私立第三新東京中学校
第百八十五話・アスカと綾波
「・・・・アタシもとうとう、焼きが回ったのかねぇ・・・・?」
アスカがぼそっとそうつぶやく。僕はそんなアスカの言葉を耳に入れて、急に
綾波の身体から力を抜いた。すると、僕のしぼんでいく感情に気付いたアスカ
は、僕に向かってこう言った。
「あ、そのままでいなさいよ。レイの今の言葉を聞けば、アンタだってレイに
そうせざるをえないって言うのはわかってるんだから。」
「・・・・・」
「まあ、抱き締めるくらいなら大目に見てやるわよ。アタシはそれよりも、余
計な事を言っちゃったアタシ自身を情けなく思ってるだけなんだから。って、
あ、これはアタシの独り言だから、アンタはそのまま好きにしてて。別に相づ
ちなんて打って欲しくもないから。」
「・・・・・」
僕は、アスカに言われた通りにする事にした。つまり、このまま綾波を胸に抱
いたまま、アスカの言葉に黙って耳を貸すのだ。そしてアスカは、僕がアスカ
を見つめているのに対して、アスカは僕の顔には視線を合わせようとしなかっ
た。
「・・・アタシって何なのかしらね・・・・?」
「・・・・」
「シンジを完全に我が物にするためなら、もっとずるい手を使ってもいいんだ
けど、結局アタシは口では冷たい事を言ってても、言ってる中身はレイのため
になることばっかりなんだからね・・・・」
「・・・・」
「まあ、アタシにはアタシの人間として、女の子としての理想って言うもんが
あるわけで、それに合わない奴を見るとついつい口うるさく言っちゃうところ
があるから、レイの事もそれと同じなのかもしれないけど・・・・」
「・・・・」
「でもとにかく、それがアタシのためになってない事は事実なのよね。現にア
タシの言葉のせいで、レイはシンジに抱き締められてるんだし・・・・」
「・・・・」
「・・・まったく、訳わかんないわよ・・・・・」
アスカはそう言いながら、すたすたと歩いて台所に向かった。僕はアスカにつ
いて行きはしなかったが、視線はアスカを追っていた。
「・・・・アタシとレイは敵対関係、ライバルのはずなのに、憎んで当然の相
手なのに、アタシはいまいちそこのところが徹底してない。レイはアタシなん
かよりずっとシビアだって言うのにね・・・・」
アスカはそう言うと、鍋の中のお玉をかき回して、そして一口味見してみた。
しかし、その口から漏れたのは味噌汁の味の感想ではなく、今までの独り言の
続きだった。
「・・・・レイはアタシを嫌ってる。まあ、当然よね。一応シンジのいる手前、
露骨にアタシに敵意をむき出しにはしないけど、アタシがシンジの心を握って
る以上、レイにとってアタシは邪魔な存在なんだもんね・・・・」
「・・・・」
「・・・でも、レイにとってはそうであっても、アタシにとってレイは何なん
だろう?」
「・・・・」
「アタシにとってレイは・・・・・」
アスカはそこで言葉を中断させて、既にお皿に盛り付けてあるほうれん草のご
ま和えを菜箸でつまんだ。僕はそのアスカの言葉の続きが気になった。アスカ
にとって、綾波はどういう存在なんだろう?僕は今まで考えようともしなかっ
た点だ。確かにアスカの言う通り、綾波はアスカにとってライバルであり、敵
であってしかるべきだろう。だが、アスカはそう振る舞えない。意識して綾波
に冷たく当たろうとして見える事はあっても、アスカはそれを完全には為し得
なかった。僕はそれを、アスカのやさしさゆえんだと思ったが、実際のところ、
どうなのかわからない。だからアスカは・・・・
と、僕が思ったその時、それまで微動だにしていなかった綾波がいきなり動き
を見せた。僕の胸に顔を埋めて黙ってじっとしているのは同じだったが、する
りと手が動いて、僕の身体にまわされた。そしてその腕が、僕の身体を綾波の
元へ引き寄せる。
僕は既にアスカに意識が向いていた時から、ほとんど綾波からは腕を外してい
た。だから、僕と綾波のつながりはかなり弱いものになっていたのだが、綾波
の腕はそれを再び元に戻した。
「・・・・・」
僕は口には出せない。そして、綾波も口に出さない。
綾波はずっとアスカの話を聞いていて、そして僕がアスカの話を聞いている事
を知っていたから、こうしたのかもしれない。綾波は口では何も言わなかった。
だが、身体では大きな声を上げていた。僕にはそんな綾波の心の動きが、感じ
取られるような気がした。
アスカはそれに気付かない。まあ、僕も綾波もひとことも口を利いていないし、
アスカはアスカで意識して僕達の方を見ないように努めている。
そしてアスカは、気付かないまま菜箸を置いて、再び話し始めた。
「アタシにとってレイは、家族なのかもしれないわね。妹みたいに・・・・」
アスカがそう言った時、綾波の身体がぴくりと動いた。僕には、綾波の動揺が、
肌で感じ取られた。
「・・・・それとも、妹じゃなくって娘?アタシとシンジの子供みたいな・・・・」
「・・・・」
「まあ、どうしてかよくわかんないけど、とても他人には思えないのよね。ほ
んと、よくわかんないんだけど・・・・」
「・・・・」
「・・・アタシには、家族なんていなかった。ドイツにいる両親もそうだし、
死んじゃったママは・・・・・」
「・・・・」
アスカの実のお母さん、アスカはその人に対してだけは、はっきりと家族じゃ
ないと断言出来なかった。しかし、反対に家族だと肯定もしなかった。アスカ
はまだ、心の整理がついていないのかもしれない。まあ、それもやむを得ない
事だろう。僕だって、母さんの事はよくわからないからって言っても、こだわ
りを捨てられずにいるんだから・・・・
「でも、とにかくアタシには家族なんていなかった。ミサトもそうだし、シン
ジも違う。形は家族かもしれないけど、心の向け方が家族に向けるものじゃな
い。特にシンジには・・・・・」
「・・・・」
「・・・シンジには、悪いことしてると思う。アタシはシンジが求めてるのは
家族のつながりなんだって十分わかってても、アタシはそれを拒んでる。アタ
シとシンジは家族じゃないんだって事をわからせるために、毎日のようにキス
を重ねて・・・・」
「・・・・」
「だから、アタシには家族なんていない。でも、でも・・・・レイは何だか違
う。ただの恋敵でもなければ、単なる同居人でもない。もちろん、クラスメイ
トっていうだけの存在でもない。何て言ったらいいのか・・・・・」
「・・・・」
「・・・そう、何だか気になるのよ。その一挙手一投足が、アタシの関心をひ
いて・・・・保護欲・・・・って言うのかしらね?アタシはそんな仏心を持っ
てる奴じゃないのに・・・・」
「・・・・」
「でも、実際感じてるのは間違いなくそれ。アタシにはわかる。レイが見てて
あんまり頼りないから・・・・そういう奴なら他にもいるんだけど、なぜかレ
イなのよ・・・・」
「・・・・」
「だから、レイがシンジに抱き締められてるんだってわかってても、それがレ
イに幸せをもたらすのなら、少しくらい我慢してあげようっていう気持ちにな
っちゃうのよね。ばかげた話だけど・・・・・」
その時、綾波の手が僕の身体から外れ、すっと下に降りた。僕は綾波に軽く手
をかけていただけだったので、綾波が僕から離れようとする意志に対して、何
の妨げになるものはなかった。
「・・・・・」
僕はそんな綾波に、何も言わなかった。アスカの言葉に綾波が感じたという事
が、僕にも十分伝わったからだ。
そして綾波は僕から離れると、そっとアスカの背後に近寄った。
「・・・・アスカ・・・・・・」
「・・・レイ?」
綾波の言葉に、アスカが振り向く。
アスカの声は、綾波が自分の後ろにいたという事もそうだが、それ以上に綾波
に名前で呼ばれたという事についてかなり驚いている様子だった。僕も、綾波
がいつもアスカの事を名前では呼ばずに「あの人」とか「あなた」としか呼ば
ない事を知っていたので、驚きの色を隠せなかった。
しかし、綾波はそんな戸惑うアスカを気にせずにこう言った。
「・・・・私はもう、碇君を十分借りたから、今度はあなた・・・アスカが碇
君の胸を借りて。今のあなたには、それが必要だろうから・・・・」
「レイ・・・・」
「・・・あなたの気持ち、感じたから。だから私も、私なりの形で、あなたに
応えようと思う・・・・」
「・・・・」
「・・・これからあなたのこと、アスカって呼んでもいい?碇君みたいに・・・・」
「レイ・・・・」
アスカはもう、言葉もなかった。ただ、綾波の言葉に呆然とするだけだった。
すると綾波は、返事がもらえないので少し心配そうにアスカに聞き返す。
「・・・やっぱり・・・だめ・・・・?」
アスカはようやく綾波のそれで平静を取り戻して答えることが出来た。
「あ、ああ・・・・も、もちろんいいわよ。アタシのこと、アスカって呼んで。」
「・・・ありがとう・・・・・」
綾波はアスカの返事を聞くと、そう言って微笑みを投げかけた。
アスカはそんな綾波の微笑みが自分に向けられたのははじめてなのか、かなり
衝撃を受けた様子で、うまく言葉が出せなくなっていた。
そして綾波は、アスカのそんな状態もよくわからぬまま、今度は僕の方を向い
てこう言った。
「・・・碇君、こっちに来てくれる・・・・?」
「あ、う、うん。いいけど・・・・」
僕は綾波に言われるがままに、アスカと綾波のところに向かった。綾波は僕が
自分の元に来ると、僕の目をしっかりと見つめて言った。
「・・・アスカを・・・・抱き締めてあげてくれる?」
「・・・・いいの、綾波・・・・?」
「うん・・・・私はもう、碇君を感じることが出来たから・・・・」
何だか少しだけ、綾波の言い種が勝手に思えた。僕は別に抱き締め、抱き締め
られるために存在しているのではないのに・・・・僕の気持ちというのは、ど
うでもいいんだろうか?
しかし、そんな考えもすぐに消えた。僕の細かい意向などよりも、今はアスカ
のことを、そして綾波のことを考えてやるべきだと思ったからだ。
「・・・アスカ・・・・」
僕はアスカに向き直る。
「・・・・シンジ・・・・・」
「・・・その・・・・いい、かな?」
「・・・・悪い訳・・・・ないでしょ?シンジが自分からそうしてくれること
なんて、滅多にないことなんだから・・・・」
アスカはそう言うと、そっと僕に身を委ねた。
アスカは綾波の言葉を聞いていなかったんだろうか?いや、聞いていたはずだ。
なのに僕自身からそうしたのだということを言ったということは・・・・アス
カは僕が綾波に言われていやいやしているのではなく、たとえ綾波に言われた
のだとしても、僕の意志でそうしているのだとわかっていたからだろう。
僕はそんな風に思うアスカの期待に応えることが出来て、本当によかったと思
った。
そしてアスカは、さっきの綾波と全く同じように、僕の胸に顔を埋めた。アス
カは僕の胸で顔を隠すと、そっと小さな声で綾波に言った。
「・・・・ごめんね、レイ・・・・ちょっとだけ、シンジの胸を使わせて・・・・
ほんの少しの間こうしていれば、アタシも大丈夫だから・・・・」
「・・・アスカ・・・・」
綾波はそんなアスカに対して、そっとその名前を呼び、背中に軽く手を当てた。
「私、あなたのこと、もう少し考えるから・・・・・碇君と同じようには考え
られないけど、私もあなたのこと、大事に思うことにするから・・・・」
「・・・・・」
「・・・・私もアスカに家族って思われて・・・・うれしいと思う・・・・」
それは、綾波の心の言葉だった。
そして今、綾波の中には僕だけでなく、アスカという存在が確固たるものとし
て確立されたのであった・・・・・
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