私立第三新東京中学校
第百八十四話・つらいって叫んで、苦しいってわめいて
「・・・・」
「ほら、なにぼーっとしてんのよ?やるわよ、さっさと。」
僕が呆れるやら悩み込むやらしていると、アスカはそんな僕に向かって促して
きた。
「え・・・あ、ああ。」
「もう、そんな事くらいで考え込まないでよね。大した事じゃないんだし・・・」
「た、大した事じゃないって・・・・」
「とにかく!!済んだ事に関してうじうじ考え込むのはアンタの悪い癖よ!!
だから、もう適当に忘れちゃって、アタシを手伝う。わかった!?」
「・・・・わかったよ・・・・・」
「わかればよろしい。じゃあ、早速・・・・」
アスカはそう言って僕を仕事に駆り立てようとしたのだが、僕はあることを思
い出してアスカに言った。
「あ!!アスカ、綾波を待たせてたんだ!!」
「レイ?ああ・・・そう。」
「うん。綾波には夕食の支度を先にしてもらってるから、片付けをする前にご
飯を食べちゃおうよ。」
「ふーん、そういうこと。アタシは別に構わないわよ。」
アスカは僕を困らせるような返事こそしなかったが、言い終わった後、何だか
一癖も二癖もあるにやにや笑いをした。僕はそんなアスカの表情について訊ね
てみた。
「な、何だよアスカ?その変な笑いは・・・・?」
「・・・・いや、別にぃ。」
「き、気になるだろ?教えてよ・・・・」
「・・・・まあ、隠すような事じゃないから言うけど、おでこのそれをレイに
どう言い訳するのかなぁー、って思ってさ。」
アスカはそう言うと、僕のおでこを指差した。僕はアスカの言葉を瞬時に理解
して、そして困ってしまった。
「あ・・・・どうしよう・・・・?」
僕はそう言うと、そんなに長くもない前髪をくしゃくしゃとやって、何とかア
スカのキスマークを隠そうとした。すると、アスカは僕に向かって叫んだ。
「あ!!隠すんじゃないわよ!!」
「そ、そんな事言ったって・・・・」
「もう、ごまかしは出来ないのよ。そんな事じゃ完全には隠れないし、それに
アンタの髪の毛が変にぼさぼさだったら、レイも不信がるんじゃない?それで、
碇君、髪が乱れてるわ。だから私が直してあげる、とかなんとか言って、アン
タの髪に手をやるわよ、きっと。」
「・・・・」
「だから、隠してたのがばれるより、却って堂々としてた方がいいんじゃない
の?大体唇にキスした訳じゃないんだし、レイもお遊びの範囲だと思ってくれ
るわよ。」
「・・・・だといいんだけど・・・・」
僕がそうつぶやくと、アスカはなぜか僕を急かすようにこう言った。
「ほら、レイを待たせてるんでしょ?行くわよ!!」
アスカはそう言ってさっと僕の前髪を整えて、キスマークが見えるように戻し
た。そして有無を言わせず僕を引っ張って部屋を出ていった。
「お待たせ、レイ!!シンジとの話はもう済んだから!!」
アスカはリビングに入るなり、開口一番綾波に大きな声で呼びかけた。リビン
グは既に綾波の料理の腕前が振るわれた結果として、いい匂いが広がっていた。
「・・・・」
綾波はアスカの言葉に、無言で振り返った。そしてアスカの顔を見、アスカの
手を僕の手につながれている事に気付き、それを伝って視線は僕の顔にまでた
どり着いた。綾波はアスカが僕の手を取っているのを見ると少しぴくりとさせ
たが、それ以上に僕のおでこのキスマークに気付いた時には、かなりの衝撃を
覚えた様子が僕にもはっきりと見て取れた。
アスカはそんな綾波の様子に気付いているはずなのに、全く気付かぬ体を装っ
て、綾波にこう言った。
「済まなかったわね、アンタ一人にやらせちゃって・・・・でも、シンジも連
れてきたから、これから先はアタシ達でやるわよ。だからアンタはゆっくりし
ていて。」
が、アスカもアスカだが、綾波も綾波で、アスカの言葉など聞こえなかったか
のように、すっと僕に近付いてきてこう言った。
「・・・・碇君、おでこ、どうしたの・・・・?」
「あ、いや、その・・・・・」
僕が綾波の問い掛けに答えられずにいると、アスカが横から口を出してきた。
「キスマークよ、それ。」
「・・・・どういうこと?」
「どういうこともそういうこともないわよ。キスマークはキスマーク。アンタ
にだってわかるでしょ?」
「・・・・どうして碇君にこんなことしたの・・・・?」
「別にいいでしょ?大した事じゃないんだから・・・・」
「・・・碇君が困るとか、そういうことは考えなかったの?」
綾波はアスカを責めるような怖い顔をしたまま、アスカにそう訊ねた。すると
アスカは、綾波に向かってきっぱりと答えた。
「アタシはシンジが困るなんて、少しも思ってないわ。アタシはそれだけ、シ
ンジの愛を信じてるもの・・・・」
「・・・・・」
「アタシはシンジがアタシを受け入れてくれる証として、アタシの印をここに
つけたの。シンジがこれを認めてくれる限りは、シンジの愛がアタシの元にあ
るはずだから・・・・」
アスカはそう言うと、僕のおでこにそっと触れた。
しかし、アスカの気持ちとは裏腹に、アスカの論理は空回りしているように思
えてならなかった。そしてアスカ自身も、自分の言葉に無理がある事を十分察
しているようで、その表情は何だかつらそうだった。
「・・・・・・つらいのね、あなたも・・・・・」
綾波の発した言葉も、僕が感じた事と一緒だった。そして、アスカは綾波のそ
の言葉を聞くと、大きな声で言った。
「うるさいわね!!アンタにアタシの何がわかるって言うのよ!?」
「アスカ・・・・」
僕はアスカが心配だった。今までのアスカは元気いっぱいだったのに、この喧
嘩をきっかけとして、何かまた歯車が狂い始めてきたのではないかと感じた。
「・・・・証を求めるなんて、つらい証拠よ。あなたは碇君を信じてるって言
ってるけど、実のところ、あなたは碇君を信じきれてない。私には、碇君が一
番想っている人が、あなただってはっきりとわかるのに・・・・・」
「・・・・・」
「あなたは私の欲しいものを持ってる。私が一番欲してやまないものを・・・・
あなたにはそれの価値がわからないの?あなたがその価値を認めていないのだ
としたら、私に頂戴。私にはそれを完全に受け止める事の出来る、力があると
思う・・・・」
綾波は、つい口を滑らせた。昔の無感情な綾波とは違う綾波の感情のほとばし
りが、綾波の言葉を止める事を出来なくさせた。自分の思っている事を包み隠
さず口に出せるのはよい事だと思う。僕はそういう綾波をうらやましく思うこ
ともあった。しかし、今の言葉は、少なくともアスカにとってはいい効果を与
えるとはとても思えなかった。
「・・・・絶対やらないわよ。」
「・・・・・」
「アンタなんかに絶対やるもんですか!!アタシは絶対に、それを手放したり
なんかしないわよ!!」
「・・・・・」
「アタシがつらいですって!?アンタに言われなくったって十分すぎるくらい
わかってるわよ!!アンタだってアタシ以上につらいくせに!!どうしてそれ
を表に出さないのよ!?だからアンタは、人形だって言われんのよ!!」
「アスカっ!!」
綾波に、人形だというのはタブーだった。アスカだって、そんな事くらいわか
っているはずだった。しかし今のアスカは、それを認識していてわざとその禁
忌を破ったように僕には思えてならなかった。きっとアスカは、綾波を傷つけ
たかったのかもしれない。傷ついている自分と、同じにするように・・・・
「・・・・・私は人形じゃない。」
「じゃあどうして言わないのよ!?つらい、苦しいって!!」
「・・・・碇君のためだから・・・・碇君がそんな私を見るのは、嫌だと思っ
て・・・・」
綾波はアスカの斬り付けるような言葉の前に、小さな声で応えた。そしてアス
カは、そんな綾波のささやかな抵抗に対して、綾波の心の壁を打ち砕くような
言葉をぶつけた。
「アンタ知ってる?シンジはそういうのが、そういう自分が嫌だって思ってる
ことを・・・・」
「・・・・・」
「アンタはいっつもシンジのためとか言って自分の気持ちをごまかしてるけど、
シンジはそういうのが嫌いなのよ!!たまには自分の心をぶつけてみたらどう
なの!?シンジの事なんか気にせずに!!」
「・・・・出来ない。私には、碇君を困らせる事なんて・・・・」
「確かにアンタのそういうところはいいところよ。アタシも誉めてあげるわ。
でもね、レイ、そんな事を言ってたら、いつまで経ったってシンジの心はアン
タには動かないわよ。アンタのそれは思いやりとかそういうもんであって、恋
の形じゃないのよ。アンタはシンジに恋してるかもしれないけど、アンタがそ
の心をシンジにぶつけない限りは、シンジも恋の形でアンタに応えるなんてこ
とは、絶対に有り得ない事だとアタシは思うわ。」
「・・・・」
「つらいって叫んでみなさいよ。苦しいってわめいてみなさいよ。アタシはア
ンタのそういうところが見たいのよ。アンタもアタシと同じ、人間なんだって
ことを、証明するためにね・・・・」
「・・・・・」
綾波は、アスカの言葉に黙ったままだった。そして僕も、アスカの言葉に黙っ
て考え込んでしまった。僕は綾波の人を思いやる心に、いたく感心していたが、
よく考えてみると、それは僕の似姿だったのかもしれない。僕が誰に対しても
であって、綾波の僕に対してだけというのとは異なりがあるが、それでも人を
気にして自分の心を偽るというのに変わりはなかった。僕は今までそんな事に
は気付かなかったが、アスカの言葉で、はじめてそれを知ることが出来た・・・・
「・・・綾波・・・・」
僕はそう思うと、綾波に呼びかけた。が、僕がそう、綾波の名前を呼んだ事が、
綾波の心の引き金を引く結果となったのであった。
「碇君っ!!」
綾波はそう叫ぶと、顔を伏せたまま僕の胸元に飛び込んできた。そして、僕の
胸の中で綾波はアスカに言われた様に、自分の心の内をぶちまけ始めた。
「碇君はどうして私の事を見てくれないの!?どうして私がこんなに碇君を想
ってるのに、碇君は私を想ってくれないの!?どうして碇君は、あの人ばっか
り心配して、私の気持ちを考えてくれないの!?」
「あ、綾波・・・・」
「私だって、碇君に見られたい!!碇君に抱きしめられて、キスされて・・・
碇君と一つになりたい!!あの人なんかじゃ駄目!!私だけでいて欲しいの!!
私だけで、私だけで・・・・・」
「・・・・・」
綾波はそう言い終わった後は、ただ僕の胸の中ですすり泣くだけだった。
最近の綾波は、何だか大人びていて、しっかりしているように見えた。しかし、
それは綾波が作っていた事だったのだ。まるで僕が、自分自身を繕っているの
と同じように・・・・
少し前の綾波は、自分の事ばかり考えていて、人の事なんか構わないような感
じだった。でもそれは、綾波の中に綾波しかいなかったからだ。無論僕も、あ
のころの綾波には想いをぶつけられてはいても、気を遣われる対象ではなかっ
た。しかし、今の綾波には、自分以外の世界がある。僕もいればアスカもいる。
他の人々に関してはどうかよくわからないが、少なくとも認識し始めてきてい
るという事は事実であろう。
だから、やっていることはあの時と変わらないとしても、綾波の爆発は僕にと
って、大きく心を揺り動かされるものであった。そしてそれは、綾波が本当に
人形から、人間へと変わっていったという証拠であろう。
「綾波・・・・」
僕はそんな綾波の身体に、そっと腕を回してやる。すると綾波は僕の腕が自分
の身体に触れる感触にビクっと身体をさせて、そしてそのままそっと僕に向か
って言った。
「・・・・抱き締めて、碇君・・・・強く強く、私が壊れるくらいに・・・・」
そして僕は、そんな綾波の求めに応じた・・・・・
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