私立第三新東京中学校
第百八十三話・アスカの印
「っと、これで取り敢えず全部片付いたかな?」
僕はガムテープで段ボール箱に封をすると、ぼん、と軽くその箱を叩いて言っ
た。
「そうね、碇君。」
「お疲れ様、綾波。まだアスカの部屋が残ってるけど、少し休んでていいよ。」
僕はそう言いながら綾波に軽く微笑みを浮かべて見せると、綾波は僕に向かっ
てそっと訊ねた。
「・・・・あの人のところに・・・・行くの?」
「うん。うまく行ったら綾波を呼びに来るよ。だからそれまでしばらくここで
休んでて。」
僕がそう言うと、綾波もあまりいい顔はしていなかったというものの、極力僕
に嫌な顔を見せるのは避けようと努めている綾波の様子がつぶさに感じ取れた。
「・・・・じゃあ、夕食の支度をしてるわ。だから、話が済んだら台所に来て。
あの人の部屋を片付けるのは、食事の後にしましょ。」
「あ、そ、そうだね!!悪いね、綾波。僕もなるべく早く解決させて手伝いに
行くから!!」
「・・・・待ってるから。」
綾波は少し元気よく応えた僕とは対照的に、何だかつらそうな表情でひとこと
そう言うと、僕より先に部屋を出ていった。僕はそんな綾波の後ろ姿を眺めな
がら、心の中で綾波に詫びていた。僕にだって、今どうして綾波が元気ないの
かくらいは、わかっていたからだった。
でも、たとえ綾波に犠牲を強いたとしても、僕はアスカとこのままではいたく
なかった。一刻も早く、アスカと和解がしたかった。いつも僕に元気を与えて
くれるアスカがこんな調子だと、僕まで何だか気が滅入ってしまうような気が
したからだった。
しかし、僕は何だかいつもこんなことばかり繰り返しているような気がする。
だから、いつもいつも綾波につらい思いをさせているような気がして・・・・
よく考えてみると、僕はアスカみたいに綾波と喧嘩した事はないような気がす
る。したがって、仲直りする努力も必要なく、おおむね綾波とはいい関係を保
ち続けている。だから僕は、アスカの事をこんなに気にかけてしまうのかもし
れない。はっきり言って、綾波はもう、僕の努力を必要としない存在なのだ。
人間らしくなるうんぬんについても、綾波は自分自身でいろいろ勉強してるみ
たいだし、これからは普通に生活して人と触れ合って行く事によって、自然と
人間臭くなって行く事だろう。とにかく、そういう意味においては、綾波は僕
を必要としていない。ただ、綾波は僕の事をかけがえのない人だと思ってくれ
るから、綾波は僕のそばにいるのだ。だから、綾波の人へ向ける気持ちは、僕
と違って歪んではいない。綾波が僕の事を男としてみているのかどうかはわか
らないが、少なくとも好意を感じる一個人としてみてくれているのである。で
も、僕の場合は・・・・そう感じていない。別に綾波に好意を感じていないと
か、そういう事ではもちろんない。僕は綾波に好意を、それもかなりのものを
感じているのは確かな事だと思う。でも、何かが違うのだ。さめているという
のかなんというのか・・・・綾波を僕の人間を見る基準に照らし合わせてみる
と、好意を持つくらいによく思っているのだが、人と比較してみると、絶対に
綾波でなければならないというものはない。それに関してはきっと、程度の差
こそあれ、アスカも同じだろう。
でも、今はそう思っているけど、失ってみたら・・・・そうは思えないのかも
しれない。いなくなってみて、はじめて僕は、アスカや綾波をいかに僕が必要
としていたのかを悟る事が出来るだろう。反対に、失ってみなくては、本当の
二人のありがたみを感じる事は絶対に出来ないのかもしれない。だから僕はそ
う思うと、一瞬だけアスカと綾波から離れてみて、一人になってみようかとも
思ってみるが、そんな考えはすぐに消え去ってしまう。僕は弱い人間だから、
そんな危険を冒すような事はしたくない、というより出来ないのだ。
だから僕はこうしている。アスカと綾波と、宙ぶらりんの状態で・・・・
「・・・アスカ?」
僕はアスカの部屋の前に立って、アスカに呼びかける。すると、さっきと同じ
ようにアスカのそっけない返事が聞こえた。
「誰?」
「ぼ・・・い、いや、碇シンジ。」
「そう・・・・」
「あ、あの、その・・・・ぼ、僕の部屋の片付けが終わったから、アスカを手
伝おうと思って・・・・」
「・・・・」
「は、入って・・・いいよね?」
「・・・・好きにしなさいよ。」
「う、うん。じゃあ・・・・」
僕はアスカの返事に喜びを隠し切れずに、急いでそっと部屋の中に滑り込んだ。
そして、僕が見たものは・・・・
「ぜ、全然片付いてないじゃないか!!」
「・・・・そうね。」
「や、やらなかったの?」
「・・・・そういう訳じゃないわよ。」
「じゃ、じゃあ、どうして・・・・?」
僕がそう訊ねると、アスカはそっぽを向いたまま、小さな声でこう答えた。
「・・・・身が入らなかったのよ・・・・・・」
「・・・・・」
「・・・アンタのせいなんだからね、バカシンジ・・・・・」
「ご、ごめん・・・・・」
「・・・・片付けが進まなかった責任、とんなさいよね・・・・・」
「・・・・・わ、わかってるよ。ちゃんとしっかり手伝うから・・・・」
「・・・・・・・・それだけ?」
「へ?」
「・・・それだけかって、聞いてんのよ?」
「・・・・・それだけじゃ、まずいかな・・・・?」
「・・・・まずくは・・・・ないわよ。でも・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・謝罪の意を表すには何か形のあるものが必要・・・ってことかな?」
「・・・・・そのくらい、自分で考えなさい。」
「う、うん・・・・」
僕がそう言うと、アスカは話を変えて僕にこう訊ねてきた。
「一つだけ聞くけど・・・・」
「な、なに、アスカ?」
「・・・・アンタ、一体どっちが悪いって思ってる訳?」
「い、いや・・・・だから、さっき言ったように、どっちも悪いと・・・・」
「だから、どっちかって言えば、ってことよ。両方悪かったとしても、同じだ
け悪いって事もないんじゃないの?」
「そ、そうかな・・・・?」
「そうよ。で?」
「ぼ、僕は、どっちも同じだけ悪いと思ってるけど・・・・」
「・・・・ほんとに?」
「うん。ほんとに。」
僕はしつこく念を押すようなアスカの問い掛けに力強く肯定して見せると、ア
スカはちらっと僕の方を見て、僕を誘うような声で訊ねてきた。
「・・・・アタシと仲直りしたい?」
「したい。」
「で、アタシ達は同じだけ悪いのよね・・・?」
「まあ、僕の意見では・・・・」
「・・・・なら、同じ形で一緒に謝りましょ?そうすれば、対等だと思うし・・・」
「い、いい考えだね。さすがアスカ・・・・」
「バカ、おだてるんじゃないわよ。」
「ご、ごめん・・・」
「と、とにかくアンタの謝罪の形から行きましょ。一体どういう風に謝るつも
り?」
僕はアスカに訊ねられて、素直に答えた。何だかアスカの様子もさっきまでと
は違って、もう完全に仲直りしてしまったかのような表情をしていたが、僕は
それを敢えて指摘するような事はせずに、アスカのペースにあわせる事にした。
「ぼ、僕は普通に頭を下げて、謝ろうと思ってるんだけど・・・・」
「・・・・なら、まずはそれで行きましょ。いっせーのーせ、で。」
「う、うん。わかった。」
僕がそう言うと、僕とアスカは何だか久しぶりに正面から向き合って顔を合わ
せた。
「・・・・何だか照れるね・・・・」
「バカ、余計な事は言わなくていいの。」
アスカはそう言ったものの、心なしか、顔も赤みがかっているように僕には見
えた。
「じゃあ、いっせーのーせ!!ごめん、アスカ!!」
「ごめん、シンジ!!」
ごちっ!!
「ってー!!」
「・・・・バカ!!そんな思いっきり頭下げるんじゃないわよ!!いたた・・・」
僕とアスカは二人とも勢いよく頭を下げて謝ったので、見事に頭と頭をぶつけ
合ってしまった。
「ご、ごめん・・・・痛くなかった?」
「痛いに決まってるでしょ!!」
「そ、それもそうだね・・・・どれ、見せてみて・・・・」
僕は自分の頭もまだ痛かったものの、アスカについと近付いて、アスカの前髪
を軽く持ち上げると、おでこを見てみた。
「・・・・」
「・・・こぶ・・・・出来るかもしれないね。」
「う、嘘!?」
「僕にはよくわかんないけど、結構激しくぶつかったんだし・・・・」
「・・・・最悪・・・・冗談じゃなくって、どう責任取ってくれんのよ?アタ
シのきれいなおでこにこぶなんて出来たら・・・・恥ずかしくて表も歩けない
じゃない。」
「ご、ごめん・・・・」
「ま、まあ、それよりアンタはどう?」
アスカはそう言うと、さっき僕がしたのと同じように、僕の前髪をかきあげる
と、おでこにそっと手を当ててきた。
「・・・・・」
「・・・・ばっちしね。」
「ど、どういうこと?」
「こぶよ、こぶ!!アンタ、間違いなく出来るわよ、こぶ。」
「そ、そんなぁ・・・・」
「アンタは男でしょ?アタシと違って、気にしないでよね。」
「そ、そんな事言ったって・・・・そりゃあアスカとは程度が違うかもしれな
いけど、やっぱり僕だっておでこにこぶなんて作ったらかっこ悪いよ・・・・」
僕は情けない声でアスカにそう言った。するとアスカは、急に僕の顔を覗き込
んで話してきた。
「・・・・じゃあ、恥ずかしいから学校休んじゃおっか?」
「えっ!?」
「女の子がおっきいこぶなんて作っちゃったら、それだけで学校を休む理由に
なるのよ。」
「で、でも・・・・まずいよ。洞木さんになんて言い訳したらいいのか・・・・?」
僕が困ったようにそう言うと、アスカはきっぱりとその必要性を否定した。
「そんなの要らないわよ。」
「ど、どうして?」
「だって、アンタも休むんだもん・・・・だから、言い訳なんてレイが考えれ
ばいいのよ。それに、レイなら愛想なく言い訳も言わなくても、誰もおかしく
思わないだろうし・・・・」
「ど、どうして僕まで学校を休むんだよ!?」
「アンタも、アタシと同じくこぶが出来ちゃったから・・・・」
「ぼ、僕は男だよ!!男は気にすんなって言ったのはアスカじゃないか!!」
「そうね。でも、アンタはアタシをこんな目に合わせた責任があるじゃない。
だから、アタシが学校を休んでいる間、ひたすらアタシの面倒を見続けるのよ。」
「無茶苦茶な・・・・」
「まあ、アンタもこぶが出来れば学校に行くのも恥ずかしいでしょ?だから一
石二鳥よ。」
「こぶなんて、そんな目立つほどにはならないよ。だから、考え直して・・・・」
僕はアスカを説得しようと思ったが、アスカの方はそんな僕に対して聞く耳を
持とうともしなかった。
「い・や!!」
「そ、そんな事言わずにさぁ・・・・」
「いやったらいや!!アタシもアンタも学校を休むのよ。これは決定済みなん
だから・・・・」
「弱ったなあ・・・・」
「アンタもたまには学校をずる休みした方がいいのよ。そうすれば、がちがち
の真面目人間が少しはまともになるんじゃない?」
「でも・・・・僕達は今晩引っ越すんだよ。ミサトさんならいざ知らず、父さ
んがそんなこと見逃すとも思えないけど・・・・」
僕がそう言いながら、アスカのわがままを抑えるいい考えだと思っていた。し
かし、アスカはそんな僕の考えを打ち砕くかのようにこう言ってきた。
「それなら大丈夫だって。シンジのお父さんは、人がどうしようと気にしない
ような人だから・・・・」
「そりゃあそうかもしれないけど・・・・」
「そうなのよ。だから、決まりね?」
「だ、駄目だよ!!」
「どうして?」
「とにかく駄目ったら駄目!!学校をずる休みするなんて論外だよ!!まして
こぶくらいで・・・・・」
「こぶくらいじゃだめ?」
「駄目。」
「じゃあ、これでどう!?」
アスカはそう言うと、いきなり両手で僕の頭を抱え込んで、自分の顔に近づけ
た。そして・・・・僕の額のど真ん中にその唇を付けると、凄い力で吸い上げ
たのだ。
「わわっ!!」
僕は思いっきりびっくりしたが、両手が空いていたものの、果たしてこれをと
めるにはどうしたらいいのかとっさにはわかりかねたので、結局何の対処も出
来なかった。
そしてアスカは僕を解放すると、自らの功績を誇るかのように言った。
「・・・・きれいに付いたわ、キスマーク・・・・」
「な、なんだってぇ!?」
「だから、キスマークなら、さすがのアンタも人前には出れないでしょ?」
アスカはしれっとそう言うと、僕に向かって手鏡を差し出した。僕は慌ててそ
れを受け取ると、自分のおでこを確かめてみる。鏡に映った僕のおでこには、
はっきりとではないものの、確かにちゃんとアスカの唇の跡がつけられていた。
「・・・・一体どうしてくれるんだよ・・・・?」
「だから、アタシも一緒に学校休んであげる。連帯責任だもんね。」
アスカは僕の心とは裏腹に、呑気にそんな事を言っていた。僕は今度は別にカ
ッとするような事はなかったが、それでもアスカのする事には呆れ果てていた。
もしかしたら、あまりの事にもう怒る気にもなれないのかもしれない。
そしてアスカは、そんな僕を尻目にこう言った。
「シンジにアタシの印、つけちゃったわね。何だか今までしなかったのが不思
議なくらい・・・・」
「・・・・」
「もし明日の朝までに消えちゃってたら、ちゃんと付け直してあげるからねっ!!」
「ははは・・・・」
僕はもう、何も言えない。ただ、苦笑いを浮かべるのみだ。
僕は改めてこれで、僕なんかがアスカに敵うはずもないと、つくづく思うので
あった・・・・・
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