私立第三新東京中学校

第百六十四話・喜びを表す形


「あ、綾波・・・・」

僕は綾波に何と言ってよいのかわからなかった。
果たして綾波に謝るべきことなのか否か・・・・難しいところだった。
しかし、取り敢えず毛布を掛けてくれたことにお礼を述べておかなければなら
なかった。

「と、とにかく・・・・毛布、ありがとう・・・・」
「・・・・・」

綾波の返事はなかった。しかし、その顔は怒っているようにも見えない。まあ、
綾波が怒ることなどそうはないので、一概に表情だけで物事を考えてしまうの
もまずいことなのかもしれなかった。
それでも、僕の見た限りでは、綾波はどう返事をしたらいいのかわからない状
態なのだろうと思った。

「と、取り敢えず、風邪をひかずに済んだよ・・・・」
「・・・・・」

綾波は沈黙を保ったままだ。
こういうのは一番つらい。はっきり言って、何らかの反応を示してくれた方が、
僕としても何とかしようがあるというのに・・・・
しかし、綾波の沈黙を責める資格など僕にはなかった。少なくとも、綾波に悪
いところは一つもなく、あるとすれば僕の方なのだから。

だが、謝ってよいものなのか・・・・?
僕は最近、謝ることに関しては敏感になっていた。だから、いつも反射的に謝
ろうとするのを押しとどめて、少し考えてしまう。アスカは細かいことに謝る
のも僕の個性だと言ってくれたが、そう開き直って謝りまくるのはよいことだ
とはとても思えない。謝ることについて考えることは、僕にとって必要なのだ。
では、今回の場合、僕は謝っていいのだろうか・・・?
少なくとも、アスカの部屋にいた事について謝るのはよくないことだと思う。
そのくらいは僕にだってわかる。僕が謝る点、それは・・・・綾波に先にお風
呂に入らせておいて、その後綾波が僕を呼びに来るはずだったのに、僕が自分
の部屋で待っていなかったことだ。そもそも綾波が僕を呼びに来る必要がなけ
れば、こんなことにはならなかったのだから・・・・

「そ、その、綾波・・・・」
「なに?」
「ご、ごめん。」
「・・・・どうして謝るの?」
「その・・・・綾波が僕を呼びに来てくれるはずだったのに、部屋にいなかっ
たから・・・・」

僕が済まなそうな顔をして綾波に謝ると、綾波はほとんど表情を変えた様子も
なく、僕にひとこと言った。

「そうね・・・・」
「え?」
「その事に関しては、碇君は悪かったわ。」
「う、うん・・・・」

綾波がそうはっきり僕が悪かったという事を断言するのはちょっと意外であっ
たので、僕は表情に驚きの色を隠せなかった。すると、そんな僕に向かって綾
波はこう言う。

「悪いことをしたら・・・・」
「え、な、何?」
「キス・・・・したらいいのよね・・・?」
「あ、そ、それはアスカの言う冗談みたいなもので・・・・」

僕は綾波が何を言いたいのかようやく理解出来て、綾波を止めようとした。し
かし、当の綾波はと言うと、思い切ったら人の言うことなど聞かないというと
ころがあるので、僕の虚しい言い訳などに耳も貸そうとはしなかった。

「だめ。もう決まったことだから・・・・」
「そ、そんな・・・・ビ、ビンタにしようよ、ね?」
「・・・・どうしてそういう事言うの?前はビンタよりもキスの方がいいって
言ってたのに・・・・」
「そ、それは、ほら、アスカと綾波のビンタは全然違うから・・・・」
「じゃあ、碇君は私があの人みたいに叩けるようになったら、キスの方がよく
なるの?」
「そ、そうじゃないんだけど・・・・困ったなあ・・・・」

綾波の態度にも困ったものだ。まるでどうしても僕とキスがしたいかのように
振る舞って・・・いや、実際のところそうなのだろう。でも、どうしたら綾波
は諦めてくれるのか?そこが問題だった。

「・・・私はどうすればいいの?」
「あ、その、な、何もしないのが一番なんじゃないかな?」
「でも、それじゃ罰の意味がないわ・・・・」
「あ、あんまりアスカみたいに罰にこだわる必要もないんじゃないかと思うけ
ど・・・・」
「でも・・・・・」
「僕が謝るだけじゃ・・・駄目?」
「・・・・・だめ。」
「困ったなあ・・・・」
「・・・・碇君は・・・・」
「なに?」
「碇君は、私のキスよりも、叩かれる方がいいんでしょう?」
「う、うん。」
「わかったわ。じゃあ・・・・」

綾波はそう言うと、少し僕に近寄った。
僕はそんな綾波の決意に満ちた表情から、僕のことを引っぱたくつもりになっ
たのだと思って、やや身体を強張らせて待ち受けた。以前の綾波のビンタくら
いなら、僕もそう恐れる必要はなかったのだが、何せ先程アスカみたいに強力
なビンタ云々と言う話が出たので、もしかしたら綾波も思いっきり僕を引っぱ
たくつもりなのかもしれないと思ったからだ。

「・・・行くわ、碇君。目をつぶって・・・・」
「・・・・」

僕は綾波に言われたようにしっかりと目を閉じた。綾波が僕を脅すというのも
珍しいことだったが、とにかく何だか今の綾波には迫力がある。僕は心構えを
新たにして、痛みに耐えられるよう、拳を握り締めた。
しかし・・・・

「んっ!!」

痛みの代わりに来たものは・・・・柔らかな感触だった。
それはもちろん、綾波の唇の感触だろう。僕はそうと悟ると、反射的に身を引
こうとしたが、その前に綾波に抱きかかえられて、僕の身体は逃げ場を失った。
そして、僕は綾波のキスを受けたまま、仕方なく解放されるまで待つ事にした。

「・・・・ひ、ひどいや、綾波・・・・」

ようやく綾波から解放された僕は、綾波に向かってそう言った。すると綾波は、
少しふてくされている僕に向かって応えた。

「何が?」
「ぼ、僕を騙すなんて・・・・」
「私はひとことも、碇君を叩くなんて言ってないわ。」
「で、でも・・・・」
「私が、碇君を叩けると思う?あの人みたいに・・・・」
「そ、それはそうだけど・・・・」
「だから、私にはキスしかないの。碇君は一人で思い込んでいただけ。」
「ううう・・・・」
「それに、碇君には罰が必要だったし・・・・」
「・・・・」

僕は完全に綾波にやり込められてしまって、何も言い返すことが出来なかった。
しかし、まさかあの綾波がこんなアスカみたいな手口を使うなんて・・・・一
緒に住むと言う事は、本当に恐ろしいことだ。綾波はアスカに感化されはじめ
て来ているし、これから僕はどうしたらいいんだろう。アスカ一人だけでも、
なかなか対処し切れるものではないのに、綾波までアスカみたいになったら・・・

僕はそう思いながら、未来に思いを馳せてうなだれていた。
すると、そんな僕に向かって綾波がこう言ってきた。

「・・・・ごめんなさい、碇君・・・私、やっぱりやりすぎちゃったみたいで・・・・」
「・・・綾波?」
「私、あの人みたいになりたくて・・・・碇君の好きな、あの人みたいに・・・
だから私、ちょっとあの人のやり方を真似てみて・・・・」
「そ、そうだったんだ・・・・」
「碇君はこういうの、喜んでくれると思ってたんだけど、そうじゃないみたい
だし・・・・」
「・・・・い、いや、綾波は悪くないよ。悪かったのは僕の方なんだから・・・」
「碇君・・・・怒ってない?」
「もちろん。」
「・・・よかった・・・・」
「で、でも、綾波はアスカを真似する必要はないと思うよ。」
「どうして?」
「綾波は綾波で、アスカはアスカなんだから。」
「でも・・・・」
「それに、アスカみたいなのが二人もいたら、僕だって疲れちゃうよ。だから、
綾波は今のままが一番だと思う。僕は今の綾波が好きなんだし・・・・」
「碇君・・・・」
「だから、普通に自然に振る舞いなよ。それが一番だと思うよ。」
「・・・・うん・・・・」

僕はそう綾波に言い聞かせると、台所の方に意識を戻してこう言った。

「あ、お鍋がふきそう。じゃあ、そういうことだから・・・・」
「・・・・」

僕はそれだけ言うと、ゆでたまごの様子を見に綾波に背を向け、台所に向かっ
た。

「・・・・もう少し・・・・みたいだな。」

ゆでたまごは、もう少し時間がかかりそうだった。
僕は誰に聞かせるでもなく、そう一言つぶやくと、少し先程の自分の言葉を考
えてみた・・・・

自然に振る舞う・・・・
簡単なようで難しい。自然に振る舞うと言う事は、本能のままに動くと言う事
ではなくて、無理をしない、自分を偽らないと言う事なのだろうが・・・・無
理をしないで、人に成長は有り得るのだろうか?
無理をして頑張るからこそ、見返りはあるというもので・・・だから、綾波が
アスカのようになりたくて、それを真似しているということは、綾波なりの努
力の形であり、それを僕が止めることはいけないことなのではないだろうか?
僕が綾波にアスカの真似をするなと言う事は、僕が今のままの綾波の方がいい
と思っているからというだけであって、それは僕のエゴでしかない。僕にそう
言う権利など存在しないのだ。
しかし、だからと言って、黙っている訳にも・・・・そもそも自分の考えを述
べると言う事は、悪いことではないはずだ。それは人の意見であり、参考にす
るものなのだから。だから人はそれと自分の意見とを照らし合わせ、組み合わ
せて、自分なりの結論を出す。それが本来の有るべき姿だろう。
だが、綾波にそれを当てはめていいのだろうか?はっきり言って、僕の言葉が
綾波に与える影響力というのはかなりのものであるといえるだろう。だから、
僕は部外者に回るべきであって、余計な口出しをすべきではないのだが・・・
きっと綾波は僕がそうなることを望んではいないだろう。僕が綾波から離れて
いくことは、綾波に悲しみしかもたらさない。だから僕は綾波に側にいるし、
話し掛けもする。でも・・・・

「わっ!!」

いきなり、後ろから誰かに抱き付かれて、僕は声を上げた。そして、振り向い
てみると、綾波の顔が僕の肩に乗っていた。

「碇君・・・・」
「あ、綾波、どうしたの、急に!?」
「碇君が私に自然になれって言ってくれたから・・・・だから、こうしてるの。」
「そ、そう・・・でも・・・・・」

僕が綾波のした事に呆気に取られていると、綾波は僕の肩越しに話し続けた。

「碇君が、あの人みたいな私よりも、本当の私が好きだって言ってくれてうれ
しかった。だから・・・・」
「綾波・・・・」
「これが私の、私のままの自然な気持ち。私は今、こうしたいからこうしてる
の。誰の真似でもなく、私自身の心で・・・・」
「・・・・・」
「・・・喜びを表す形、これが私の形。だから碇君にも、私の形を受け入れて
欲しい。碇君の困るようなことは絶対にしないから・・・・だからこのままこ
うして・・・・」
「・・・・」

何だか僕は、うれしかった。
綾波がこうしたということにでなく、綾波が僕の言葉を変に捉えることもなく、
ありのままの自分を出そうとしてくれたことについて・・・・
僕が綾波に言ったことは、余計なお世話だったかもしれない。でも、やっぱり
人真似をするよりも、自然な方がいいと僕は思っていた。だから僕はそんな綾
波に向かって、前を向いたまま小さくこう言った。

「・・・・このゆでたまごがゆで上がるまで・・・・だからね・・・・」
「・・・ありがとう、碇君・・・・・」

それ以上、二人の間には言葉はなかった。
ただ、触れ合うぬくもりだけが存在していたのだ・・・・


続きを読む

戻る