私立第三新東京中学校

第百六十一話・気持ちの動くままに


「ああ、ありがとう、シンジ君。」

僕が野菜炒めを仕上げてミサトさん達のところに持っていくと、加持さんが僕
にお礼を言ってくれた。

「いえ、何だか適当なものしかお出し出来ないで・・・・」
「そんなことないさ。何もなくて当然のところだったんだから・・・・」
「でも・・・・」
「それより、もうシンジ君達は葛城に付き合わされる事はないよ。後は俺達で
引き受けるから・・・・」

僕は加持さんのありがたい申し出に喜びの色を隠し切れずに、加持さんに聞き
返した。

「そ、そうですか?」
「ああ。中学生が酒のを飲むのはやっぱりまずいからな。俺達は一応教師なん
だし、それらしい格好も取り繕わないと・・・・」
「ですね。」

僕は何だか加持さんの言い方に心を和まされて、笑みをもらしながら肯定した。

「だから、後は俺達に任せて、風呂にでも入って寝るといい。挨拶は無用だか
ら。」
「わかりました。じゃあ、これで僕達は失礼させていただきます。」

僕は加持さんにそう言うと、後ろに控えていた綾波に声をかけた。

「じゃあ、綾波、そういう事だから、自分達の部屋に戻ろう。」
「うん、碇君・・・・」

こうして、僕と綾波は賑やかなリビングを離れ、廊下に出た。
綾波は家に帰ってからずっと僕の側にいたのだが、それとは対照的に、アスカ
は一度も僕達の前に顔を見せなかった。僕はそれを少し心配していたのだが、
きっと僕が来るのを待っているのだろうと思って、気にしないように努めた。

「ところで綾波?」
「何、碇君?」
「指、切ったとこ大丈夫?」

僕がそう尋ねると、綾波は急に顔を赤くして僕に応えた。

「うん・・・碇君が口で手当してくれたから・・・・」
「あ、ご、ごめん。あの後何もしてあげられないで。」
「ううん、あれでもう、血は完全に止まったし、それにそれほど深い傷でもな
かったから・・・」
「そ、そう?僕、何だか気が動転しちゃってて・・・・」
「碇君の処置は完璧だったわ。ありがとう、碇君。」
「い、いや・・・・とにかく大した事なくてよかった。でも、お酒を飲んだ時
は血が止まりにくいって言うから、後でちゃんとばんそうこうを貼っておいた
方がいいね。」
「うん・・・・」
「取り敢えずお風呂の準備をするから、綾波が先に入って。その後にばんそう
こうを貼ってあげるから・・・・」
「うん・・・・」
「じゃ、じゃあ、綾波は部屋で待ってて。いいね?」

僕はそう言い残すと、綾波を置いてお風呂場に向かった。

お風呂場は、僕がこまめに掃除をしているので、比較的清潔なところだ。しか
し、それでもしけっぽいのだけは免れようもなく、あまりお風呂に入る時以外
に居たい場所ではない。だから、僕は数ある掃除の中でも、お風呂掃除が一番
嫌いだった。まあ、嫌いとは言っても、やらなければならない義務に手を抜く
ほど僕はいい加減な人間ではないので、他と変わらぬ熱意を以って、お風呂掃
除を実行していた。
今日もいつものようにお風呂のお湯を抜き、スポンジで軽く洗う。こういう慣
れた作業は、あまり頭を使わずに出来るからいい。僕は半ばぼーっとしたまま
お風呂掃除を終え、きれいな新しいお湯で浴槽を満たしはじめた。僕は風呂桶
がお湯でいっぱいになるまでの間、椅子に腰掛けて蛇口からお湯が出るさまを
ずっと眺めていた。それは無為のひとときであったが、何も考えない状態を作
った事で、かなり頭がすっきりして来た。
浴槽にお湯が満ち蛇口を閉める頃には、僕もかなりリフレッシュされていた。
そして、僕はお風呂の準備が出来たので、綾波を呼びに行った。

コンコン!!

綾波のいるミサトさんの部屋をノックする。すると、すぐに綾波が部屋から顔
を出した。

「碇君・・・・」
「お風呂の準備、出来たよ。」
「・・・ありがとう。」
「じゃあ、あがったら呼んでね。ゆっくり入ってていいから。」

僕はそれだけ言うと、綾波に背を向けてすたすたと自分の部屋に戻って行った。

「ふぅ・・・・」

僕は自分の部屋に入ると、大きく息をつき、そしておもむろに服を脱ぎはじめ
た。長時間制服を着続けていた事もあって、何だかべたつくような気がしたの
だ。僕はベッドの上に脱いだ服をだらしなく放り投げると、タンスを開けて大
きめのTシャツと短パンを取りだして身につけた。そして、ベッドの上に置い
た服を今度は下に落っことして、代わりに自分がベッドに横になった。

何だか疲れた一日だった。いろんな事があって・・・・でも、まだ終わりでは
なかった。アスカの一件が残っていたのだ。このまま今日を終えてしまっては、
何だかしこりが残る。いや、しこりが残るどころの話ではないだろう。僕は慌
てて身体を起こすと、部屋を出てアスカのところへ向かった。

コンコン・・・・

僕はアスカの部屋のドアを控えめにノックする。僕はすぐにアスカに部屋に行
かなかったから、結構引け目を感じて堂々と訪問する訳にはいかなかったのだ。
しかし、小さすぎたのか中からは何の返事もない。仕方なく僕はアスカを刺激
するという危険も顧みずに、今度は大きめにノックをした。

コンコン!!

・・・・が、今度もまた、アスカからの返事はなかった。僕はそこにアスカが
居る事はわかっていたので、恐る恐るドアのノブを回してみた。

「アスカ・・・・入るよ・・・・」

僕はまるで泥棒が忍び込む時のような感じに、アスカの部屋の中に滑り込んで
いった。そして、電気も点けずに薄暗い部屋の中を見渡してみる。部屋の暗さ
に目が慣れていない僕は、なかなかこの目でアスカを確認することは出来なか
ったが、まもなく目が慣れてくると、ようやくアスカの姿を見出すことが出来
た。

「・・・・アスカ・・・寝ちゃったんだ・・・・・」

僕がみたアスカは、ベッドの上にうつ伏せになって眠り込んでいた。きっとア
スカはベッドの上に横になって僕が来るのを待っていたのだろうが、僕がなか
なか来ないのでつい眠ってしまったんだろう。
しかし、僕はわざわざアスカを起こす気にはなれなかった。アスカも相当お酒
を飲んでいたし、このままこうして寝かせておくのが自然だと思われたからだ。
だから、僕はアスカが風邪をひかないようにと、部屋の隅に置いてあった毛布
を手に取ると、アスカを起こしてしまわないようにそっと上から掛けてやった。
そして僕は、アスカの眠りを見守るために、ベッドの真横に腰を下ろし、あぐ
らをかいた。すると、ちょうどうつ伏せになって顔だけ横を向いているアスカ
の顔と、僕の顔が近くにあるような形になった。

そして、僕は間近に見えるアスカの顔を見つめる。
アスカはなかなか待っても来ない僕の事を怒っていたはずなのに、その寝顔は
なぜか穏やかだった。口を微かに開きながら、小さな寝息を立てているアスカ
の顔は、本当に幸せそうなものにしか見えなかった。
しかし、寝顔は幸せそのものでも、心の中にはつらい事や悲しい事もたくさん
ある。僕にはその事がよくわかっていた。だから、表面上のものにとらわれて
安心しようなどとは全く思わなかった。
だが、つらい事や悲しい事もあるけれど、反対にうれしいことや楽しい事もあ
ることも、僕はよく知っていた。でなければ、こんな安らかな寝顔を見せる事
など出来ようはずもなかったからだ。
だから僕はこの幸せそうなアスカの寝顔を、いい意味で捉えたい。幸不幸、交
じり合っているアスカの中は、幸福の方が強いから、こういう顔を見せられる
んだと・・・・
それは楽観的すぎる考えかもしれない。でも、今はそう思いたかった。なぜな
ら、このアスカの幸せそうな顔を、否定したくはなかったからだ・・・・

僕はそんなことを考えながら、じっとアスカの顔を見つめていた。すると、ア
スカが少し身体を動かして、片腕が毛布からはみ出してベッドから滑り落ちて
来た。僕はそんなアスカの手を、元に戻してあげようかどうしようかと迷った
が、少し考えてから軽く微笑みを浮かべると、アスカのはみ出した手を、そっ
と握ってあげた。
何だか感情に流された行為のような気もしたが、今はそれでいいと僕は思った。
そして、僕はそっと包み込むようにしてアスカの手を握り締めると、そのまま
そっと目を閉じた。こうすると、アスカの手の平のぬくもりが、アスカの血液
の流れる生命の鼓動が伝わってくるような気がした。

きっとアスカが起きて、僕の事を見たら、ごまかし行為だって言って怒るだろ
うな・・・・

僕は心の中でそう思いながらも、やめる気はさらさらなかった。これがアスカ
への謝罪の印にならない事は解っていたし、そういうつもりもなかった。
ただ、僕はこうしたかったのだ。
もしかすると、そういう感情を大事にする事が、大切な事なのかもしれない。
物事を細かく考えるよりも、気持ちの動くままに流されて・・・・

僕はそういうのも悪くない、とアスカの手を握りながら改めてそう思った。
そしてそれが、僕がアスカに魅かれるところであると言う事も・・・

またアスカに教えられちゃったな・・・・

やっぱりアスカは凄い。言葉で何も言わなくとも、僕に大事な何かを教えてく
れる。だから、僕にはアスカが必要なのかもしれない。一人では人は成長出来
なくて、誰かパートナーを必要とするなら、やっぱり僕にはアスカしかいない。
僕がアスカに何をあげられるのか全くわからないけど、少なくとも僕にとって
アスカは、大事な存在なのだろう。だから、だから僕はこうして・・・・

そして、夜は更けていった・・・・・・


続きを読む

戻る