私立第三新東京中学校

第百八十八話・意地っ張り


夜道を並んで歩く。
日中は蒸し暑い時間が続くものの、夜になると涼しげな風に乗って虫の音が響
いてくる。耳に障るアブラゼミの鳴き声ではなく、夜の虫の音だ。僕は別に風
流をたしなむ訳ではないが、太陽の照り付ける昼間とは打って変わった穏やか
な夜の様子は、わずかに揺れ動いている僕の心を静かに慰めてくれた。

結局ミサトさんは帰ってこなかった。
僕は、これが最後の別れという訳ではないが、少なくともミサトさんと一緒に
過ごしてきた長いようで短い年月に、心からお礼を述べたかった。僕は特にミ
サトさんに何をしてもらったという訳ではないけれど、ミサトさんは僕に居場
所を与えてくれた。そして僕だけでなく、アスカにも、綾波にも・・・・
それがどういう事なのか、少なくとも今の僕には、その理由がわかるような気
がする。うまく言葉では説明出来ないけど、僕のミサトさんに対する気持ちが、
それを如実に表しているだろう。
しかし、僕達はミサトさんを待っていたけど、とうとうミサトさんは帰ってこ
なかった。きっと、リツコさんの件でのんびり僕達に構っているゆとりなんて
ないのかもしれない。ミサトさんにとって、リツコさんのことが僕達の引っ越
しより重大事だというのは僕にもわかる。だから僕は、僕達を見送れなかった
ミサトさんのことを責めるつもりなんてない。しかし、僕は少しだけ、寂しく
感じていた。今まで身近にいたミサトさんが、何だか僕達から遠いところに行
ってしまうのではないかと・・・・まあ、ミサトさんから離れていくのは僕達
の方であって、ミサトさんの方から離れて行くのではない。だから、そういう
考えを持つのは間違いなのだろう。しかし、そうとわかっていても、そう思わ
ずにはいられないのであった・・・・

「シンジ・・・・?」

アスカが僕の顔を覗き込むようにして声をかける。


「・・・・何、アスカ・・・・?」
「何・・・・考えてるの・・・?」
「うん・・・ミサトさんのこと・・・・・」
「・・・・ミサト、結局帰ってこなかったもんね・・・・」
「うん・・・・」
「アタシはミサトのこと、そんなに好きじゃなかったけど、それでもやっぱり、
感謝しちゃうわね・・・・・」
「うん・・・・」
「・・・・特にアンタは、ミサトのこと、ずっと慕ってたもんね・・・・」
「うん・・・・確かにミサトさんは家庭向きな人じゃなかったけど、それでも
僕達の保護者としては、一番の人だと思うんだ・・・・」
「・・・・アタシ、ミサトのことを保護者失格だなんて言っちゃったこともあ
るけど・・・・」
「そう言えば・・・そんな事もあったね。」
「うん・・・今にして思うと、アタシ、ちょっぴり後悔してるんだ・・・・」
「・・・・・」
「確かにミサトはいつも家にいなかったし、ぐうたらな女だったけど、アタシ
達、あそこがほんとに自分の家だと思えたから・・・・一番くつろげる場所だ
ったから・・・・だから、そういう場所を創り出すことが出来たって言うだけ
でも、保護者として立派にやったって思えるの・・・・」
「・・・・そうだね、アスカ・・・・」

僕がアスカの意見に賛意を表すと、アスカとは反対側にいた綾波が、それに続
けてこう言った。

「・・・・私も、短い間だったけど、葛城先生が私をあそこに住まわせてくれ
たことについては、本当に感謝してる・・・・」
「・・・アンタは一週間といなかったけど、それでもわかるんだ・・・・」
「うん・・・・私は今まで、ずっと独りだったから・・・・・」
「・・・・そうね・・・・アンタがはじめて、他の人間と一緒に暮らした場所
なんだもんね・・・・」
「うん・・・・だから、あそこは私の心の中に一生残る場所なの。はじめて家
族と暮らせた、記念すべき場所として・・・・」

綾波がそう言うと、それを聞いたアスカは軽く微笑みを浮かべて綾波に言った。

「アタシも・・・同じかな?」
「・・・・アスカは・・・・どういう記念なの?」
「アタシは・・・・シンジとはじめて、一緒に暮らし始めた場所として・・・・」
「あ、なら私も・・・・」

アスカの言葉に、何か大事なものを気付かされた様子で、綾波は付け足してア
スカに言った。すると、そんな都合のいいことを言う綾波に、アスカは軽く押
しとどめるように言った。

「駄目よ、それはアタシのもの。こういうのは、早いもん勝ちなんだから。」
「でも・・・・」
「まあ、心の中で思ってるぶんには構わないから、アンタはそれで我慢なさい
よ。」
「・・・・」

アスカとしては割と寛大な申し出も、綾波の心を満足させることは出来なかっ
た。綾波は黙って悲しそうな顔をアスカに見せると、その目でアスカに訴えか
けた。

「ちょ、ちょっと、そんな目でアタシを見つめたって、何も出やしないわよ。」

アスカは困ったようにそう言う。
どうやらアスカは、いろんな意味で綾波が苦手のようだ。僕に対してだとかな
り上手に出てくるというのに、綾波にかかるとさすがのアスカも形無しという
訳なのだろうか?
まあ、僕も綾波にこういう目で見られるとどうにも出来なくなるのはアスカと
同じなので、何とも言えないのだが・・・・とにかくアスカは、まるで助けを
求めるように、僕の方に視線を向けた。僕はアスカの気持ちがよくわかってい
たので、アスカに助け船を出してやることにした。

「綾波、あんまりアスカをいじめるんじゃないよ。アスカが困ってるじゃない
か。」

僕は綾波を諭すように、穏やかな微笑みとともにそう言った。すると綾波は、
僕の方を向いてこう応えた。

「碇君・・・・私も碇君とのはじめての場所として、記念にしたいの・・・・」
「そ、そんなにこだわることなの?」
「うん。私、そういうのあんまりないから・・・・だから、一つ一つ、大事に
していきたいの・・・・」
「そ、そう・・・・・」

僕は綾波の言葉に納得してしまい、何とも言えなくなってしまった。
確かに綾波の言う通り、綾波には思い出らしい思い出は、アスカに比べたら皆
無と言ってもいい。そもそも綾波は、ついこの間生まれ出でたばかりのような
存在であるのだから。
そう考えてみると、綾波の言うことに関しては、いつもいつも概ね筋が通って
いる。だから、綾波がそういう正論を言い続ける以上、僕としてもなかなか対
抗の仕様がないのだ。そして僕は、アスカがいつも綾波に言い負かされている
時の気持ちが、ようやく理解出来たような気がした。
そして僕は、アスカに助けを求められた立場であるにもかかわらず、そうアス
カに向かって困ったように視線を向けた。すると、アスカはそんな僕に思いっ
きり呆れた顔をして見せると、僕に向かってこう言った。

「ったく、アンタはいつまで経っても頼り甲斐ないわねぇ・・・・」
「ご、ごめん・・・・」
「そんなんで、好きな人を守り通すことが出来るの!?はっきり言って、不安
でしょうがないわよ、アタシは・・・・」
「ご、ごめん、アスカ・・・・僕もそのうち、強くなるからさ・・・・・」
「はいはい。アンタのは口だけなのよ。いい?アタシのを見てなさい!!」

アスカは大きな声でそう言うと、気分を切り替えたのか綾波の正面に立ってこ
う言った。

「レイ!!わがまま言うのもいい加減にしなさい!!アタシやシンジがいつま
でも甘やかしてると思ったら、大きな間違いなのよ!!」
「・・・・・」
「それに、アタシの真似してるようじゃ、アタシ以上には絶対になれないんだ
からね!!アンタはもう、それについては十分承知してると思ってたんだけど・・・・」
「・・・・ごめんなさい・・・・・」
「ま、まあ、わかればいいのよ。アタシは別に、アンタをいじめようとかそう
いうつもりは全くないんだからね・・・・」
「・・・わかってるわ・・・・」
「だ、だから・・・・ほら、これをやるから、大人しくしてなさい、いいわね!?」

アスカはやはり綾波に徹底的に強く出れないのか、綾波に向かって何かを差し
出した。そして綾波は黙ってそれを受け取る・・・・

「これ・・・・」
「そ、そういうことよ。」

アスカは少し恥ずかしそうな顔をしている。僕はアスカが一体綾波に何を渡し
たのかが気になった。すると、そんな時、綾波の方からそれを僕に見せてきた。

「碇君、これ・・・・」
「ど、どれどれ・・・・」

僕はそう言って、好奇心たっぷりに綾波の方に首を伸ばした。すると僕の目に
入ったものは・・・・

「・・・写真?」
「うん・・・・」

綾波も、アスカと同じく何だか恥ずかしそうな顔をしている。
まあ、内容が内容だから、仕方がないのかもしれないが・・・・・
それは、僕と綾波が写った写真なのだが、綾波が目をつぶって僕にキスをして
いるところがしっかりと収められていたのだ。その中の僕はびっくりした様子
であったが、まあ、それでも綾波と僕がキスをしている決定的瞬間がとらえら
れている。

「も、もしかして・・・・またケンスケ?」
「う、うん・・・・」

アスカは僕の問い掛けに、小さくうなずいて応える。

「・・・・こんな風にさっと取り出せるってことは・・・・もしかして、綾波
の写真も、アスカのと同じくらい、まだいっぱいあるんじゃないの!?」
「・・・・ま、まあ・・・・・」

アスカがなんだか済まなそうにそれを肯定すると、それを耳にした綾波が、ぬ
っとアスカに顔を近づけて、ひとこと訊ねた。

「・・・それ、ほんとのこと?」
「え?」
「私と碇君の写ってる写真、まだ持ってるって・・・・・」
「う、うん・・・・・」

綾波はかなりの凄みがある。アスカも綾波のそれに気おされるように、じりじ
りと後ろに下がりながら、うなずいて応えた。すると綾波は、そんなアスカに
容赦せずに詰め寄って、ひとこと要求した。

「見せて。」
「・・・・・」
「残りの写真を全部見せて。」
「・・・・わ、わかったから、そんな怖い顔しないで・・・・・」
「怖くなんかないわ。だから早く見せて。」

アスカじゃないが、十分怖い。綾波はかわいい顔をしているだけに、いっそう
気迫を以って人に対面すると、恐れを感じずにはいられないだろう。しかしま
あ、詰め寄られているのは僕ではないので、アスカには悪いが、僕は割と他人
事として見ることが出来た。
そしてアスカも綾波の迫力に負けて、大きな荷物の中から封筒を取り出した。
綾波はアスカの手からすっとそれを取り上げると、手早く中身を取り出して、
一人で一枚一枚チェックしていた。そして綾波は一通り全部確認し終わると、
そのままその写真をすべて封筒の中に仕舞い込み、その封筒は自分の懐に入れ
てしまった。

「・・・・私がもらっていいのよね、これ?」
「・・・・」

アスカはただ、こくこくと首を縦に振るだけだ。ついさっきまで姉におねだり
するような感じだった綾波が、急に凄みを増したのを見て、アスカもそのギャ
ップに何も言えずにいた。

「・・・・ぼ、僕には見せてくれないの、綾波・・・・?」

取り敢えず僕は、少し場を和ませようと思って、綾波にそう訊ねてみる。する
と綾波は、僕に向かってこう答えた。

「・・・・碇君には、後で見せてあげる。」
「そ、そう・・・・ありがとう。」
「後で二人っきりで見ましょ?碇君と私、今までにあったことを二人で思い返
しながら・・・・」
「・・・・」

僕は何と返事をしてよいものやら、言葉に詰まってしまった。するとアスカが
綾波を責めるように言う。

「ちょっと、レイ!!アンタ、やりすぎなんじゃない!?」
「・・・・どうして?」
「だ、だってほら・・・・・」
「・・・・」
「と、とにかく、勝手な真似するんじゃないわよ!!」

アスカの言葉は、綾波を止めるだけの根拠を持ちあわせていなかったので、何
だか空回りしているようだった。そして綾波も、そんなアスカの言葉を気にも
とめずに静かにアスカに訊ねた。

「・・・・アスカは折角いい写真を持ってたのに、碇君と一緒に見ようとしな
かったの?」
「そ、それは・・・・」
「私はこれを、碇君と一緒に分かち合いたい。この写真に写っているのが、す
べて、私と碇君、二人の歴史なんだから・・・・」
「・・・・」
「でも、私はアスカみたいに、アスカが私の真似をして碇君と写真を見ようと
しても、別にとめようとは思わないわ。だって、私には私の歴史があるように、
アスカにはアスカの歴史がある。だから、私にはそれを邪魔する権利はないと
思う。」
「べ、別に見なくてもいいわよ。」

アスカはちょっといつもの意地を張って、綾波の言葉に逆らって見せた。

「本当に?」
「ほ、ほんとよ・・・・」
「本当に?」
「だ、だからほんとだって言ってるでしょ!?しつこいわね!!」

アスカはしつこく聞き返す綾波に対して、大きな声で答えた。そしてそれを聞
いた綾波は、小さくひとこと言った。

「・・・・見た方がいいのに・・・・」

綾波はそう言うと、アスカから少し離れて歩き始めた。
しかし、しばらくしてアスカがそっと僕に近付いて話し掛けてきた。

「ちょっとシンジ・・・・?」
「な、何、アスカ・・・?」
「今晩、落ち着いたらアタシのところに来なさいよ・・・・」
「も、もしかして、写真!?」
「ち、違うわよ!!絶対に写真なんかじゃないんだから!!」
「そ、そうなんだ・・・・」
「ま、まあ、いろいろ目につくところに写真が飾ってあるかもしれないけどね・・・・」

アスカは少し恥ずかしそうに、僕にそう言った。
僕はそんなアスカに敢えて何も言わずに、ただ、微笑みを返してあげた。アス
カはそんな僕の微笑みを見ると、ぎこちなく微笑みを浮かべながらひとことこ
う言った。

「・・・・わ、悪いわね、シンジ・・・・」

僕はただ、黙ってアスカに微笑みを浮かべるだけであった・・・・・・


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