私立第三新東京中学校

第百八十二話・碇君のために


「・・・・・」
「・・・碇君・・・?」
「・・・・・」
「・・・・碇君。」
「・・・・・」
「・・・・・・・・・」

僕の肩に誰かの手が触れた。僕は一瞬ビクっとして、後ろを振り返ってみた。
するとそこには、綾波の姿があった。

「あ、綾波・・・ご、ごめん。で、なに?」

僕はぼーっとしていて綾波に気付かなかったのだという事を悟ると、慌てて綾
波に謝った。すると綾波は、小さな声で僕に指摘してきた。

「・・・・碇君、手、とまってる・・・・」
「あ!!ごめんごめん!!ちゃんと気を引き締めてやるから!!」

僕はもう一度大きな声で綾波に謝ると、そのまま急いで手を動かし始めた。

「・・・・・」

綾波はそんな僕を黙ってじっと見つめていたが、すぐまた自分の作業に戻って
いった。そして僕も、そんな綾波を確認すると、また一人、もくもくと段ボー
ルに荷物を詰め込んでいった。

「・・・・・」
「・・・碇君?」
「・・・・・」
「・・・碇君!!」
「あ・・・・綾波・・・・」
「また手がとまってたわ。」
「ご、ごめん・・・・別にサボるつもりなわけじゃないんだけど・・・・」
「わかってるわ。」

指摘されてさほど時間も経過していないというのに、またぼーっとしてしまっ
た僕は、綾波に向かって情けなく弁解したが、綾波はそっけなく、というか、
きっぱりと僕にそう応えた。僕はそんな綾波に少し驚きつつも返事をした。

「そ、そう言ってくれるとうれしいんだけど・・・・」

しかし、綾波はそんな僕の言葉を聞いている様子もなく、僕の顔を少し覗き込
むようにしてこう訊ねてきた。

「・・・・何を想っているの、碇君は・・・・?」
「な、何をって・・・・」
「碇君の心はここにはないわ。だから碇君は、引っ越しの荷造りにも身が入っ
てない。碇君の心は一体どこにあるの?」
「・・・・・」
「・・・・碇君の心は、たとえ身体が私と共にあっても、あの人の元にあり続
けているの・・・・?」

・・・・綾波の指摘は正しかった。
今、僕がこうしてしまっているのは、アスカの事があったからだ。知らず知ら
ずのうちに、アスカの事について考えてしまって・・・・・でもまあ、綾波の
言っているほどのことでもない。僕にはちゃんとアスカの事を思う理由がある
のだ。だから僕は、綾波にその旨を告げる事にした。

「・・・・・アスカと、喧嘩しちゃったんだ・・・・・」
「・・・・」
「・・・だから、ちょっとアスカの事、考えちゃって・・・・別に綾波の事を
ないがしろにしてるとか、そういうつもりじゃないんだよ。綾波も、わかって
欲しい・・・・」
「・・・・いつ、喧嘩したの?」
「ついさっき。」
「そう・・・・」

綾波はそれだけ僕に訊ねた後は、何を言う訳ではなく、ただ僕の顔を見つめて
いた。僕はそんな綾波の表情の中から感情をつかむ事が出来なくて、少しだけ
心を見透かされているような気持ちにさせられた。だから、別に綾波は僕の言
葉や説明を求めていた訳でもなかったが、僕は綾波に詳しく語って聞かせる事
にした。

「・・・・・別に僕は、アスカを怒らせようとか、傷つけようとか、そういう
気持ちはなかったんだ。でも、僕はアスカみたいな女の子の考える事なんて全
然わかんないし、それに、僕はこういう時にはちょっと現実的すぎるきらいが
あるから、呑気なアスカにちょっといらついちゃって・・・・・」
「・・・・・」
「僕だって別に、アスカに腹を立てていた訳じゃないんだ。ただ、ちょっとか
っとしただけなんだよ。アスカも多分、僕と同じだろうと思うけど・・・・」
「・・・・」
「・・・・でも、そういうのって難しいんだよね。ちょっとしたことで、上手
く行かなくなっちゃったりして・・・・ほんと、大した事じゃないのに・・・・」

僕は何だかアスカに向かって言い訳をしているような感じになってしまったの
で、それに気付くと意識的に綾波に話し掛けるような言い方をして見せた。す
ると綾波は、そんな僕に向かってひとことこう言った。

「・・・・碇君は苦しいの?」
「・・・え?」
「・・・碇君はあの人と喧嘩してしまって、それを悔やんでるの?」
「あ、ま、まあ、言ってしまえばそういうことなんだけど・・・・」

僕は綾波の言葉が意図しようとしている事がつかめずに戸惑いを感じたものの、
とにかく綾波に返事をした。そして綾波は、そんな僕の答えを聞くと、そっと
こう言った。

「・・・・なら、仲直りした方がいいわ。」
「え?」
「だから、あの人と、仲直りした方がいいと思うの。今の碇君、何だかつらそ
うだから・・・・」
「そ、そう?」
「ええ。」

僕は綾波の言葉に少しびっくりして聞き返すと、綾波はひとこと断言した。し
かし、僕もなかなか簡単に思い切る事が出来なくて、綾波の提案にすぐに応じ
る事が出来なかった。

「で、でも・・・・」
「何を迷っているの?」
「だ、だって、仲直りするって、難しい事なんだよ。」
「別に、心から憎しみあってる訳じゃなくて、ちょっとした言葉の行き違いな
んでしょ?」
「ま、まあ、そうなんだけど・・・・」
「なら、仲直りなんて簡単なんじゃない?少なくともあの人は、碇君が思って
るほどわからず屋でもないわ。だから、今碇君が私に言ったみたいに言えば、
きっとあの人も碇君の気持ち、わかってくれると思うわ。」
「・・・・・」
「・・・・私は別に、碇君とあの人の仲がうまく行く事を望んでいる訳じゃな
いから。ただ、いつもの碇君の顔が、見たいだけだから・・・・・」

綾波に、迷惑をかけていた。
僕がこんな状態じゃなければ、何も綾波はこんなこと言いたくもないだろう。
だから、僕のせいで綾波にこんな言葉を言わせているのだ。僕はそう思うと、
何だか綾波に済まなく思った。そして、人のためにそういう風に思える綾波の
事を、僕は凄いと思った。

「・・・・わかったよ、綾波。アスカに謝ってくる事にする。」

僕がそう綾波に言うと、綾波はそっと僕に注意して言った。

「謝るだけじゃ駄目よ、碇君。碇君が謝ると同時に、あの人の謝罪も受けてあ
げるの。そうすれば、きっとうまく仲直りが出来ると思うわ。」
「・・・・ありがとう、綾波。しっかりと肝に命じる事にするよ。」

僕はそう言って、部屋に綾波を残し、アスカの部屋に向かう事にした。

コンコン!!

僕はアスカの部屋のドアをノックする。すると、アスカのそっけない応えがす
ぐさま返ってきた。

「誰?」
「ぼ、僕だよ・・・・」
「僕?僕なんて奴は知らないわ。」
「シ、シンジだよ。碇シンジ。」
「・・・そう。」
「は、入ってもいいかな?」
「・・・・何の用で?」
「な、仲直りしようと思って・・・・」
「・・・・・」
「駄目かな?」
「・・・・言いたい事があるなら、そこで言いなさいよ。」
「・・・・・わかった。」

アスカは僕を部屋に入れてはくれなかったが、僕の言葉を聞いてはくれるよう
だ。だから、僕は無理にアスカの部屋に入って顔を合わせて話をする事はあっ
さり諦めて、ドア越しにアスカに言おうと決意した。

「えーと、その・・・・まず、謝るよ。ごめん、アスカ。」
「・・・・」
「アスカの気持ち、わかってあげられないでアスカを怒らせちゃったみたいで・・・・」
「・・・・」
「だから、僕はその点については悪いと思ってる。謝るよ、アスカ。許して欲
しい・・・・」
「・・・・」

僕の謝罪に対して、アスカの応えは沈黙だった。が、僕は気にせずにそのまま
言いたい事を言う事に決めた。

「でも、言い訳する訳じゃないけど、僕もアスカに急いで欲しかったんだよ。
ただでさえ忙しいのに、そんな細かい事にこだわらなくても、って思ったんだ。
アスカにとってはこだわるのに値する事だったのかもしれないけど、少なくと
も僕にとっては違ったんだ。アスカもそのことだけは、わかって欲しい・・・・」
「・・・・」
「だ、だから・・・・こういうのは何だけど、お互いに別に悪気はなかったっ
て事で、水に流して欲しい。僕だって、アスカの事、怒ってなんかいないから・・・・」
「・・・・」
「・・・・アスカ?」
「・・・・・・なによ?」
「・・・何か言ってよ。」
「・・・・アタシの勝手でしょ。」
「そ、それはそうかも知れないけど・・・・・」
「・・・・」
「そ、それより、そっちの片付けはどう?進んでる?」
「・・・・まあね。」
「ぼ、僕もすぐ自分のところを片付けて、アスカを手伝いに行くからね。」
「・・・・」
「行くからね!!いいね!?」
「・・・・」
「駄目だったらはっきり言うんだよ。黙ってたら、オーケーって事だと思うか
ら。」
「・・・・」
「・・・じゃあ、すぐ行くから。待っててね。」
「・・・・・・・・」

そして僕は、最後までアスカの返事を聞けぬまま、アスカの部屋の前を後にし
た。結局アスカと仲直りするところまでは行かなかったが、それでもアスカは
僕を拒まなかった。少なくとも、僕が後で手伝いに行くという言葉に対して、
はっきりと否定はしなかった。だから僕は、そこでアスカと顔を合わせる事が
出来るのだと思って、今回のちょっとした成果に満足感すら感じていた。

「た、ただいま。」

僕は自分の部屋に入ると、僕を待っていてくれた綾波に向かって、ちょっと恥
ずかしそうにそう言った。綾波は僕が戻ってくるや否や、ぱっと僕の方を見た。
そして、少ししてようやく僕の言葉を飲み込む事が出来たのか、少し違和感を
感じている様子ながらも応えてくれた。

「お、おかえり、碇君・・・・」
「綾波には心配かけたね。でも、もう大丈夫だから、さっさとここを片付けち
ゃおう。」

僕がそう言うと、綾波は遠慮がちに僕に訊ねてきた。

「・・・・で・・・・どうだったの、碇君?」
「まあ、まだだけど、でも、きっと大丈夫だと思うよ。」
「そう・・・・」

綾波は何だか何と言っていいのかわからないといった感じだ。僕はそんな綾波
に向かって、少し説明してあげた。

「取り敢えず、まだ仲直りは出来なかったけど、すぐに僕の荷造りを済ませて、
アスカの方を手伝う事になったから。だから、その時までお預けって事で・・・・」
「・・・・・わかったわ。じゃあ、はじめましょ。私も急いでするから・・・」
「す、済まないね、綾波。綾波にまで迷惑かけちゃって・・・・」
「・・・いいのよ、別に・・・・・」

しかし、そう応える綾波の姿は、何だか元気がないように感じた。

「・・・・・」

僕は再び手を動かし始めた綾波の様子を、黙ってじっと見つめる。綾波が僕の
この視線に気付いているのかどうか、わからなかったが、とにかく僕の目には、
綾波の全神経は荷造りに集中しているように感じた。そして僕は、そんな綾波
にばかり働かせないようにと思って、綾波を見るのを止め、自分も荷物をまと
めにかかった。
しかし、なぜか今度は、アスカではなく綾波の事が気になり始めてしまった。
アスカのことをもう楽観的に考えてしまっているからなのかもしれないが、と
にかく綾波には心配というよりも迷惑をかけただけに、綾波に明るくいてもら
わないと、僕も心を落ち着ける事が出来なかった。だが、今度は仕事が手に付
かないという事はなく、不思議と手の動きは軽やかに、綾波に意識を向けてい
た。そして、時間だけが過ぎていった・・・・・


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