・・・・
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