私立第三新東京中学校

第百七十話・本当の優しさ


「あ、綾波、なにかあるって・・・・」

僕は少し綾波の言葉に驚いて、声をあげた。すると綾波はケンスケの時とは違
って僕の方に顔を向けると、ちゃんと応えてくれた。

「・・・・ただ、そんな気がするだけ。根拠は何もないわ、碇君。」
「そ、そうなんだ・・・・」

綾波はまるで僕を安心させるかのように、少し表情を穏やかなものにしてそう
言った。しかし、僕はそんなものでは安心出来なかった。なぜなら、綾波の勘
は女の勘と言うか何と言うか、とにかく鋭いものがあったからだ。アスカも洞
察力に関しては鋭い方と言えるのだろうが、それはアスカの人の気持ちを適確
に読む力から来るものであって、根拠のあるものであった。しかし綾波の場合
は・・・もしかしたらああいう何にも知らないような顔をしてアスカと同じよ
うに人の心の機微を察知することが出来るのかもしれないが、僕にはそれ以上
のものが感じられていた。だから、僕は綾波の「そんな気がするだけ」に心を
落着かせることが出来なかったのだ。
しかし、そんな僕の様子にアスカがいち早く気がつくとこう言った。

「アンタバカねぇ。ここにいない奴が企む事をあれこれ考えたってどうしよう
もないでしょ。」
「そ、そうだね・・・ごめん・・・・」
「だからアンタは心配症だって言われんのよ。もっとのほほんと生きなくっち
ゃ!!」

はじめのアスカの発言は、僕にとってかなり適確な助言だったが、次のそれに
関してはいささか閉口した。なにやらアスカは僕をお気楽のほほん人間に改造
したいらしい。その事に関しては、今朝からのアスカの発言の端々に如実に表
れてきているのだ。
僕がそうアスカの言葉に呆れていると、僕と同じ事を感じたのか、トウジがア
スカに向かって言った。

「惣流、お前、のほほんと生きろって・・・・無茶苦茶な事ゆうなぁ・・・・」
「無茶苦茶なんかじゃないわよ。」
「さよか?しかしなぁ・・・・のう、いいんちょー?」

トウジがいきなり隣に立っていた洞木さんに向かって同意を求めた。

「えっ!?う、うん!!」

洞木さんはこんな事ははじめてだったのか、思いっきり顔を真っ赤にして、不
必要に大きな声でトウジに返事をしてしまった。そしてその完全に動揺した様
子を見せてしまった事に洞木さんはすぐさま気がつき、更に真っ赤な顔をして
今度は恥じ入るような小さな声でトウジに言った。

「あ、あの・・・・あたしも・・・・鈴原の言う通りだと思う・・・・」

洞木さんの一連のこれで、完全に話はのほほん話からすりかわってしまった。
アスカは頬を真っ赤に染める洞木さんに向かって、うれしさとからかいの混じ
った表情をしてこう言った。

「ヒカリは鈴原の意見は何でも絶対なんだからねぇ・・・・」

すると、洞木さんは慌ててアスカのその言葉に反論して見せた。

「ち、違うわよ、アスカ!!あたしも本当にそう思ったんだからっ!!」
「どうだか?」
「ほ、ほんとなんだから、べ、別に鈴原に無理に合わせた訳じゃないんだから・・・・」

アスカのちょっとした責めに、洞木さんは完全に困ってしまっている。このま
まアスカが容赦なくからかい続けたら、洞木さんは必ず泣き出してしまっただ
ろう。アスカは洞木さんの大親友なので、そんな目に合わせる事は絶対にない
だろうが、アスカが洞木さんに冗談だと言う前に、トウジがアスカに向かって
言った。

「あんまりいいんちょーをからかうんやないで、惣流。」

トウジの言葉は、何故か少し凄みがあった。アスカもその事に気がついて、慌
てて弁解して見せた。

「わ、わかってるわよ、鈴原。アタシだって、そんな深い意味はないんだから。
ヒカリをいじめるつもりなんて・・・・」
「ならええんや。」

トウジはそっけなくアスカにそう言うと、洞木さんの方を向いてなだめるよう
に言った。

「ほら、いいんちょー、気にすんなや。惣流の奴も深い意味はないって言っと
ることやし・・・・」
「うん・・・・」

何だかこの二人、非常にいい雰囲気だ。はっきり言って、僕達周りの事などま
ったく見えていない様子で・・・・
僕がそう思っていると、アスカが僕に耳打ちしてきた。

「ねぇ、シンジ。鈴原の奴、何だか急にヒカリをかばうようになったと思わな
い?」
「う、うん・・・・でも、当然なんじゃない?昨日ああいう事があったんだし、
トウジは格別責任感が強いから・・・・」

僕はその場にいて話を聞いていた訳ではないので、詳しい事はよく知らなかっ
たが、昨日ようやくトウジと洞木さんは想いを一つにしたと言う事であった。
僕はトウジの考え方のようなものを聞いていただけに、トウジの男らしい変化
を当然の事だと思い、また、しきりに感心していた。
するとアスカも僕と同じようにトウジの様子に感心したのか、僕に向かって皮
肉っぽい口調で話しかけてきた。

「どこかの誰かさんも、ああいう風になってくれたらいいんだけどねぇ・・・・」

アスカの言う、「どこかの誰かさん」というのが他ならぬこの僕を指している
という事くらい、僕にもすぐにわかった。僕だってトウジのように立派ではな
いかもしれないが、それでもそこそこやっていると思っていたので、アスカに
向かってちょっと頼りなげに反論して見せた。

「ぼ、僕だって・・・・一応ちゃんとしてるだろ・・・・」
「へぇ、ちゃんとって何を・・・・?」

アスカは意地悪だ。僕の口から絶対に言わせたいらしい。僕が人並外れた恥ず
かしがり屋だとわかっているくせに・・・・
でも、ひそひそ話でアスカ以外に誰も聞いていないのなら・・・と思って、僕
はおずおずとアスカに言った。

「そ、その・・・・アスカを守る事だよ。」

すると、アスカはすぐに喜びを顔に出してしまったが、それでは駄目だと思っ
たのか、表情を急に厳しいものに変えて僕にこう言った。

「た、確かにちょっとはそうかもしれないけど、それじゃあ全然足りないのよ。
アタシの目からすれば、アンタはまだまだ不完全ね。大体アタシがミサトにか
らかわれてても、ごくたまにしかかばってくれないし・・・・」
「・・・・ご、ごめん・・・・・」

確かにアスカの言う通りだった。
僕ははっきり言って、アスカや綾波を守っているとはいいがたいだろう。せい
ぜいが喧嘩にならないように途中で間に入る事くらいだろうが・・・・
と、そう思って、僕はある事に気がついた。
僕がしている事は、アスカや綾波をかばおうとしている事などではなく、ただ
単にその場の雰囲気をいいものに保ちたくてそうしている事なのだという事実
に。
それはまあ、アスカや綾波が不当な言葉の攻撃を受けていれば、僕だって憤り
を感じて反論もするだろう。しかし、僕にとって、それが主であった事はない
のだ。そういう気持ちはあっても、それは常に従であった。
そしてそれは、アスカや綾波をかばう行為の中身をなくす事であった。
アスカもその事には気付いているだろう。
アスカはいつも、僕の考えている事くらい、お見通しなのだから。
でも、アスカはそれを知っていても、僕に露骨にそれを叫ぶ事はない。
それは・・・・きっとアスカは、僕の心の中に、僕のするとりつくろう行為の
中に、純粋にアスカを思う気持ちが入っている事もまた、知っているからだろ
う。だからアスカも、こんな情けない僕を見捨てずにいてくれる。
もし僕が本当に形だけを取り繕う男に成り下がったその時は、アスカも綾波も、
僕を見捨てて去っていくだろう。それこそ、愛のかけらもないとわかってしま
ったのだから。
と言う事は・・・・僕にも愛のかけらくらいは存在しているのだ。

そう僕が考え込んでいたその時、いきなりもうひとつ別の声が聞こえた。

「・・・・あなたは全くわかっていないわ、碇君の本当の気持ちなんて。」

それは綾波だった。綾波の言葉は、いつもの綾波らしいものだったので、言わ
れたアスカもあまり大袈裟には捉えずに綾波に聞き返した。

「アタシの何がわかっていないって言うのよ?はっきり言って、シンジのそれ
はアタシ達を完全にかばっているものとは言い難いんじゃない?」

アスカの意見は変わらない。アスカは自分の言葉が真実をついていると思って
いるので、綾波に対する態度も強気そのものだった。そして、僕もそうするア
スカの態度を当然の事だと思っていた。
すると綾波は、そんな自信たっぷりなアスカに対して、鋭くこう言った。

「・・・・確かにそうかもしれないわ。でも、碇君は出来る限り、私達のため
を思ってくれてる・・・・」

アスカは、そんな綾波の言葉にいつもの信仰を感じたのか、それに反論する意
味で僕の事をおとしめるような発言をした。

「出来る限り!?冗談でしょ!?シンジはそんな殊勝な男なんかじゃないわよ!!」

すると、綾波は珍しく顔に血の気を昇らせて、アスカに向かって大きな声で言
い放った。

「あなたは忘れたの!?碇君がどれだけ私達のためを思って出来る限りのこと
をしてくれたのかを!!」
「レ、レイ、アンタ・・・・」

綾波がこんな大声を出すのは、僕もはじめて見た。そして、アスカも驚いてし
まって、反論の声さえあげられずにいた。
すると、綾波はアスカの驚く様子など目に入っていないかのようにそのまま興
奮状態を保ちながら続けた。

「碇君は私が本当に駄目だった時、私のために頑張ってくれたわ!!だから今
の私があるの。そしてその時の私に手を差し伸べてくれたのは、碇君だけだっ
たのよ!!何の価値もなかった、あの時の私に!!」
「・・・・・」
「だから私は、碇君だけを掛け替えのない人だと思っているの!!今の私にな
ら、碇君だけでなく、他の人も私を見てくれるかもしれない。でも、あの時の
私、人形のような私を見てくれた碇君に本当の優しさを感じたから、私はずっ
と碇君一人を愛し続けるの!!たとえ今の私を、他の人が碇君以上の愛を以っ
て私を見てくれたとしても!!」
「・・・・・」
「あなたはそう思わないの?あなたも私と同じ、碇君の本当の優しさに触れる
ことの出来た、数少ない人間のうちの一人でしょう?それなのにあなたは、碇
君に求めてばかりで・・・・・あなたは最低よ。碇君に愛される資格なんてな
いわ。」

綾波はそう言うと、うなだれるアスカを見下した目で見た。
そしてアスカは、そんな綾波の言葉に、ひとことも反論出来なかった。
綾波の言葉は、それだけアスカの胸に重くのしかかったのだった。
忘れていた過去。
あの病院での入院生活・・・・
アスカの胸の中に、辛かったかつての自分の様子が思い返されているのかもし
れない。
そして僕も、昔の自分を思い返していた。
心が壊れ、入院中だったアスカを真剣に想った自分、
人の心を知らない人形のままだった綾波を、何とかして本当の人の心を与えよ
うと努力し続けた自分・・・・

あの時の僕は、無我夢中だった。
ただひたすらに走り続けていた。
でも今は・・・・僕は止まっている。
だから僕は、今の自分に納得出来ないのかもしれない。

綾波の言葉は、僕にとって本当にうれしかった。
綾波が僕の事をそのように見てくれていたという事実。
そして、もう一度僕に自分で自分を認めることが出来るようにしてくれたのだ。

「ありがとう・・・・ありがとう、綾波・・・・」

僕は思わず、綾波に向かってそう言っていた。
綾波はそんな僕の様子に驚いてしまっている。

「い、碇君・・・・?」
「・・・綾波のおかげで、僕は何だか自分が自分でいられるような気がしたよ。
だから・・・ありがとう、綾波・・・・・」

僕は心から綾波にそう言った。
すると綾波は、ようやく僕の様子が理解で来たのか、穏やかな微笑みを浮かべ
てこう言ってくれた。

「私こそ・・・・有り難う、碇君。そして、碇君もずっと変わらないでいて。
私にだけ見せてくれた、優しい碇君のままで・・・・」
「綾波・・・・」

そして僕は、昂ぶる気持ちのままにそっと綾波の手をとった。

「碇君・・・・」

綾波はそれしか言わない。
でも、綾波の気持ちは、僕の胸に十分伝わった。
そして僕は、そんな何も言わない綾波が、僕にとって本当に必要な存在なので
はないかと、心の中で思いはじめていたのだった・・・・


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