私立第三新東京中学校

第百六十五話・悔悟の涙


「さて、サンドイッチも出来上がったし・・・」
「うん、碇君。」
「アスカでも起こしてくるよ。そろそろ時間だし。」

僕はしばらく綾波にサンドイッチ作りを手伝ってもらっていた。
綾波にしてもらうことなどほとんどなかったのだが、どうしても手伝いたいと
いう綾波の求めに応じていたのだ。
そして、さしたる時間もかからずにサンドイッチは完成した。これからあと、
することと言えば・・・食べることくらいだ。だからアスカを起こしてみんな
で朝食だ。朝食にお昼の弁当用のサンドイッチの残りとはあまりに味気ないも
のではあるが、まあ、仕方ないだろう。アスカはサンドイッチ、嫌いじゃない
し、きっと大目に見てくれることだろう。

僕はそう思いながらリビングを出ようとすると、綾波が僕の行く手を遮るよう
にしてこう言った。

「・・・・私が・・・・」
「あ、綾波?」
「・・・私が・・・あの人を起こしてくる。だから碇君は、ここですぐ食べら
れる準備をして待ってて。」
「え、で、でも・・・・」
「ね?」
「う、うん・・・・」
「じゃあ、お願い。すぐにあの人を起こして戻ってくるから・・・・」

綾波は僕にそう言うと、とっとと部屋を後にして行った。
そして僕は、リビングに一人取り残される。

「・・・・なんなんだろう・・・・?」

それが僕の、純粋な感想だった。
が、そんなことはともかく、こうしてぼーっとしている訳にも行かない。サン
ドイッチをテーブルに並べて・・・それに合わせて、飲み物はミルクティーに
しよう。
僕はやかんを火にかけると、ミルクティーの準備をした。もちろんお昼も水筒
にそれを入れて・・・・と、そんなことを考えていた時、いきなり大きな叫び
声が聞こえた。
僕はびっくりして、声のする方に駆けつけようとしたが、その前に、その声の
主、つまりアスカがリビングに飛び込んできた。

「な、何なのよ、アンタ!!」
「ア、アスカ・・・・どうしたの?」

アスカは血相変えて飛び込んできたと思ったら、大声で僕に怒鳴り付ける。し
かも、何だか唇当たりを押さえて・・・・
僕は訳がわからずに、アスカに尋ねた。すると、アスカは更に大きな声で僕を
叱り飛ばした。

「ど、どうしてアンタが起こしに来なかったのよ!?ええっ!?」
「あ、そ、それは、綾波が・・・・」
「ア、アタシはてっきりアンタだと思って・・・・」
「ぼ、僕だと思って?」
「キ、キスしちゃったじゃないのよ、レイに!!」
「ええっ!!ほ、本当!?」
「ほんともほんとよ!!目も完全に開いてない状態で寝ぼけてたから・・・・
ううっ、気持ち悪い・・・・」

アスカはいかにも気色悪いというような様子で顔をしかめている。ま、まあ、
アスカが僕と間違って綾波にキスしてしまったというならば、そう感じても不
思議ではないかもしれない。しかし、アスカもアスカだ。起き抜けにいきなり
僕にキスしようとしていたなんて・・・・綾波のおかげで助かったと言えるの
ではないだろうか。
と、その時、アスカの後ろからアスカと同じように唇を押さえた綾波が姿を現
した。

「さ、災難だったね、綾波・・・・」

僕が苦笑いを浮かべながら綾波にそう言うと、綾波は唇を手の平で押さえたま
ま、僕にこう応えた。

「・・・・そんなことないわ。」

すると、それを耳に入れたアスカが、勢いよく振り向いて綾波に叫ぶ。

「ア、アンタ、それどういうことよ!?アタシにキスされて災難じゃないって
ことは・・・・」
「・・・・違うわ。私、これくらい予期していたから・・・・」
「な、なんですって!?」
「碇君の唇を守るためなら、私の唇くらい犠牲にしても構わないから・・・・」

綾波の言葉は、ショッキングであった。
まさか、僕がアスカを起こしに行った場合、キスされるであろうことを予想し
て、自分から起こしに行くことを志願するとは・・・・しかし、それにしても
綾波の洞察力は凄まじい。まあ、後から考えてみれば、そういう事も有り得た
のだと思えるのだが、事前に察知するとは恐れ入ってしまった。
僕が呆れるというよりも感心し切っていると、アスカはそんな綾波に対して高
ぶる感情を隠し切れぬ様子で言った。

「アンタ、アタシがシンジにキスするのが嫌で、アタシを起こしに来たんじゃ
ないでしょうね!?」
「・・・・その通りよ。」
「な、なんでそんなことすんのよ!?」
「だって、あなたにこれ以上、碇君にキスさせたくないもの・・・・」
「余計なお世話よ!!アタシとシンジがなにをしようと、アンタには関係無い
ことでしょ!?」
「・・・・・どうしてそういう事言うの?」
「そうでしょ!?違う!?アタシは以前、シンジにアンタにキスの一つでもし
てやれって言ったことだってあるのよ。だから、アタシはアンタとシンジが何
をしようと、気にしないよう努力するし、反対にアタシとシンジが何をしよう
と、干渉されたくない訳。」
「・・・・でも、それはあなたの考え方にすぎないわ。私とあなたは同じじゃ
ない。だから、私は私のしたいようにするの。碇君が私にそうした私の方がい
いって言ってくれたから・・・・」

何だかきな臭い雰囲気になって来た。もしかして、綾波は今までかなり我慢し
て来たのではないだろうか?それが僕の言葉で取り払われて・・・今、暗雲垂
れ込めて来た。
そして、怒れるアスカは後ろの僕に向きあうと、大声で詰問する。

「アンタ、ほんとにレイにそんな事言ったの!?」
「あ、う、うん・・・・」
「どういうことよ!?」
「いや、アスカの真似はよくないから、自分らしさを出した方がいいって言っ
たんだけど・・・・」
「そ、そう・・・・」

アスカは少し怒りを収めた。やはり、先ほど自分が言った言葉について全面的
に怒る訳にはいかないのだろう。僕の綾波に言った言葉は、アスカの言葉より
生じているのは明白だったから・・・・
しかし、アスカもだからと言って黙っている訳にはいかなかった。

「でも、アンタももうちょっと注意して言いなさいよね!!これじゃあ、自分
勝手にしてるだけじゃないの!!」
「う・・・・」
「自分らしく振る舞うって言う事と、人のことを考えないって言う事は違うの
よ!!アンタならそのくらいわかってると思ってたけど!!」
「わ、わかってはいるんだけど・・・一応・・・・」
「じゃあ、レイに言い聞かせなさいよ!!って、アンタじゃ駄目ね、このアタ
シが・・・・」

アスカはそう言うと、さっと身を翻して綾波の方を向き、僕に言うよりも一層
大きな声で綾波に言った。

「アンタ、自分らしさと自分勝手とは違うのよ!!わかってんの!?」

しかし、そんなアスカの言葉も、綾波には少しも心に響いた様子も無く、いつ
ものように淡々と言い返した。

「そうね。それが?」
「だー!!わかってんなら、もう少し考えなさいよ!!」
「・・・・あなたが碇君にキスをしないように努力すること、それが自分勝手
だとは思わないけど・・・・」
「ア、アンタねぇ・・・・」
「あなたに気を遣うことは、私が自分勝手にならないようにする事にはつなが
らないんじゃない?。」
「そ、それはまあ・・・・そうかもしれないけど・・・・」
「私は別に、あなたが嫌いだからこうしてる訳じゃないの。私以外の人間と碇
君がキスするなんて嫌だからこうしてるの。あなたは違う?」
「・・・・違わないわ。」
「でしょう?だから、私がこうしても、あなたに責める権利はないの。無論、
あなたが私と碇君の間を邪魔しても、私があなたを責める気はないわ。」

綾波がアスカに向かって強気な発言をすると、アスカもようやく綾波に納得し
たようで、不敵な笑みをもらすと綾波にこう言った。

「オーケイ、わかったわ。つまり、アンタはアタシに気を遣われる存在じゃな
くって、あくまでもアタシとシンジを争うライバルとして存在したい訳ね?」
「そうよ。」
「じゃあ、そういうことならアタシもアンタに細かい気は遣わないわ。アタシ
も無下にアンタをいじめたりはしないけど、特にシンジに関しては容赦しない
わよ。アンタがシンジに引っ付いてることでもあったら、アタシは躊躇せずに
引っぺがすんだから。」
「それは私も同じよ。」
「アタシはアンタを世間並みの女の子にしてやろうと思って教育してたんだけ
ど、余計なお世話だったみたいね。アンタはもう十分、普通の女よ。少なくと
も、恋の駆け引きに関してはね。」
「ありがとう、そう言ってくれてうれしいわ。」

綾波はアスカに感謝して見せたものの、表情には一片たりともそんなものは浮
かんでいなかった。そしてアスカも、綾波に向かって微笑みの一つも見せるこ
となく、ひたすら睨むでもない微妙な視線を投げ掛け続けていた。
しかし、アスカは急に綾波に背を向けて僕の方を見ると、そのままの少しおっ
かない表情で僕にこう言った。

「口直しよ、シンジ。」
「へ?」
「朝から変なものを味合わされたもんだから・・・・アンタがその責任を取る
のよ。」
「って・・・・」
「そう、おはようのキスよ。毎朝恒例でしょ?」
「で、でも・・・・」

僕がそう言って、後ろの綾波の方をちらりと見やる。すると、アスカはそんな
僕に向かってぴしゃりと言った。

「レイは関係無いでしょ!!」
「そ、そんな事言っても・・・・」
「アンタはアタシに恥をかかせるつもり!?」
「そ、そういう訳じゃないよ。」
「じゃあ、さっさとなさい。」

アスカはどうあっても僕に逃げを許さないらしい。しかし、僕はこんな風なキ
スはしたくなかった。まるで綾波に見せ付けるためだけのような・・・もっと
キスするにはムードとかそういうものが必要不可欠だろう。それに、今のアス
カの顔は、いい顔とは言い難い。僕の嫌いなタイプの顔だ。そう、まるで、昔
のアスカを思い出させるような、追いつめられたような表情・・・・
本当にアスカはここでキスしないと駄目なのだろうか?
昨日の夜中、アスカの部屋で二人でしたようなキス、ああいうキスならともか
く、こんなお互いを傷付け合うようなキスなんて・・・するべきでないと思っ
た。こんなのは綾波だけでなく、僕もアスカもいい気分はしないだろうに・・・・

僕はそう思うと、アスカに一歩近付いた。それを見たアスカは、僕に向かって
言い放つ。

「ようやく優柔不断のアンタも決心したようね。レイが見てるからって、レイ
がアンタのことが好きだって、アンタはアタシにだけキスをしてればいいのよ・・・・」
「・・・・」

僕はそんなアスカに言葉を返さない。ただ、アスカの両肩に手をかけただけだ。

「碇君・・・・」

綾波の声が聞こえた。もしかしたら綾波が止めに入るかもしれない。が、今だ
けは僕を信じていて欲しかった。僕がこんなキスを受け入れる人間ではないと
言う事を・・・・

「アスカ・・・・」

僕はそうひとことつぶやくと、いきなりアスカを抱き締めた。キスのための抱
擁ではなく、アスカの胸の中に包み込むようにして・・・・

「シ、シンジ・・・・」

アスカは驚いて僕の胸の中で声をあげる。そして僕はそんなアスカに向かって、
やさしく言い聞かせた。

「こんなのやめようよ、アスカ・・・・何も・・・何も生み出さないよ、こう
いうのは・・・・」
「・・・・・」
「キスって、人に見せ付けるためにするものなの?僕は違うと思うな。だから・・・
だから僕は、ここで今、アスカにキスはしない。アスカなら、きっと僕の気持
ち、わかってくれると思うけど・・・・」
「・・・・・」
「僕がキスしないのは、綾波が見てるからじゃない。僕がキスしたくないから、
キスしないんだ。今のアスカは、とてもキスしたくなるようなアスカじゃない
よ。僕のアスカは・・・・もっときれいな笑顔を見せるアスカなんだから・・・」
「・・・・・・・シンジ・・・・」
「綾波にキスを見せ付けたって、何の特にもならないだろ?はっきり言って、
綾波を傷つけるだけだよ。それ以外は何にも無い。虚しい行為にすぎないんだ
よ。」
「・・・・・」
「だからアスカ、こういうのはやめて欲しい。こんなのはアスカをおとしめる
以外、何の意味も無いよ。アスカはこんなことしなくても、十分僕がキスした
くなるくらいに魅力的な女の子なんだから・・・・」

僕はそれだけ言うと、アスカを抱き締めるのをやめて、身体を起こしてやった。

「・・・ごめんなさい、ごめんなさい、シンジ・・・・アタシ・・・・」

うつむいていたアスカは、そう言って顔を上げた。
その時見たアスカの目には、うっすらと涙が浮かんで見えた。

「わかってくれればそれでいいんだよ。わかってくれれば・・・・」

僕はアスカを慰めるように、やさしく声をかけた。すると、再びアスカは僕の
胸に崩れ落ちるようにもたれかかった。
僕はそんなアスカをやさしく抱き締めてやる。まるでアスカを守ってやるよう
にして・・・・

自然と僕の視線もアスカに向いていた。
アスカは小さくなって僕に胸の中にいた。こういうアスカは弱々しくはかなげ
だけれど、さっきまでのアスカよりもはるかに安心してみていられた。だから
僕は少し気を緩めて顔を上げた。
するとそこには、綾波の姿が見えた。綾波は静かな目で、僕のことを見つめて
いた。それは、僕と視線が合った時にも変わらなかった。こういう時の綾波は、
どういう心境なのか、いまいちよくわからない。だから僕は少し不安になった。
が、そんな時、綾波が僕に微笑みかけてくれた。

綾波は、僕がした事を受け入れてくれたんだ・・・・

僕はそう思うと、何だかうれしくなって、綾波にそっと微笑みを返した。
すると、綾波もそのままやさしい微笑みを返してくれる。
その時、僕はそんな綾波の微笑みが、いつも以上に綺麗に感じた。
アスカの瞳に見た、一筋の涙と共に・・・・


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