私立第三新東京中学校
第百六十話・酔いと切り傷
僕は今、車の中にいる。
しかし、車とは言ってもミサトさんの車ではない。僕が今乗っているのは、日
向さんの車だ。ミサトさんは、運転代行サービスの代わりに、ミサトさんの言
う「しもべ」の二人、日向さんと青葉さんを呼び付けたのであった。
二人とも、まだミサトさんの権威を認めているのか、それとも個人的になにか
あるのか、詳しい事はよくわからなかったが、そういう事を聞くのも野暮だと
思われた。ただ、二人とも加持さんの時のように猛スピードでここに駆けつけ
たのをみると、やはりミサトさんが恐いというのは事実だろう。特に、酔っぱ
らった時のミサトさんは・・・・
日向さんの車に乗っているのは、運転している日向さんの他に、僕と加持さん
がいる。女性陣は青葉さんが運転するミサトさんの車だ。日向さんも青葉さん
も、酔っぱらった男二人を乗せるよりも、華やかな女性を乗せて運転した方が
いいと言う事で、少し言葉のやり取りがあったが、日向さんには運の悪い事に、
乗って来たのは青葉さんの車ではなく日向さんの車であったので、日向さんが
自分の車を運転せざるをえなかったのだ。
そういう事で、日向さんは運転しながらも不満顔だ。まあ、僕達に文句を言う
という事は全く無いのだが、さすがに表情には出てしまうらしく、誰が見ても
日向さんが今の状況に不服であると言う事は一目瞭然であった。
「何だか申し訳ありませんでした、日向さん・・・・」
僕は自分達の横暴さを日向さんに押し付けてしまったような気がしていたので、
日向さんに謝って見せた。すると日向さんは割と明るい声で僕に応えてくれた。
「シンジ君が気にする事じゃないよ。葛城先生のお役に立てればうれしいし・・・・」
「でも、こんなところにいきなり呼び付けられてしまって・・・・迷惑だった
でしょう?」
僕がそう尋ねると、日向さんも少し本心をあらわにして答えた。
「まあ、迷惑か迷惑じゃないかって聞かれたら、迷惑なんだろうけど、これも
いつもの事だからね・・・・」
「そ、そうなんですか!?」
「ああ。葛城先生が飲みに行って、俺と青葉が迎えに呼び出されるなんてよく
ある事だから・・・・」
「そ、そうだったんですか・・・・」
僕は何だか少し日向さんと青葉さんがかわいそうに感じてしまった。すると、
日向さんがため息をつきながらこうつぶやいた。
「しかし、俺もたまには飲む方に誘われてみたいもんだけどなぁ・・・・」
確かにそうだった。そして、その飲む方に誘われた「しもべ」はというと・・・
大人しく後部座席で黙っていた。やはり加持さんも、ここで自分が何か言えば、
問題を招くだけだと言う事を重々承知しているのかもしれない。僕も、加持さ
んのように黙っていてもよかったのだが、僕は加持さんとは違って助手席に座
っていたと言う事もあって、今回は日向さんと話でもしようという気になった
のであった。
「日向さんはミサトさんとお酒を飲んだ事ないんですか?」
「・・・あるよ、何度か・・・・」
「じゃあ、ミサトさんとお酒を飲むって言う事が、どういう事かよくわかって
いますよね?」
「ああ、もちろん。」
「ならどうして・・・・?」
「男にはいろいろあるんだよ。シンジ君だってわかるだろう?」
「・・・・え、ええ・・・・」
僕は日向さんが何を言いたいのかはよくわからなかったのだが、男にはいろい
ろあるという事は確かだったので、僕も取り敢えず納得した体を装って、余計
な詮索をする事はやめにした。
きっと日向さんにとっても、今は話し掛けられたくない心境なんだろう。そう
いう気持ちがわからずにいい加減な気持ちで話し掛けてしまった自分に、僕は
少し反省した。そして、僕はもう何も話し掛けずに、少し自分の事について考
える事にした。
とにかく、アスカとは仲直り出来ないままに、こうして離れ離れになってしま
った。これがどういう結果になるのか・・・・僕にはわからなかった。ただ、
僕とアスカ、それぞれにゆっくり考える時間を与えたという事だけはわかって
いた。
アスカは僕の事、どう考えているんだろう?
その事は、僕の興味を引いた。が、僕はいまだにこういう時のアスカの心理を
完全に把握出来ていなかったし、そもそも人が人の気持ちなどを知るのは無理
というものだ。でも、知るのは無理でも考えてみる事なら出来る。だから、僕
はアスカの気持ちについて、少し考えてみようと思った。
が・・・・何だか頭が上手く働かない。これもお酒のせいなのだろうか?
とにかくアスカがコップを投げつけた事によって、いくらか発散し、また、事
態を冷静に考えるゆとりが出来てきたのだろう。でも、アスカは僕を見てはく
れなかった。だから・・・・・
「シンジ君、シンジ君!!着いたよ!!」
「・・・・あ、日向さん・・・・」
僕は考えている途中で、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。何だか少し
恥ずかしくなって、慌てて日向さんに謝った。
「す、すいませんでした、勝手に眠っちゃって・・・・」
「仕方ないよ。まだ中学生なんだから・・・・」
「そ、そう言っていただけると助かります。」
「とにかく降りよう。話はそれからだ。」
「は、はい。」
僕が日向さんに言われたように、急いで日向さんの車から降りた。既に加持さ
んは車から降りていて、僕に向かってこう言った。
「熟睡だったな、シンジ君。」
「お、お恥ずかしいです。」
「いや、いびきをかかないだけマシさ。アルコールが入るといびきをかきやす
くなるから。」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。覚えておくといい。」
加持さんは僕に向かってそう言った。しかし、ようやく後から遅れてきたミサ
トさんの車の到着に気がついて、僕と加持さんの会話はこれで中断となった。
でも、アスカにどんな顔をすればいいんだろう?
僕には大きな問題だった。結局僕は考えをまとめるまもなく、眠り込んでしま
ったので、何の結論も出ていなかったのだ。はっきり言って、逃げ出してしま
いたくなるような心境だったのだが、そんなことは論外であった。だから僕は
アスカと逃げずに対面しなければならない。上手く言う事は出来なくとも、逃
げない勇気くらいは持ち合わせているつもりだった。
僕はまだドアの開かない車に向かって歩み寄った。すると、まるで僕に合わせ
るかのように車のドアも開いた。そして、僕とアスカは、顔を合わせた。
「ア、アスカ・・・あの・・・・・」
僕は言う言葉も定まらぬままに、アスカに声をかけていた。しかし、アスカは
そんな僕をじろりと睨み付けると、そっけなくこう言った。
「謝罪の言葉なら、あとでゆっくりきかせてもらうわ。」
アスカはそれだけ言うと、僕を置いて先に行ってしまった。しかし、アスカの
言葉は、僕をほっとさせるものであった。取り敢えず、アスカは僕の謝罪を受
けるつもりでいてくれるみたいだし、沈黙で応えられるよりも、アスカ自身か
ら言葉をかけてくれたと言う事は、格段の進歩と言えたからであった。
きっとアスカも、車の中で考えていたのだろう。しかし、結局僕はまた、アス
カに助けられる事になった。僕自身は何もしていなかったし、自分からアスカ
に謝る決心もつけることが出来なかったのだ。一方アスカは、僕に謝罪という
道を作ってくれて、僕に解決の方法を示してくれたのだ。
そこがアスカと僕の違いであり、僕が自分を情けなく思う所以であった。アス
カはとにかく膠着状態になる事を避け、僕との和解の道を切り開こうとした。
しかし、僕は細かい事に終始こだわって、解決を先送りにしたのだ。
もしかすると、僕は逃げるという言葉を、自分の都合のいい様に解釈していた
のかもしれない。僕のしている悪い事を全て「逃げる」という言葉の中に押し
込め、逃げないようにしようと頑張る自分を心地よく思っている。つまり、僕
のしている事など、自己満足にしかすぎないのだ。だから、問題の解決を目指
すより、逃げない事に重点が置かれているからうまく行かない。
そう考えてみると、あまり逃げる逃げないに意識するのはやめた方がいいよう
な気がする。僕の思考というのはやたらと現実味に欠けている気がするし、い
くら考えてみてもあまりいい方向に行ったためしがない。
それに対してアスカは立派だ。ちゃんと自分が何をすべきか把握している。そ
れはまあ、爆発する事もしょっちゅうあるが、ちゃんとそれを無駄にはせず、
いい方向にいつも持って行っている。自分で起こした問題は、必ず自分の手で
解決出来る能力がアスカにはあるのだ。しかし、アスカはどんな風に考えてそ
れをしているのか・・・・そこが気になるところだ。仲直りしたら、一度聞い
てみるのもいいかもしれない。
取り敢えず僕は自分の思考にけりをつけると、みんなの後に続いてエレベータ
ーに乗り込んだ。アスカは先に行ってしまっていたが、他はみんな一緒のエレ
ベーターに乗った。しかし、こうして狭苦しいところに閉じ込められると、酒
臭いにおいがかなりする。きっと僕も発しているのだろうが、自分ではよくわ
からない。ほんの数秒間の出来事だが、何だか少し気分が悪くなってしまった。
はっきり言って僕はもう、お酒は懲り懲りだ。
家には先にアスカが入っているので、玄関の鍵はあいている。
「ただいまー・・・・」
「おじゃましまーす・・・・」
何だか疲れきった連中が、情けない声を上げながら靴を脱いで玄関を上がる。
日向さんと青葉さんは酒宴に付き合わされた訳でもないのに、あまり元気があ
るとは言えない。日向さんの元気なさは一緒に車に乗っていたので何となく理
解出来たのだが、青葉さんの場合は・・・・あのミサトさんが一緒だからか。
僕には向こうの車での様子がなんとなくわかっただけに、青葉さんを哀れに思
った。
するとそんな考えを巡らせていた時、家の中に入るなりミサトさんが僕に言っ
た。
「シンちゃ〜ん、ビールとつまみ、よろしく〜!!」
「ま、まだ飲むんですか?」
「そうよー。お願いねー。」
「・・・・わかりました。ちょっと待っててくださいね。」
僕はもう、こういうミサトさんに逆らうつもりは全くなかった。ただ、呆れな
がら言われた用件をもくもくと果たすのみだ。
「シンジ君も大変だなぁ・・・・・」
青葉さんがそんなミサトさんに使われる僕を見て、そうつぶやいた。つぶやき
声と言うには、僕にも十分聞こえるほどの大きなものであったが、聞いた人間
は誰もその事についてそれ以上触れようとはしなかった。所謂、言っても無駄
という奴だからだ。
僕は取り敢えず冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを持てるだけ取り出すと、
テーブルの上に置いた。そして、何か適当につまみになりそうなものも取り出
してから、あったかい料理も作ろうと考えてまた冷蔵庫の中を物色する。ミサ
トさんだけならともかく、迷惑をかけてしまった日向さんと青葉さんもいるの
だから、お詫びの印にちゃんとしたものを作りたかったのだ。
「何にもないなぁ・・・・」
僕は冷蔵庫の中身の寂しさに声を漏らす。しかし、何にもなくても何とかする
のが僕の役目であるので、余った野菜と肉の切れ端を使って、野菜炒めでも作
る事にした。
まず先にフライパンを取り出し、火にかけておいてから手早く野菜を刻む・・・
のだったが、僕が野菜を刻もうとすると、隣にはちょこんとエプロンをした綾
波が立っていた。
「あ、綾波・・・・」
「手伝うわ、碇君。」
「あ、う、うん・・・・でも、大丈夫?お酒飲んでるし・・・」
「碇君も同じでしょ?大丈夫よ。」
「そ、そうかもしれないけど・・・・」
僕はまだ綾波の言葉を聞いても不安だった。傍目から見ても綾波は完全に酔っ
ぱらっていたから、包丁を使うには危なく思えたのだった。しかし、僕が止め
るまもなく綾波は包丁を握り、野菜を刻みはじめた。が・・・・不安は適中す
るもので、綾波は包丁で手を切ってしまったのだ。
「いたっ!!」
「あ、綾波、大丈夫!?」
「・・・・血・・・出ちゃった・・・・」
「ええと、ばんそうこう、ばんそうこう・・・・ああっ、無いや。アスカがよ
く指を切るから置いといたはずなのに・・・・っと、もういい!!」
綾波が怪我をした事と、ばんそうこうが見つからない事が、お酒で濁った頭を
更に動転させて、僕は後先考えずに綾波の手をつかむと、傷口を吸い上げた。
「・・・碇君・・・・」
綾波はびっくりして声を上げる。しかし、僕の耳には綾波のか細い声は響いて
こなかった。
僕の口の中に、綾波の血の味が広がる。血の味などいいものであるはずがなか
ったが、僕にはよくわからなかった。そして、あまり味覚を感じなくなったと
いう事実に驚き、間抜けにも野菜炒めがちゃんと作れるかと言う事を考えてい
た。
「碇君・・・・もう、いい・・・・」
綾波のその言葉で、僕は我に返った。
「あ、ごめん、綾波。つい・・・・」
「ううん、いいの。ありがとう、碇君。でも、もう血も止まったと思うから・・・」
「そ、そうだね。ごめん。」
「それより、フライパン・・・・」
「あ!!」
僕は綾波に指摘されて、慌ててガスを止めた。大事に至るほどではなく、少し
熱しすぎたという程度だったが、あまり慰められる事でもなかった。僕は少し
自分が恥ずかしくなって、そのままフライパンに油を引くと、適当に野菜をざ
くざく切って、肉と一緒に中に放り込んだ。
しかし、何だか混乱している。僕は野菜炒めを作りながら、お酒のせいでどこ
かおかしい自分を不思議に思っていた。こんな普通じゃない状態で、アスカに
きちんと謝ることが出来るのだろうか?僕にはあまり自信がなかった。忘れっ
ぽくなっているような気もするし・・・・
本当にお酒はよくないと、僕は心の底から思ったのだった・・・・
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