私立第三新東京中学校
第百五十七話・生きる目的
「碇君・・・・」
綾波は、僕がアスカに親子丼を奪われたことに気付いて、心配そうな声をあげ
た。
「いや、大丈夫だから、綾波は気にしないで。どうせアスカの分もすぐに来る
だろうし、そうすれば返してもらえるだろうから・・・・」
「でも・・・・」
僕は苦笑いを浮かべながら綾波に応えるが、綾波は一向に心を安んじた様子は
なかった。僕はそんな綾波をどう説得しようかと思ったが、そんな時、都合の
いい事に店の人が注文の品を運んでたのだ。
「おまちどうさまでした。天丼と、ざるそばですね。」
僕はテーブルの上に置かれるのを見ながら、綾波に声を掛けた。
「ほら、来ただろ?だから綾波も心配いらないって。」
「うん・・・・」
確かにこの現実を見せられれば、顔に似合わず頑固者の綾波も、ようやく納得
して、自分の親子丼を食べはじめた。
これで取り敢えず綾波に手がかからなくなったので、僕は早速運ばれてきたも
のに手をつけようとした。が、僕は自分の親子丼を勝手に食べているアスカを
横目で見て、いつもの僕らしくもない、よからぬことを企んだ。それは、反対
に僕がアスカの天丼を食ってやろうということだった。
僕はアスカに気付かれぬように、さりげなく天丼の方に手を伸ばす。
「よし・・・・」
なんとか蓋にタッチすることが出来た。あとは、そのまま自分の手元に引っ張
ってくるだけだが・・・・
「いてっ!!」
僕のこそ泥の手は、見事にアスカに引っぱたかれてしまった。
「それはアタシの天丼よ、シンジ。」
「ううう・・・アスカだって僕の親子丼を食べてるだろ?なら、僕もアスカの
天丼を食べたっていいじゃないか。」
僕は開き直って、自分の本心をアスカにぶつけた。まあ、ぶつけたと言っても、
アスカが恐かったので、びくびくしながらであったが。
しかし、僕の理にかなったように思えるその言葉も、お酒の入ったアスカにか
かっては何の意味も為さず、一言で片付けられてしまった。
「・・・・それで?」
「だ、だから、僕にはアスカのその天丼を食べる資格があるんだ。」
「・・・・駄目ね。これはアタシのものだもの。アンタは先にざるそばを食べ
てなさいよ。そっちはちゃんと食べさせてあげるから。」
「・・・・」
いつものアスカならば、これを冗談と取っても構わないのであるが、今のアス
カには冗談では済まされない迫力のようなものがあった。そんなアスカの様子
を見た僕は、渋々言われた通りに、ざるそばを食べることにした。
ずるずるずる・・・・
いつもだったら小気味よく聞こえるそばをすする音も、今の僕には虚しいもの
に響く。しかし、嘆いても誰も聞いてくれないので、僕は独りでざるそばをす
すっていた。
「・・・碇君。」
僕は独りではなかった。綾波が僕の肩を叩いて、僕のことを呼んだ。
「・・・綾波・・・・なに?」
僕かいかにも「僕は不幸です」と言わんばかりの顔をしながら、顔を上げて綾
波を見た。すると綾波は僕に向かって自分の食べ掛けの丼を差し出すと、こう
言ってきた。
「・・・食べて、碇君。」
「・・・・・いいの?」
「うん。私はもう、十分これを食べたから・・・後は碇君が全部食べて。」
「あ、ありがとう、綾波。」
「ううん、私は碇君に喜んでもらえるだけで、それだけでうれしいから・・・」
・・・・かわいい。
僕は綾波を見て、純粋にそう思った。
やっぱり綾波は、アスカとは大違いだ。アスカは横暴だし、酒癖はミサトさん
より悪そうだし・・・・・でも、そう思っていても、ちゃんと頭では理解して
いても、なぜか僕はアスカを憎めなかったのだった。
僕は素直に綾波の好意を受け入れ、綾波の手から、差し出された丼を受け取っ
た。
「ありがとう、綾波。じゃあ、代わりに僕のざるそばを食べてよ。」
「・・・・いいの?」
綾波は、喜びを隠し切れない顔をして、小首をかしげながら僕に尋ねてきた。
僕はそんな綾波に、笑顔を振りまきながら、うなずいて答えた。
「もちろんだよ、綾波。あ、でも、半分は残しておいてね。」
「うん・・・・じゃあ、碇君は私のを全部食べちゃって。」
「え?それは悪いよ・・・・」
「私のは、もうあんまり残ってないから。だから碇君は気にしないで全部食べ
て。」
「・・・・わかったよ。じゃあ、遠慮なくいただきます。」
「うん。遠慮しないで食べて・・・・」
僕は綾波の言葉を受けて、自分のざるそばをそっと綾波の方に寄せると、綾波
の食べかけの親子丼を食べはじめた。
まず食べようとして最初に気がついたのだが、綾波は肉が嫌いなのに、鳥肉を
よけてはいないということであった。さすがに食べることは何とか出来たとし
ても、嫌いであったものを普通に食べることは無理なのではないかと思ってい
た。しかし綾波は、肉を別にすることなく、普通に食べていたのだ。僕にとっ
て、それは驚きであった。僕だったら、やっぱりそういうつもりはなくても、
知らず知らずのうちによけてしまっているであろうに・・・・
それは、綾波が単なる食わず嫌いだったのであって、実は食べてみたらおいし
かったから、気にすることなく食べたということなのかもしれない。しかし、
僕としては、それが逃げてばかりの僕とは違い、試練に真正面から立ち向かっ
て行くという、綾波の強さの現れであると思いたかった。
つるつるつる・・・・・
僕が箸を持ったまま考えにふけっていると、隣から上品にそばをすする音が聞
こえてきた。僕はそんな綾波を微笑ましく横目で眺めながら、ひとこと声を掛
けてみた。
「・・・どう、綾波?さるそばの感想は?」
僕がそう尋ねると、綾波はつゆの入った器と割り箸を手に持ったまま、僕の方
を向いて答えた。
「おいしいわ、碇君。」
「そう、よかった・・・・」
「やっぱり食べられない訳じゃないけど、私はこういうものの方が向いてるみ
たい・・・・」
綾波の言葉は、今の僕の考えを裏付けるものであった。僕はその事実に気がつ
くと、綾波にこう言った。
「・・・・綾波って、やっぱり強いね・・・・・」
「え・・・・?」
「いや、嫌いなものに真正面から立ち向かってさ。僕にはとても真似出来ない
ことだよ。」
僕がそう言うと、綾波は僕に静かに応えてくれた。
「・・・・私だって、以前の私なら、こんなことは出来なかったはず・・・・」
「でも、綾波は・・・・」
僕が反論しかけると、綾波は僕の言葉の続きを待たずに自分の話を続けた。
「私は、碇君のために強くなれるの。だから、嫌いなお肉も、頑張って食べた。
碇君がいなかったら、私はお肉なんて、絶対に食べられなかったと思う・・・・」
「綾波・・・・・」
それは確かかもしれない。嫌いなものに立ち向かうのに、何の目的もなしでは、
なかなかに実行するのは難しいであろう。普通は、嫌いなものを克服したいと
いう気持ちが、それを手助けするというのが普通だが、やはりそれ以上の何か
がないと、人の心は弱いので頑張ることが出来ない。
その、それ以上の何かというのは、大抵が人から強制されるということである。
何らかの枷をはめ、または後ろから追われることによって、逃げ場所がなくな
り、正面から立ち向かわざるをえないのである。しかし、自分からそういう環
境を作れる者はまれである。人はやはり、安楽を好む生き物なのである。だか
ら、人は互いに枷をはめ合うのだ。そうすることによって、嫌なことにも逃げ
ずに立ち向かうことが出来る。
しかし、人にとってどうでもいいこと、もしくは人の干渉を受けるようなこと
でないことに関しては、なかなかそう上手くも行かない。だから人は悩み、苦
しむのである。
でも、誰かのために、自分が強くなれるのであったら・・・・それ以上の力は
ないだろう。だからこそ、愛は偉大だとされる所以である。
自分のために、そして人のために。もしかしたら・・・・僕には生きる目的が
ないのだろうか?だからこんなに逃げてばかりいる。一生のものとは言えなく
とも、やはり人間には何か生きる目的のようなものが必要だ。
ほんの少し前の僕には、それがあったような気がする。つまり、それはアスカ
を立ち直らせることであり、綾波を人間らしくさせることである。
しかし、今は二人とも、僕が気にするような問題は何もない。アスカは完全に
昔以上のアスカになったような気がするし、綾波に関してはもうほとんど自然
と言ってもいい。アスカも僕に協力してくれると言ってはくれたが、もう今の
綾波には、意図的なことは何も必要ないであろう。ただ、生活を共にしていく
ことによって、どんどん物事を覚えていくはずである。
だから、僕には何も無くなってしまった。僕が目的として考えなくとも、二人
とも自分達でちゃんとやっていけるであろう。僕はそういう喪失感のようなも
のから、改めて自分の問題に目を向け始める余裕が出来たのだ。そして僕は、
考えてみると如何に自分が至らない人物であるかがわかった。みんな一生懸命
に生きているのに、僕一人だけがこそこそと逃げ回っている。自己嫌悪に陥り
つつも、いまだに逃げ続けているのだ。
もしかしたら、何か大事なこと、生きる目的を持たない人間は、全てこうなっ
てしまうのかもしれない。でも、そういうものは、自分から探すものでなく、
向こうの方からやってきて、改めてそれと気付くまでは何の意味も為さないで
あろう。だとすると、僕には何も対処の仕様がない。ただ、何かを待ち望むの
みだ。僕の心を大きく揺さ振るような、大事な何かを・・・・
しかし、待つだけとは言っても、やはり僕も開き直ることは出来ない。常に逃
げる自分を否定し続けるだろう。しかし、それは生きていくにはつらいことだ。
僕にはその事がよくわかっている。だから、僕には目的が必要だ。この虚無感
から僕を解放してくれるような、僕の心を強く揺さ振り、生命の炎を燃やして
くれるような、そんな何かを・・・・・
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