私立第三新東京中学校

第百六十九話・現れなかった彼女


ピンポーン!!

甲高いチャイムの音が、玄関の方から響いてきた。

「はーい!!」

こんな時間に僕たちの住むマンションに訪問する者など、たった一組しか考え
られない。そう、トウジ達が僕達を迎えに来たのだ。

僕とアスカ、綾波は、あれから朝食を済ませた後、片付け物を済ませ、身支度
を整えて、みんなが来るのを待っていたのだ。
今日は割と全てが滞りなく進んだため、かなり時間的余裕があった。だから、
綾波を除いた僕達三人は、雑談や、引っ越し作業について相談していた。そし
てそれに関しては僕の意見で一応の合意を得るに至ったのだ。

とにかく僕達三人は、チャイムの音に導かれて、鞄を手にして玄関に駆け寄っ
た。

「おはようさん、シンジ、綾波、惣流。」

ドアを開けるなり、真っ先に挨拶してきたのは、やはりいつもの通りトウジだ
った。

「おはよう、トウジ。」
「おはよう・・・・」

僕がトウジに挨拶を返すと、綾波もそれに続いて挨拶した。が、アスカの挨拶
はなしだ。何故か不満気な顔を露にしている。

「なんや、惣流、その顔は・・・?」

トウジもその事に気付いて、少し眉をひそめながらアスカに言った。すると、
アスカはトウジに向かって答えた。

「アンタのそのアタシをおまけ扱いにしたような言い方が気に食わないのよ。」

た、確かにそうだ。トウジはいつもおはようと言うのも僕に対してだけだった
のに、何故か今日は綾波にも挨拶して・・・・それでついでにアスカも付け足
したというような感じを受けた。まあ、トウジからしてみれば、アスカよりも
綾波の方が遥かに好感が持てるようで、よく綾波にも何くれと世話を焼いてや
っていたのだが・・・・

「な、何や、その言い種は!?もう一遍言ってみい!!」

さすがにいきなりそんな事を言われては、トウジも怒るというものだ。アスカ
の事を良く理解している僕が何とか感じた事を、トウジが感じるはずもない。
だから、トウジの反応も、ごく当然のものであると言えた。
しかし、そんな朝から激昂するトウジに向かって、なだめるように洞木さんが
言った。

「鈴原、ちょっと落着いて・・・・」

しかし、そんなものではトウジの怒りは収まらない。更にトウジは火を付けら
れたかのように興奮して叫んだ。

「これが落着いていられるかい!!」

僕は、そんな手の付けられない状態のトウジを見かねて、アスカに謝るように
言った。

「アスカ、今のはアスカが悪いよ・・・・トウジに謝りな。」
「・・・・」

アスカはそんな僕に返事こそしなかったが、明らかに冷静さを取り戻して、自
分の非を悟る事が出来たようだ。しかしアスカの性格上、すんなりとトウジに
謝ることが出来るかどうか・・・・それが問題だった。
が、僕がそう思っていたら、アスカがトウジに向かっていきなりこう言った。

「・・・・わ、悪かったわね、鈴原。」
「ア、アスカ・・・・」

僕だけでなく、謝られたトウジまでもが素直にではないにしてもすぐさま謝っ
たアスカに対して、驚きの色を隠せない。そして、そんな驚いているトウジに
向かって、すぐ隣に立っていた洞木さんがトウジを肘で突ついてこう言った。

「ほらアスカが謝ったんだから、鈴原も・・・・」
「あ、ああ、惣流もわかればええんや。わかれば・・・・」

こうして、朝からいきなり不穏な空気から始まったのも、何とか普通の状態に
戻る気配を見せはじめた。そして、それにいち早く気付いた僕は、更にある事
に気が付いて、みんなに尋ねてみた。

「あれ、渚さんは?今日はお休み?」

僕の言葉で、みんなの様子が切り替わった。
そして、真っ先にアスカが僕に続いて言う。

「あら、ほんとね。あの馬鹿女がいないじゃない。せっかくお仕置きしてやろ
うと思ったのに・・・・」

アスカの渚さんに対する評価は、かなり酷なものであると言えた。僕や綾波は、
昨日の放課後の事情を知っているので、なぜアスカが前はそんなに渚さんに対
して敵意を抱いていなかったのに今日になって一変しているのかがわかってい
たが、洞木さん達はその事を全く知らない。だから、アスカの言葉にかなりび
っくりしてこう言った。

「ア、アスカ、馬鹿女って・・・・」

すると、アスカはその言葉がさも当然であるかのように、洞木さんに応えた。

「馬鹿女でいいのよ、あんな奴。それでも足りないくらいなんだから・・・・」

アスカはここにいない渚さんに対して敵意をむき出しにしている。そんなアス
カを見た洞木さんは、少しいぶかしく思ったのか、アスカに訊ねてみた。

「な、何かあったの、渚さんと・・・・?」
「大有りよ、大有り!!」
「ど、どうしたのよ、一体・・・?」
「あの女、あろう事かアタシ達がいないのをいい事に、昨日の放課後、シンジ
に近付いて・・・・」

アスカは頭の中で思い返してでもいるのか、ぷるぷる来ている。そして洞木さ
んも、そんなアスカに誘われるように、深刻そうな声でアスカに続きを求めた。

「・・・近付いて?」
「キスしたのよ!!アタシのシンジに!!」
「ほ、本当なの、それ!?」

さすがの洞木さんも、その事にはびっくりしたようで、大きな声をあげた。す
ると、アスカは興味を引かれた様子の洞木さんに向かって詳しく説明しはじめ
た。

「いや、アタシも見てはいなかったんだけどね・・・・レイがシンジにキスし
た時に気が付いて・・・・」
「ア、アスカ、綾波さんが碇君にキスって・・・・・」
「あ、ああ、そういう事もあるわよ。まったくレイはまだ物事をよく把握して
ないみたいだから・・・・」

渚さんの事とはまた違う事実に驚く洞木さんに向かって、アスカはしれっと応
えた。だが、その内容というのは、綾波と僕との間のキスには、愛などひとか
けらもないのだと言う事を、暗に示しているようで、今朝の会話の中にいた僕
にとっては、どきっとさせられる発言だった。
そして、洞木さんもアスカの言葉の中に含まれる深い意味を悟り得たのかどう
かはわからなかったが、とにかくアスカに納得して見せた。

「そ、そう・・・・・」

僕はその洞木さんの一瞬の間隙をぬって、本題に戻す発言を一番冷静そうなケ
ンスケに向かってした。

「そ、それより、本当に渚さんはどうしたの、ケンスケ?」

すると、ケンスケは僕の様子を察してか、いつも以上に沈着冷静に事態を説明
してくれた。

「ああ、委員長も待ってたんだけど渚さんは今日は来なかったみたいで・・・
俺も携帯から電話してみたんだけど、つながらなくって・・・・俺達、電話番
号は知ってても、彼女の家の場所までは知らないから・・・・」
「そ、そう・・・・でも、いつのまに電話番号なんか聞いたんだ、ケンスケ?」
「いつのまにって・・・・俺達はみんな知ってるぞ。な、トウジ?」

渚さんについて、僕の知らない事実が発覚して僕は驚いていた。が、ケンスケ
によると、知らなかったのはなぜか僕だけだったらしい。

「ああ。わいも一応聞いとるで。忘れてしもうたけどな。」

ケンスケに話を振られたトウジは、さして気の乗らない声でケンスケに応えた。
そしてそんなトウジの言葉に続いてケンスケは僕にこう言った。

「シンジも知りたいか?なら喜んで教えるけど・・・・」

そう言った時のケンスケの顔は、一癖も二癖もありそうな表情だった。そんな
にやりと笑うケンスケを見た僕は、一瞬何と返事をしてよいのか戸惑ってしま
った。すると、僕の隣にいたアスカが、ケンスケに向かって大きな声で言った。

「シンジはあんな女の電話番号なんて知りたくないわよっ!!」

そう言うアスカは、少し動揺しているように、僕には見えた。ケンスケも僕と
同じように感じたのか、意地悪くアスカに言う。

「ほぉ・・・惣流はシンジの事ならお見通しって訳か・・・・でも、シンジも
男だぞ、一応・・・・」

ケンスケはいつもしてやられているアスカに一泡吹かせてやりたいの言う気持
ちがどこかにあったのかもしれない。だが、今朝のミサトさんを見て、僕はア
スカを挑発する事が、愚かな事であると重々承知していた。

「うるさいわね!!シンジはアンタなんかとは違って、女には不自由してない
んだからね!!」
「く・・・・不自由してなくても、惣流みたいな猛々しい女は、きっとシンジ
もうんざりしてるだろうさ・・・・」

ケンスケは、苦し紛れにアスカの触れてはならないところに触れてしまった。
アスカは自分でも、自分がとてもおしとやかとは言えない事を自覚していると
いうのに・・・・

「この馬鹿!!」

ビシャン!!

・・・・いい音がした。さすがはアスカだ。ビンタの音も、一級品だ。
僕はビンタされたのが自分ではなくケンスケだったので、呑気にビンタの音な
どを鑑賞していた。そしてアスカにビンタされたケンスケはと言うと、僕のよ
うにあまり慣れてはいないので、かなり痛かったらしく、顔をしかめて頬を押
さえている。
だが、そんな痛々しいケンスケに同情の色を示すものは誰もいない。アスカの
親友である洞木さんはともかく、ケンスケの味方になるべきトウジも、ケンス
ケの迂闊さに気付いていたので、敢えてここでケンスケをかばいだてして自分
までアスカに殴られるつもりなどさらさら無いようだった。
そして、孤立無援になってしまったケンスケに向かって、アスカが最後にとど
めの言葉をぶつけた。

「そんなデリカシーのないことばっかり言ってるから、アンタはいつまで経っ
てももてない男のまんまなのよ!!」
「・・・・・」

もう、ケンスケに返す言葉はなかった。今のケンスケは、惨めな敗残者となっ
てしまっていたのだ。しかも、誰も慰めてはくれないという・・・・
だが、ケンスケには最後の味方がいた。
それは綾波だった。
全ての人間がケンスケの視線を避ける中、綾波だけはケンスケの視線を避けよ
うとはしなかった。別に綾波の方では、ケンスケなど気にも止めていなかった
のだろうが、もう何もないケンスケにとっては、自分を避けないというだけで
も自分の味方に等しかったのだ。

「あ、綾波ぃ・・・・」
「・・・・・」

が、それはケンスケの誤解だった。
綾波は、ケンスケなど眼中にもなかったのだ。だから、綾波はケンスケに声を
掛けられた事など、全く気付いた様子もなかった。そして、そんな哀れなケン
スケを見たアスカは、ケンスケに向かってあざけりの言葉を発した。

「フッ、惨めね・・・・レイがアンタなんかに見向きもするはずないのに・・・・
レイが見てるのはシンジだけなのよ。アンタだってそのくらいわかってただろ
うに・・・・」
「・・・・」

しかし、そんなアスカの冷たい言葉も、ケンスケの耳には届いていないような
気がした。そしてケンスケは、そのまま何かを求めるように、綾波を見つめ続
けていた。すると、それまで沈黙を守り続けてきた綾波が、いきなりその小さ
な口を開いた。

「・・・・何かあるわね、きっと・・・・・」

その言葉で、ようやく僕達は、綾波が何を考えていたのかを悟った。
綾波は、僕達の前に姿を見せなかった渚さんについて、考え込んでいたのだ・・・・


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