私立第三新東京中学校

第百七十三話・失踪


・・・・とにかく、何の問題もなく僕達は学校に着いた。
アスカはもうすっかり元気を取り戻していて、登校途中はずっと洞木さんと何
やら話していた。トウジは洞木さんの横で控えていようとしたのだが、アスカ
の「女の子同士の話なのよ!!あっち行ってなさいよ!!」という言葉にすげ
なく追い払われた。洞木さんはその事に関してあまりいい顔はしていなかった
が、それでもアスカとの話がトウジに聞かれては都合のよくない類の話であっ
たらしく、アスカには何も言わずに話を聞いていた。
そんな訳で、トウジは僕達の方にしぶしぶやってきて、ケンスケと一緒になっ
て僕をからかっていたのだ。トウジはやはりアスカのような女の子はお好みで
ないらしく、散々僕が物好きであるということをまくし立てていた。さすがに
ケンスケはそこまでアスカのことをおとしめてはいなかったものの、それでも
トウジの意見を否定まではしなかった。
そして綾波は・・・・最後まで、僕達の会話に参加することはなかった。こう
いう事は、別に珍しいことではなかったが、僕はさっきのこともあって少し綾
波のことを心配していた。

校門をくぐり、下駄箱を抜け、廊下を歩き、教室に入る・・・・
何もいつもと変わりはなかった。僕は取り敢えず自分の席に着くと、鞄の中身
を出しはじめた。

一時間目は、リツコさんの理科だ。リツコさんは実験好きなので、また今日も
理科室に行かされることになるかもしれない。しかしまあ、つまらない教科書
の内容よりも実験の方がずっと面白かったので、僕はそれほど気にはならなか
った。
クラスの大半もその事に関しては納得していたのだったが、いかんせんリツコ
さんのやる実験は怪しいし、それ以上にリツコさんが怪しい人だと思われてい
る節があるので、人気のある先生とはとても言いがたかった。
まあ、リツコさんは別に自分がどう思われていようと気にしてはいないみたい
なので、常に堂々としていて、そこは僕に立派だと思わせた。

まもなく始業のチャイムが鳴る。一応クラスは少しだけまとまりを見せはじめ
たが、いくら待ってもリツコさんはやってこなかった。そのせいでみんなの気
持ちも緩みはじめたのかまた授業前のざわついた状態に戻っていった。洞木さ
んが委員長としての職務を果たそうと、みんなを静めにかかるが、あまり芳し
い効果はあがらなかった。
隣の席の綾波は、周りの様子など気にせずに、本を読みふけっている。以前は
図書館から借りてきたようなハードカバーの難しそうな本ばかりしか読んでい
なかったのだが、今読んでいる、と言うより見ているのは、僕が以前買った料
理の本だった。
僕はその事に気が付くと、少し綾波に話し掛けるきっかけが出来たのがうれし
くなって、思わず笑みをこぼしながら綾波に声を掛けた。

「綾波・・・・」
「碇君・・・・何?」

綾波は僕の声を聞くと、本を閉じて僕の方に顔を向けた。僕はそれを見ると、
慌てて綾波に言った。

「あ、閉じないで・・・・広げたままにしておいてよ。」
「・・・・うん。」

僕がそう言うと、綾波は言われた通りに今まで読んでいたと思しきページを開
いて机の上に置いた。

「その本・・・・うちにあった奴だよね。」
「ごめんなさい・・・勝手に持ってきちゃって・・・・」
「いや、いいんだよ、読むために本はあるんだし、僕ももう、その本に載って
る奴はほとんど作れるようになったと思うから・・・・」
「ありがとう・・・・」
「だからその本、綾波にあげるよ。綾波もその本を見て、もっと料理が上手に
なれば、僕もうれしいから・・・・」
「ありがとう、碇君・・・・」

綾波は染み入るような声で、僕にありがとうと言った。
綾波の言うありがとうの言葉は、いつも綺麗だった。綾波が言う言葉は、普通
の人がよく使うような形だけのものでなく、本当に心がこもっていたから、僕
はそれがうれしかった。
そして、僕はそれがうらやましかった。僕の言葉は綾波の言葉とは対照的に、
取り繕いの形だけのものばかりだったからだ。僕だって、時には心からの言葉
を口にするだろうが、世間一般の人と同じく、いや、それ以上にわずかで貴重
なものであった。

「綾波の言葉って、ほんとに綺麗だね・・・・」
「い、碇君?」

僕はそんな事をいきなり言ったので、綾波は少し驚きの様子を見せた。僕はそ
んな驚く綾波を微笑ましく見ながら、自分の思ったことを綾波に言った。

「いや、本当にそう思うんだよ。偽りばかりのこの世の中に、いつも心からの
綺麗な言葉を出せる綾波は、本当に凄いと思う・・・・」
「でも・・・・私はまだ、そういうのが上手く出来ないから・・・・」
「そんなの上手くならない方がいいよ。だって、誰だってそういうのを綺麗だ
と思ってるんだから、綺麗なものをわざわざ汚くする必要はないと思う。それ
にまあ、綾波も少しはそういう事も言えるんだし・・・・」

僕はそう言ってから、綾波にクスっと笑って見せた。すると綾波は恥ずかしそ
うに顔を伏せて僕に言った。

「わ、私だって、少しは・・・・そういう言葉が言えないと・・・・・・」
「わかってるって。僕は別に、綾波を責めてる訳じゃないよ。大体そういう事
も言えないと、人間らしいとは言えないし・・・・・」
「うん・・・・私もそう思ったから・・・・あの人に学んでみたの。」
「だね。まあ、アスカほど派手にやることはないよ。綾波は綾波らしくやれば
いいんだから。まあ、綾波だってそんなことくらいわかってるから、今朝の発
言があったんだろうしね。」
「うん。あの人を真似するだけじゃ、よくないから・・・・」
「そういうこと。まあ、そんなことより・・・・」

僕はそう言うと、話題を転換するために開いた料理の本のページを指差して、
綾波に訊ねた。

「綾波、これを作ってみようと思うの?」
「うん・・・・」

綾波は少し恥ずかしそうに小さくうなずいて答えた。
なんと、その開いていたページに書かれていたものは、ハンバーグであった。
アスカが好物のハンバーグの作り方を勉強するならともかく、親子丼の鳥肉を
昨日はじめて食べることの出来た綾波が、いきなりこんなこてこての肉料理を
作ろうなんて、まだ早すぎると思われた。

「で、でも・・・・これ・・・・・」
「わかってる。でも、お肉が食べられたことだし、肉料理も少しずつ覚えてい
かないと・・・・」
「た、確かにそうかもしれないけど、火を通した肉ならともかく、料理するに
は生の肉に触らなきゃいけないんだよ。」

僕がそう言うと、綾波はほんのわずかに自慢げに僕に向かって応えた。

「うん。でも、私は一応、碇君のお弁当に入れるから揚げで、生の肉は触った
ことあるから・・・・」

確かにそうだ。僕が綾波に作ってもらった弁当には、よくから揚げが入ってい
た。僕はその時は自分が食べられないのにわざわざ僕のために作ってくれた、
くらいなことしか考えられなかったのだが、そうして改めて言われてみると、
綾波がそのから揚げを作るためには生の肉も触らなければならなかったのだ。
僕はそう思うと、綾波に訊ねた。

「そ、そう・・・・でも、辛くなかった?」
「・・・・はじめは辛かった。でも、碇君のためだったから・・・・だから、
私は我慢出来たの。」

僕はそうはっきりと僕のためだと言う綾波に少し戸惑いながらも、ありがとう
とお礼の言葉を述べた。

「あ・・・・その・・・・いや、ありがとう。」
「ううん、私が勝手にやってることだし・・・」
「で、でも、そのために綾波に辛い思いをさせちゃったんだから・・・・」
「ううん、碇君に私の作った料理を食べてもらうのは、私の喜びだし・・・・」
「だ、だけど、別にそうするのにわざわざ無理にから揚げを作る必要はなかっ
たんじゃない?」

僕は少し意地悪い質問かもしれないが、綾波に向かってそう聞いてみた。する
と綾波はそんな僕に向かって真剣な眼差しでこう答えた。

「だって、私、お弁当のおかずって言えば、碇君の作ったものしか知らなかっ
たから・・・・」
「だ、だから僕の作った弁当をそのまま再現したわけ?」
「うん・・・・」
「で、でも、今は・・・?今は別に色々レパートリーも増えたんだし、から揚
げにこだわる必要はないんじゃない?」

僕が綾波にそう言うと、綾波は僕に向かって少しうれしそうな顔をして答えた。

「だって、碇君、私が作ったから揚げを食べる時、とってもおいしそうに食べ
るから・・・・」
「・・・・・」

確かに弁当のおかずの中では、僕はから揚げが一番好きだった。アスカや綾波、
そして洞木さんまでが、僕の作る卵焼きをおいしいと言って好んでくれるが、
男の僕は甘い卵焼きなどよりもやはりから揚げの方がおいしいと感じるのだっ
た。
しかし、僕はそんなに綾波が言うほどうまそうにから揚げを食べていたという
のだろうか・・・?僕としては全然意識していなかったし、誰もそんな指摘を
してくれる人間はいなかった。でも、綾波だけが、そんな細かいところまで気
付いていたのだ。綾波は本当に、僕の気付いている以上に、僕のことをいつも
見続けているのかもしれない、僕はそう思ったのだった。

「だから、私はから揚げを作るの。それに、もう生の鳥肉を触るのも、大分慣
れたし・・・・」
「そ、そうなんだ・・・・それならよかった。」
「うん・・・だから私も少しずつ肉料理も出来るようになって、碇君に私の作
ったいろんなものを食べてもらいたいの。少なくとも料理に関しては、私はあ
の人よりも勝ってるんだし・・・・」

最後のこの言葉で、綾波の考えていたことの一端を垣間見たような気がした。
つまり綾波は、今のところアスカに勝っているとはっきり判っているのは料理
だけなのだから、それを生かして僕に自分をアピールしようとしているのだ。
だからこうして学校に料理の本まで持ってきて・・・・
綾波も、努力しているのだ。それも、自分を変えるのではなく、自分のいいと
ころをもっと伸ばそうと言う形で・・・・・

僕はそんな綾波の姿に偉いと思って声を掛けようとした時、教室のドアが静か
に開いた。僕は綾波に言うタイミングを外してしまったが、そんなことよりも、
ドアから入ってきた人物がリツコさんではなかったことが、僕にとっては驚き
だった。

「・・・・赤木先生は本日はお休みです。ですから、皆さん一時間目は自習を
していてください・・・・」

その人物とは、伊吹先生であった。
そして伊吹先生の慕うリツコさんが休みなのが寂しいのか、少し辛そうな青ざ
めた顔をしていた。伊吹先生は教壇の前に立って静かにそう言うと、続いてこ
こ言った。

「・・・・それから、碇君、綾波さん、惣流さんの三人は、これから私につい
て職員室まで来てください・・・・」

伊吹先生は言い終わると、最後に僕と目を合わせた。何だかその時の伊吹先生
の目は、リツコさんがいなくて寂しいというよりも、悲しみをたたえているよ
うに感じて、僕は少し不安を感じた。
隣の綾波は、伊吹先生の言葉を聞いて、速やかに料理の本を机の中にしまった。
そして綾波の方を見ていた僕に向かって言う。

「さ、行きましょ、碇君。」
「あ、う、うん・・・・でも・・・何なんだろうね、一体・・・・?」
「私にはわからないわ。でも、きっとすぐにわかるから、碇君は心配しないで。」
「そ、そうだね。うん・・・・」

こうして僕と綾波は、伊吹先生に続いて廊下へと出た。すると、後ろのドアか
ら同じように廊下に出てきたアスカが、早速伊吹先生に向かって訊ねる。

「何なのよ、一体!?アタシ達じゃなきゃ駄目な訳でもある訳!?」

アスカのその問いに、伊吹先生は一気に緊張の糸が解けたのか、いきなりアス
カの胸に崩れかかった。

「ど、どうしたのよ、アンタ!?ちょっとしっかりしなさいよ!!」

アスカはいきなりのことにびっくりして、大きな声をあげる。すると、伊吹先
生はアスカの胸に顔を埋めたまま、小さな声でこう言った。

「先輩が・・・・赤木先輩がいなくなっちゃったの・・・・・」
「ちょっとそれどういうことよ!?」
「昨日、あれから様子がおかしいと思ってたんだけど、今日、学校に来なかっ
たから心配になって電話してみたら、先輩は出ないし・・・・」
「そ、そんな慌てることでもないんじゃない?電話に出なかったくらいで・・・」

アスカがうろたえる伊吹先生を安心させるかのように言うと、それを否定する
かのように伊吹先生は言った。

「ネルフからも・・・・あのネルフの監視からも、先輩は完全にロストしてい
て、居場所が確認出来ないの・・・・・」
「じゃ、じゃあ・・・・・」
「あれから行方不明なのよ。私を・・・・この私を置いて、何も言わずに・・・・」

僕達は、リツコさんの存在を忘れていた。
リツコさんには辛いこともあったかもしれないけれど、そんなの大した事はな
いとたかをくくっていた。そのくらい一日経てば忘れ去られるようなことだと・・・・
しかし、現実は違った。リツコさんはネルフの監視からも逃れて、完全に失踪
してしまったのだった・・・・・


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