私立第三新東京中学校
第百五十九話・割られたコップ
アスカに唇を噛み付かれてからというもの、アスカは僕の方を見てくれようと
はしなかった。唇の出血はすぐに止まったが、何だか痛みは残っているような
気がした。それが傷の痛みなのか、それとも心の痛みなのかは、僕にはわから
なかったが・・・・
ざるそばを半分食べ終わった綾波は、黙ってそっと残りをアスカの方に差し出
した。アスカはそれに対してこっちを見ずにそれを手元に引き寄せると、静か
に食べはじめた。
見てみると、天丼はまだ残っていた。しかし、僕はもう、それにちょっかいを
出す気にはならなかった。
沈黙が続く。アスカはざるそばを食べ終わった後も、天丼には手をつけずに僕
に背を向けたままじっとしていた。綾波も何故か一言も口を利かずに、会話を
しているのはミサトさんと加持さんの二人だけとなった。しかし、こっちの話
は、会話として成立しているようなものではないので、僕は参加する気にもな
らなかった。下手に手を出せば、またお酒を飲まされるだけとわかっていたか
らだ。
綾波が何か話してくれればいいのに・・・・
僕はそう思っていた。僕はもはやアスカが僕に話し掛けてくれる事を当てには
していなかったので、ひたすら望みを綾波に託していた。僕から綾波に話し掛
けてもよかったのだが、アスカとキスをしたという引け目もあるし、何も無か
ったかのように振る舞うのもどうかと思われた。だから、僕は甘い事に綾波か
らの譲歩を期待していたのだ。
しかし、現実は綾波も何も言い出してはくれなかった。何を考えているのかわ
からないような顔をして、あらぬ方に視線を向けていた。
きっと僕が謝れば、全て丸く治まるのだろう。アスカに謝り、綾波にも謝り・・・
しかし、それでは今までの事なかれ主義の僕とは何一つ変わらない。一転して
頑なになるのもどうかと思われたが、そんな事を言っていては、いつまで経っ
ても僕は変わることが出来ない。
しかし、謝ってしまえば楽なのに、謝らないでいる事が何とつらい事か・・・・
やはり慣れない事をするのは難しい。そもそも、人に対して謝らないというの
が正しい道なのだろうか?いや、謝る時には謝り、自分が悪くないと思った時
には謝るべきではないのだ。ただ、自分が悪くないと思っているにもかかわら
ず、一時の平安を求めて謝ってしまう事がよくないと言っているのである。
では、今回の場合はどうなんだろう?
僕が綾波を気にしてアスカにキスをしたくないと言ったのは、悪い事だとはと
ても思えない。でも、キスを拒絶されたアスカがかっとなってああいうことを
するに及んだという事は僕にもわかっていた。そして同時にアスカは大きく傷
ついたのだと言う事も・・・・
しかし、アスカだって最近は綾波の事を考えるようになってくれたのだ。つい
さっきは綾波にキスしてやれとまで言ってくれたのに・・・・だから、アスカ
だって僕がどうしてこういう態度を取る事になったのかくらいは重々承知して
いるはずだ。
頭では解っている。しかし、心では解れない。
アスカのジレンマだった。
頭と心、どっちが強いのか?
それはもちろん、心に決まっている。
だから、アスカも頭で心を従わせることが出来ずに、爆発してしまったのだ。
でも、綾波を思うとあそこでキスは出来なかった。
しかし、アスカを思っていたなら・・・・アスカを思っていたなら、アスカを
傷つけたくないと思っているならば、綾波を傷つけてでもアスカにキスをすべ
きだったのではないだろうか?
だが、現実問題として、僕は綾波を傷つけてでもアスカを選択しようとまでは
思っていない。せいぜいどっちの方が好ましいかと聞かれれば、アスカを取る
だけだ。天秤にかければアスカ側に傾く。しかし、傾く、というだけであって、
その程度はというと、非常に微々たるものだろう。きっと僕だけでなく、アス
カも綾波もその事に気付いているであろう。だからこそ、難しいのである。
しかし、もしかするとアスカは、僕の採った態度が、アスカではなく綾波を選
択したからであると思い込んだのかもしれない。実際そういう事なのであるが、
アスカはもっと深刻にそれを受け止めて・・・・十分有り得る話だ。
そして綾波も僕の選択が、愛からではなく同情心によってであると言う事を、
察知していたのかもしれない。まあ、これは少し僕の考えすぎであるかもしれ
ないだろうが・・・・
しかし、人の心は難しい。どうしてこうもうまく行かないものなんだろう?
みんながみんな、よくなるように努力しているのに、心はすれ違うばかりだ。
でも、これが自然の成り行きなのかもしれない。すれ違いや誤解が多いから、
心から結ばれる人は少なく、貴重なものなのだろう。
僕はどうなのだろうか?この自然の悪戯を乗り越えて、誰かと本当に結ばれる
ことが出来るのであろうか?出来ればそうありたい。しかし、そのためには、
これからも乗り越えなければならない壁は数多いであろう。そして僕は、これ
からも頑張り続けなければならないのだ・・・・
「じゃあ、そろそろお開きにしようか?」
長い沈黙を破った声は、加持さんのものであった。僕が周囲に目を向けてみる
と、空になったビール瓶が並んでいるものの、取り敢えずアスカの天丼以外は
全てなくなったようだ。加持さんはこの時を狙っていたようで、ミサトさんに
けじめを付けさせようとしたのだろう。
僕は加持さんの言葉に少し元気付けられて、空元気を出して加持さんに続いた。
「ですね。もう散々飲み食いしましたし・・・・」
「ところで、どうやって帰るんだ、俺達は?」
「確かミサトさんは運転代行サービスを頼むとか言ってましたよ。」
「そうか・・・・」
加持さんは僕の言葉に何かありげな笑みを少しこぼすと、ミサトさんに向かっ
て言った。
「おい、葛城!!もう帰るぞ。車の手配を頼む。」
「・・・わかったわよぉ・・・・」
ミサトさんはだいぶお酒のまわった様子で立ち上がると、加持さんを呼び出し
た時のように電話を掛けに行った。
「きっとすぐに車は来ると思うよ。まあ、それまでゆっくりと話でもしようや。」
加持さんは僕に向かってそう言った。やはり加持さんも、何だかんだ言いなが
ら話し相手としては、アスカや綾波でなく、同性の僕を選ぶのだろう。何だか
そう思うと、僕も少しおかしく感じた。
「しかし、それにしてもお互い苦労させられるな。」
「え?」
「無理矢理酒を飲まされてさ。」
「あ、なるほど。」
「普通は何だか逆のような気もするが、ここにいる女性陣は強すぎるから・・・」
「・・・全くです。」
僕はいかにも、という顔をして大きくうなずいて応えた。
加持さんと僕は、同じ苦労を分かち合うものとして、なんだか連帯感のような
ものがあった。加持さんの苦労は僕もよくわかるし、加持さんも僕の苦労はよ
くわかっているのだろう。
「しかし、苦労させられるってわかっていても、一緒にいるんだから、俺も懲
りないよな・・・・」
「・・・・加持さんも・・・・ですか?」
「ああ。シンジ君も同じか・・・・」
「ですね。一人でいる方がずっと気楽なのはわかっていても、やっぱり一緒に
いたいんです。」
「・・・・一人でいるのは寂しいか・・・・」
「ええ。一人は寂しいです。」
「そうかもしれないな。だからもしかすると、俺達だけでなく、向こうの方で
も俺達に苦労させられてるって思ってるのかもしれないな。」
「・・・そうですね。きっとそうでしょう。」
「まあ、程度の違いはあるだろうけどな。」
加持さんは僕にそう言うと、笑って見せた。僕も加持さんの言いたいことがわ
かったので、思わず笑ってしまった。
すると、そこに電話を終えたミサトさんが戻ってきて、僕達に言った。
「なーに二人で楽しそうに笑ってんのよ?」
「ははは・・・男だけの話さ。」
「そうですよ、ミサトさん。」
ミサトさんの問い掛けに、僕も加持さんも笑いながら応えた。するとミサトさ
んも一層気になったようで、僕達に迫った。
「なによ、気になるじゃない。教えなさいよ。」
「駄目だな。これは男同士の秘密だから・・・・」
「残念ですね、ミサトさん。諦めてください。」
僕と加持さんが笑いながらミサトさんに教えないでいると、ミサトさんは矛先
を変えてアスカに尋ねた。
「アスカ、アンタは聞いてたんでしょ?教えなさいよ。」
すると、アスカは不機嫌さを露骨に表してミサトさんに怒鳴った。
「知らないわよ!!うるさいわね!!あっち行ってなさいよ!!」
酔いの回ったミサトさんの頭でも、アスカの様子が普通ではないという事くら
いはわかってたようで、アスカにはこれ以上何も言わずに綾波に向かって尋ね
た。
「・・・・じゃ、じゃあ、レイは?あなたなら教えてくれるわよね?」
しかし、ミサトさんの希望虚しく、綾波もすげなくミサトさんにこう言った。
「・・・碇君が秘密にしてるものを、私が言う訳にはいかないわ・・・・」
「そ、そう・・・・」
ミサトさんも綾波の事はよくわかっているので、綾波が絶対に言わないという
事を悟った。
「ねぇ、教えてよ。気になるじゃない・・・・ね?」
ミサトさんは僕と加持さんに向かって懇願するように尋ねた。別に僕達がしゃ
べっていた事は、それほど大した事ではなかった。しかし、何だかそう来られ
ると、却って言うのも面白くないというもので、僕はただにやにや笑っている
だけであった。そして、加持さんも同じみたいで、にやにや笑っている。
「秘密は秘密。な、シンジ君?」
「ええ、秘密ですからね。」
「そんな事言わないでさぁ・・・」
「どうする、シンジ君?教えてやるかい?」
「駄目ですね。何と言っても男同士の秘密ですから・・・・」
「だな。そういう訳だ、葛城。諦めてくれ。」
加持さんはミサトさんにそう言うと、声を上げて笑った。そして、僕もそんな
加持さんにつられて笑い声を上げる。
が、その時・・・・何かの割れる音がした。
「馬鹿みたいに笑ってんじゃないわよ!!アタシの気持ちも知らないで!!」
・・・・アスカだった。
そして割れた音は、アスカが投げつけたコップが立ち並ぶビール瓶のどれかに
当たって砕け散った音であった。
アスカはそれ以上何も言わなかった。そして、僕達も馬鹿笑いを止めた。
確かにアスカの言う通りだった。
僕はきっと、今の問題を忘れるために加持さんを利用して、笑ってごまかして
いたのだろう。そしてそれは快楽への逃げであり、アスカにとっては勘に障る
以外のなにものでもなかった。僕は背を向けているそんなアスカに向かって、
背中越しにひとこと謝った。
「・・・・ごめん、アスカ・・・・・」
しかし、アスカからは何の言葉も返っては来なかった・・・・・
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