私立第三新東京中学校

第百六十六話・毎朝の日課


「そろそろ、朝食にしようか・・・・」
「うん・・・・」

僕はアスカの身体をそっと起こすと、そう促した。アスカはまだ、いつもの元
気なアスカに戻ってはいなかったが、それでも何か食べてしばらくすれば元に
戻ると思っていた。

取り敢えず僕はアスカを席に着かせ、中断していたミルクティーをいれに行っ
た。

「今日、サンドイッチなの?」

テーブルの上に乗ったサンドイッチを目にしたアスカが僕に尋ねる。僕は軽く
首をひねってアスカの方を向くと、うなずいて答えた。

「うん。昨日買い物してこなかったから、弁当に入れるおかずがなくって・・・」
「そう・・・・」
「ごめん、何だか手抜きで・・・・」
「ううん、いいの。アタシ、サンドイッチ好きだから・・・・」
「もう少し待っててね。今ミルクティーを入れるから。」
「うん、わかった。」

こうしてアスカとの会話を終えた僕は、首を元に戻して正面に視線を向けた。
すると、いつのまにか僕の真横に綾波が立っていたのに気がついた。
綾波は黙ったまま、僕の隣でじっとしていた。ティーカップは既にさっき僕が
用意しておいたし、綾波にしてもらうようなことは何もない。それくらい綾波
もわかっているようで、僕の隣にいても何もしようとはしなかった。アスカと
同じくテーブルで僕を待たずに、ここでこうしていることによって、自己主張
しているのかもしれない。
僕は綾波に席に着いているように言おうかと思ったが、そんな考えは捨てて、
綾波にこう言った。

「綾波。」
「何、碇君?」
「頼みがあるんだけど・・・・いいかな?」
「何でも言って。碇君の頼みなら喜んで聞くから。」
「ありがとう。じゃあ、ミサトさんを起こしてきてくれないかな?」
「葛城先生を・・・・?」
「うん。今日がここでとる最後の朝食なんだし、ミサトさんにも一緒にいて欲
しいから・・・・」
「・・・・わかったわ。じゃあ、起こしてくる。」
「頼んだよ、綾波。」

僕の頼みに応じて、綾波はミサトさんを起こしに部屋を出ていった。
昨日は何だかんだ言って荷物をまとめることすら出来なかったが、今日の放課
後大雑把に荷造りを済ませて、そのまま父さんの家に直行すると言う形を取ろ
うと思った。もう少しのんびりしていてもいいのかもしれないが、いつまでも
延ばし延ばしにしていてもきりがない。ミサトさんのいるここが名残惜しいの
は当然だが、だからと言ってここにしがみついている訳にはいかなかったのだ。

やかんには既に火をかけてあったので、お湯はすぐに沸き、ミルクティーも入
った。僕はミサトさんの分も追加した四杯のミルクティーをアスカの待つテー
ブルに運んだ。

「お待たせ、アスカ。でも、綾波がミサトさんを連れてくるまで、もう少しだ
け待ってて。」
「ミサトを起こすのに、少しだけじゃ済まないんじゃない?」

アスカは少し明るく僕に言葉を返した。僕はそのアスカの変化に気付くと、軽
く微笑んでアスカに言った。

「よかった、アスカが元気を取り戻してくれたみたいで。」
「あ、当り前よ。いつまでもうじうじなんてしてらんないでしょ?」
「そうだね、うん。やっぱりアスカはそう来なくっちゃ。」

僕はうれしそうにアスカにそう言うと、アスカは少し真剣な顔をして僕に尋ね
てきた。

「それよりシンジ?」
「なに、アスカ?」
「冗談抜きで、レイにミサトを起こせると思う?」
「うーん・・・・時間はかかるかもね。」
「まあ、そうよね。それに、アルコールを浴びるほど飲んだ後のミサトは、特
別ひどいんだから。」
「・・・綾波じゃあ・・・無理かな?」
「無理ってことはないんじゃない?あの娘、あれで結構容赦ないところあるか
ら。」
「そ、そうだね・・・・」

僕はアスカの言う、綾波の容赦ないところというのをよくわかっていたので、
それを冗談として受け止めることも出来ずに、苦笑いを浮かべた。

「だから、そんなに心配することないわよ。アタシ達が心配することって言っ
たら、このミルクティーが冷めちゃうってことくらいじゃないの?」
「だね。何だか悪かったね、アスカには。」
「そんなことないわよ。冷たくなったらまたいれ直せばいい事だし。」
「そ、そう言ってもらえると助かるよ。」
「ま、アンタには手間のかかる事かもしれないけど、それくらいの手間は惜し
まないでよね。」
「もちろんだよ。そのくらい、何でもない事だから。」
「それもそうね。アンタは自他ともに認める、家事の天才だから・・・」
「そ、そんなことないよ。僕より洞木さんの方が凄いし・・・」
「当り前よ。ヒカリと比べるなんて、無茶な話じゃない。そもそもヒカリは女
の子で、アンタは男の子なんだから・・・・」
「そ、それはそうかもしれないけど・・・・」
「なによ、何か不満でもあるの?」
「い、いや、そういう訳じゃなくて・・・・」
「アンタ、もしかしてヒカリと張り合おうなんて考えてたんじゃないでしょう
ね!?」
「あ、そ、その・・・・うん。」
「ほんとに!?」
「お、おかしいかな?」
「いや、おかしかないけど・・・・」
「僕だって、得意なものに関しては、誰にも負けたくないって言うのがあるか
らね。」
「そう・・・・じゃあ、もしかしてヒカリに卵焼きを誉められた時、目茶苦茶
うれしかったんじゃない?」
「もちろんだよ!!あの洞木さんにあんなに誉められるなんて・・・・」
「・・・・よかったわね、シンジ。」
「え・・・・?」
「アンタも、したい事が見つかったんじゃない。家事っていうものが・・・」
「家事が?」
「そうよ。アンタ、頑張って誰にも負けないほど、家事が得意な人間になりな
さいよね。男だけでなく、女も含めて誰にも負けないように・・・・」
「う、うん・・・・」
「そうすればアタシも、楽が出来るしね。」
「ア、アスカぁ・・・・」
「家事はぜーんぶシンジに任せて、アタシは家でごろごろしてるのよ。うらや
ましいでしょ?」
「駄目だよ、アスカもちゃんとしないと・・・・」
「どうして?」
「お婿さんをもらった時、家事が出来ないと嫌われるよ。」
「アタシは家事が出来なくても文句の言わない男と結婚するもん。」
「そんな奴いないよ、絶対。」
「そう?アタシには、心当たりあるけど・・・・」
「嘘、誰?」
「アンタ。」
「ええっ!!」
「そ、そんなに大声出すんじゃないわよ。何事かと思って、レイが来ちゃうで
しょ?」
「ご、ごめん・・・で、でも・・・・・」
「シンジは文句なんて言わないわよね、アタシが家事出来なくても・・・・」
「言うよ、もちろん。言わない訳ないじゃないか。」
「どうしてよ?アタシを騙す気?」
「そ、そういう訳じゃないよ。僕は家事にうるさい男だから、家事が下手なの
を見ると、つい口を出したくなっちゃって・・・・」
「なら大丈夫じゃない。アタシは下手なんじゃなくて、やらないだけなんだか
ら。」
「何言ってんだよ。やるんだよ、アスカも。」
「家事を?シンジの分を取っちゃっても?」
「そう。交代で・・・・」
「なーんか、面倒臭いなー・・・・・」
「それはそうかもしれないけど、やらなくちゃ駄目なの!!」
「・・・いぢわる。」
「意地悪とか、そういうのじゃないの!!もう、アスカったら・・・・」
「やっぱりやらなくっちゃ駄目?」
「駄目。」
「どうしても?」
「どうしても。」
「じゃあ、シンジが手取り足取り教えてくれる訳?」
「まあ、必要に応じて。」
「ずっと?」
「うん、ずっと・・・・って、何言わせるんだよ!?」
「ちぇっ!!気付いたか。」
「またさりげなく僕を引っかけようとして・・・・・」
「こういうのは引っかかる方が悪いのよ。」
「とにかく、父さんのところに行っても、家事は当番制だからね。いいね?」
「わかったわよ。精々シンジに文句を言われないように頑張るから・・・・」
「それでよし。僕はちゃんと細かいところまで目を光らせておくからね。」
「やめてよ、手が抜けないじゃない。」
「最初から手を抜く事を考えないでよ。まったく・・・・」
「だって、疲れるんだもん。」
「疲れるかもしれないけど、とにかく手抜きは駄目!!」
「けち・・・・どうしてアンタは手を抜かないのよ?」
「そういうのが嫌いだから。」
「全くアンタは糞真面目で・・・・そういう性格、治らないの?」
「治すも何も、僕はこういう自分にだけは誇りを持ってるからね。」
「そ、そう・・・・手の施しようがないわね。」
「アスカも僕がこういう奴だって事くらい、わかってると思ったけど。」
「わかってたわよ、もちろん。でも、ちょっぴり期待もしてた訳。シンジもお
気楽になることが出来るんじゃないかってね。」
「それは残念だったね。僕は絶対にお気楽男になんかならないよ。」
「ちぇっ・・・・」
「ははは・・・まあ、諦めるんだね。かわいそうだけど。」

僕は笑いながら、悔しそうに舌打ちするアスカに向かってこう言った。すると
アスカは、そんな僕に話を切り替えるようにこう言ってきた。

「それよりシンジ・・・」
「何、アスカ?」
「まだ、もらうものはもらってないわよ。」
「何、もらうものって?」
「ほら、あれよ、あれ。わかってるでしょ?」
「・・・・いや、わからない。」
「もう・・・・毎朝恒例の奴よ。今ならいいでしょ?」
「って、あれのこと!?」
「そうよ、おはようのキス!!」
「も、もういいとおもってたんだけど・・・・」
「駄目よ。手抜きはしないんでしょ?」
「そ、それとこれとは話が・・・・」
「違わないわよ。それにこれは日課じゃない。そういうのを破るのは、シンジ
も一番嫌いなんじゃないの?」
「そ、それはそうかもしれないけど・・・・って、誰が日課なんかにしたんだ
よ!?」
「アタシよアタシ。アタシに毎朝おはようのキスを欠かさずする事が、アタシ
の決めたアンタの日課なの。」
「ぼ、僕は断固抗議するぞ!!そんなの横暴だ!!」
「抗議?アンタにそんな権利は認められていないわ。」
「な、なんでだよ?そもそも認めるとか認めないとか、勝手な事言って・・・・」
「勝手で結構。もともと勝手な事だもん。でも、それを既成事実として認めさ
せたのは、他ならぬシンジなんじゃないのぉ?」
「ど、どういう事だよ。」
「何だかんだ言いながら、毎朝のようにアタシの唇を味わっているくせにぃ・・・・」
「そ、それは・・・・」
「認めちゃいなさいよ、日課だって。」
「い、いや・・・・」
「認めないんなら、損害賠償を請求するわよ。」
「そ、損害賠償!?」
「そう、今までキスした回数だけ、アタシの言う事をなんでも聞く事。」
「そ、そんなぁ・・・・何でも言う事を聞くってどうせ・・・・」
「そうよ。アタシにキスしろって言う事よ。だから、結局のところ、アンタは
アタシのキスからは逃れられないって訳ね。」
「ううう・・・・」
「だとしたら、損害賠償なんかのキスよりも、愛のあるキスの方がずっといい
と思わない?さっきだって言ってくれたじゃない、そういうキスは嫌だって・・・」
「・・・・」
「だーかーらー。ね、しよ?」
「・・・・」
「何とか言いなさいよ。黙ってないで。」
「・・・・わ、わかったよ・・・・すればいいんだろ、すれば。」
「そういうこと。あ、でもあらかじめ言っておくけど、いやいやするんじゃな
いわよ。あくまでもアタシへの愛を込めて・・・・」
「わかったよ。もう、アスカにかかっちゃ敵わないなぁ・・・・」
「家事ならともかく、こういう事でアタシに勝とうなんて無茶な話なのよ。諦
めるのね、シンジ。」

僕はアスカの言う通り、こう言う事に関しては勝ち目が全くなかった。だから
うだうだ文句を言わずに、テーブルの反対側に座っているアスカに向かって顔
を伸ばした。するとアスカは、僕に向かってもう一度釘をさす。

「愛を込めるのよ、愛を・・・・」
「わかってるって。そんなにしつこく言わなくても・・・・」
「しつこく言わないと、アンタにはわかんないでしょ?」
「・・・・・」
「あと、知ってる?愛と長さは比例するって・・・・・」
「はいはい、わかりましたよ。要するに、長くしろって言う事でしょ?」
「そういうこと。だんだんわかってきたじゃない、シンジも。」
「こう何度も続けば、僕だってわからざるをえないよ・・・・」

僕が嘆息しながらそう言うと、アスカはもう何も言っては来ずに僕の方に唇を
突き出した。そしてアスカは、いつものように堅く瞳を閉じている。
アスカは何だかんだ言いながらも、キスをする時だけはほとんど目を閉じてい
た。アスカの言葉はやけに巧妙ですれているところがあるが、こういう時には、
やっぱりアスカも女の子なんだな、とかわいく思ってしまう。僕はそんなアス
カが好きで、微笑ましく思いながら目をつぶったアスカに唇を近づけた。
しかし・・・・・

「駄目、碇君!!」

背後からの大きな声。僕もアスカも慌ててキスをしようとするのを中断して、
綾波の方を見た。すると、入り口のところで両目を大きく見開いている綾波と、
その後ろに立っているミサトさんの姿があった。

「あー、もう、せっかく朝から濃厚なラブシーンを見られると思ったのに・・・・」
「だって・・・・」
「はいはい。レイには酷だもんね。こんなのを見せ付けられたんじゃ。」
「うん・・・・」
「そういう事で、アンタ達、ちょーっと自粛してちょうだい。アタシはいいと
しても、レイがかわいそうだから・・・・」

ミサトさんはふざけた調子で僕とアスカにこう言った。しかし、僕にはわかっ
ていた。ミサトさんの言葉は、声や表情以上に真剣なものだったと言う事を。
アスカもそのくらいはわかっていたようで、普段なら大声で言い返すところも、
そうしようとする素振りすら見せなかった。

「あ、ぼ、僕、ミルクティーをいれ直すから・・・・」

僕はそう言って、この気まずい状態から逃げ出すように、ミルクティーをいれ
に行った。そんな僕を責める者は誰もいなかったが、僕についてくるかのよう
に綾波が台所に来た。
何だか悪い事をしていたのを見られてしまったような気がして、僕は綾波と目
を合わせられなかったが、そんな僕に向かって綾波は僕一人にだけ聞こえるよ
うな声でひとことこう言った。

「・・・・碇君の・・・・ばか・・・・」

そして、それと同時にいきなりお尻に痛みを感じた。
綾波にお尻をつねられたのだった。
僕はびっくりして綾波の方を見たが、綾波は僕の方を見てくれなかった。
綾波が完全に怒ってしまったと思って、僕は不安そうに綾波の顔を覗き込もう
とした。すると・・・・

ちゅっ!!

いきなり綾波が僕に向かって飛びついて、ほっぺたに大きな音を立ててキスを
した。その音に驚かされて、アスカもミサトさんもこっちを見る。すると、そ
んな中綾波が僕に言った。

「罰よ、碇君。私に隠れてあの人にキスしようとしてた罰!!」

何だか嬉しそうに言う綾波に、僕は何も言うことが出来なかった・・・・


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