私立第三新東京中学校

第百五十六話・親子丼をめぐって


・・・・何だかぼーっとする。
しかし、まだ僕の思考は鮮明さを保っているように思える。こうして普通に物
事を考えられるし、周囲の状況も把握出来ているからだ。
だが、頭は割とはっきりしていたとしても、僕の身体がそれについてこれなく
なっているみたいだった。身体が重いというのもちょっと違うのだが、とにか
く反応が遅い。自分では普通に振る舞っているつもりなのだが、自分が思った
よりもワンテンポ動作が遅れている。それは視覚にも現れていて、試しに首を
動かしてみると、目に映る画像があとからやってくるようなのだ。僕は何だか
その感覚が面白くて、首を上下左右に動かしては、重い画像を楽しんでいたの
だ。
しかし、後で考えてみると、僕もよくそんな間抜けなお遊びにうつつを抜かし
ていたものだ。本当に、傍から見たらさぞかし僕の姿は奇異に映った事だろう。

そして今、僕はこうして変な遊びも止め、お酌をされている。はじめのころは、
お酌するテンポもかなりの速さだったが、今ではそれもゆっくりなものとなり、
僕も少し落着いている。
アスカは初めて食べたもつの煮込みが気に入ってしまったらしく、テーブルに
両肘を突きながら、いかにもだるそうな様子で箸を動かしている。そして綾波
はと言うと、僕を逃がさないように片方の腕をぎゅっと自分の胸に抱え込みな
がら、もう片方の手で御新香を突ついている。一方、僕達三人の反対側で一人
になったミサトさんは、何も食べずにひたすらにビールを飲みまくっている。
時々何に怒っているのかぶつぶつ文句らしい言葉を口にするのだが、それ以外
は周囲の様子も気にせずにただお酒を飲むだけだ。
しかし、まだ僕達の注文の品が一品も到着していないところをみると、僕達が
ここに来てからそれほど時間が経っていないのかも知れない。ここは酒宴を開
くにはあまりふさわしいと言えない上品なおそばやさんだ。店も飲み屋のよう
に薄暗いとかそういう事もなく、至って健全なムードである。だからそれなり
に丁寧に作っているというのもあるのかもしれないが、それでもそろそろ一つ
くらい来てもよいはずであった。

「・・・まだ来ないのかなあ?」

僕は酔っぱらっているせいか、別に特に声に出さなくてもいい事まで口に出し
た。すると隣のアスカがさして興味を示した感じも見せずに僕の言葉に応えた。

「そろそろ来るんじゃないのぉ?」
「だといいんだけど・・・・」

僕がそうつぶやくと、アスカが箸で指差しながら僕に教えてくれた。

「・・・ほら、見なさいよ。あれがアタシ達のなんじゃないの?」
「そうかなぁ?」
「きっとそうよ。あれは天丼か親子丼ね。」
「・・・・二つあるよ。きっと親子丼だろうね。」
「そうか・・・・悔しいわね。アンタ達に遅れを取るなんて・・・・」
「アスカのもすぐ来るって。心配いらないよ。」
「ありがと、シンジ。そう言ってくれて。」

そして、僕達の予想通り、向こうに見えていたのは僕達の元に運ばれてきた。

「親子丼、おまちどうさまでした。」

やっぱり親子丼だった。
店の人は、二つテーブルの上に置くとそそくさと離れる。まあ、こんな場違い
のところで酔っぱらっている僕達を白眼視して避けて通るのは致し方ないと言
えるだろう。しかし、そんなことはここにいる誰も全く気にしていない。元々
それぞれが独特の考え方を持っているとは言え、人の目を気にしないというの
は三人共通の点であった。更に、今はお酒が入っている。それにより、各人の
性向が強まり、自己中心の権化と化していたのだ。
そして僕も例外ではない。僕は人一倍周囲の目を気にする人間とは言え、お酒
の力でいつもより鷹揚な気分にさせられていた。だから、自分達の行為が人に
見られているとしても、大人然として、どっしりと構えていたのだった。

取り敢えず、僕と綾波はそれぞれの正面に親子丼を置くと、顔を見合わせて言
った。

「じゃあ、開けるよ・・・・」
「うん・・・・」

そして、僕と綾波は、同時にかぱっと丼の蓋を取り去った。すると、湯気と共
に親子丼のいい匂いが広がる。僕は割り箸を二組取ると、綾波に一組手渡した。

「いただきます。」
「・・・いただきます・・・・・」

綾波と僕はいただきますの挨拶をした。しかし、僕も綾波もすぐに食べはじめ
ない。僕は綾波の肉の問題が気になっていたし、綾波は同じ事ですぐには食べ
る事が出来なかったのだ。すると、それを見たアスカが、僕達に言う。

「ほら、さっさと食べなさいよ。そう睨んでいても、なくなったりしないわよ。」
「でも、綾波が・・・・」

僕がそう言うと、綾波が僕に向かって話し掛けてきた。

「・・・・碇君、まず最初に、私に食べて見せてくれる・・・・?」
「・・・う、うん。わかったよ、綾波。」
「ありがとう、碇君・・・・」

僕は綾波の意図している事がよくわかったので、細かい事は何も言わずに、先
に食べて見せてやる事にした。

「じゃあ、見てて。僕が食べるから・・・・」

僕は綾波に向かってそう言うと、お酒のせいで重くなった手で丼を手にすると、
綾波に見せ付けるように箸にとって一口食べて見せた。そして、すぐに丼を下
に置くと、綾波に言った。

「どう、食べて見せたけど・・・・」
「うん・・・・碇君?」
「なに、綾波?」
「おいしかった?」
「もちろん。」
「私にも、食べられると思う?」
「大丈夫だよ。そんなに肉の感じはしないし・・・・」
「そう・・・・」
「頑張ってみなよ、綾波。」
「うん、わかってる。だけど・・・・」
「だけど?」
「私、怖くて自分じゃ食べられないかも?碇君が私に食べさせてくれる?」
「え・・・?」
「駄目?」
「い、いや、駄目じゃないよ。わかった、僕が綾波に食べさせてあげる。」
「ありがとう、碇君。」
「いや、そんな大した事じゃないから・・・・」
「ううん。じゃあ、私、目をつぶってるから、碇君が誘導して・・・・」
「わかったよ、綾波。」

僕がそう言うと、綾波はまるでキスを受けるかのように両目を軽く閉じると、
僕に向かって軽く口を差し出した。そんな綾波の様子を確認した僕は、綾波の
丼と箸を手に取ると、慎重に一口分、親子丼を箸で取った。もちろん、鳥肉は
入れるが、ほんの小さいのを一切れ。あとはご飯と卵を半分ずつくらいで、綾
波にも食べやすいようにしたのだ。

「綾波、行くよ・・・・」

僕がそう言うと、綾波は恐る恐るその小さな口を開いた。そして僕は雛鳥に餌
を与えるかのように、綾波の口にそっと箸を差し込んだ。綾波はそれを感じる
と、ゆっくりと口を閉じて箸に載ったものを受け取る。僕は綾波が口に含んだ
事を確認すると、箸を入れたときと同じくそっと抜き去った。そして目をつぶ
ったままの綾波に向かって言う。

「ゆっくり噛んで・・・・そう・・・・・」

綾波は恐々ではあったが、僕に言われるがままに口をもぐもぐとさせた。僕に
は綾波がやっぱり駄目で吐き出すかもしれないかもしれないという心配もあっ
たのだが、どうやらそれは杞憂に終わりそうであった。綾波もさほど楽しく味
わっていると言う訳ではなさそうだったが、無理矢理飲み込むという感じもな
く、少ししてごっくんと飲み込んだ。僕はそれを見届けると、すぐさま綾波に
尋ねる。

「ど、どうだった、綾波!?」

すると、綾波はゆっくりと閉じていた瞳を見開くと、小さな声で僕に答えた。

「・・・・私、食べれた・・・・・」
「よかったね、綾波!!」

僕はお酒のせいで少し感情的になっているのか、喜びを露にして綾波の手を握
り締めた。綾波はいつもとは少し違う僕にやや戸惑いの色を見せたが、喜ぶ僕
に向かってこう言って来た。

「ありがとう、碇君。私、それまでお肉って、何だか血の臭いがするような気
がして食べられなかったんだけど、碇君のおかげで、食べる事が出来たみたい。」
「うんうん・・・・」
「実際に食べて見たら、そんなに嫌な臭いもしなかったし、これなら私も大丈
夫みたい。」
「これで少しずつ肉の味に慣れていけば、綾波もみんなと変わりがなくなるね。」
「うん、私は碇君と同じになりたいから・・・・・」
「うんうん・・・・」
「だから、私にお肉を食べさせてくれた碇君に、お返しがしたいの・・・・」
「・・・お返し?いいよ、別に。」
「ううん、お願い、私も碇君に食べさせてあげたいの。」

お返しとはそういう事か・・・・と僕は綾波の言葉でようやく理解した。
いつもだったら僕はこういうのをかなり渋るのだが、今日はお酒が入っていた
せいで、あまりそういう事にも気にならなかった。

「わかった。じゃあ、さっきの綾波みたいに僕も目を閉じてるね・・・・」
「うん。ありがとう、碇君・・・・」

そして僕は、自分で言った通り、目をつぶって綾波の言葉を待った。しかし、
なかなか綾波は僕に声を掛けてくれない。僕は不安になってきて目を開けて見
ようとしたその時、いきなり僕の唇に柔らかいものが触れた。僕は慌てて目を
開くと、目の前には綾波の顔があった。そして僕は、綾波にキスされている事
に気付いたのだった。

「ん・・・・」

この時の僕は、あまり危機察知能力に長けていたとは言い難かったので、綾波
のキスに抵抗する事もなく、大人しくそれを受けていた。すると綾波も大胆な
気分になっていたのか、勝手に僕の身体に両腕を回して抱き締めていた。さす
がに僕も自分からも腕を回すと言う事はしなかったが、綾波に抱き締められて
いるのは悪い気はしなかった。

・・・・しばらくして、綾波は僕を解放した。しかし、まだ僕の身体にぴった
りとくっついたまま離れようとはしなかった。僕は今のキスで親子丼を食べさ
せてもらうと言う事を忘れてしまったのか、綾波に向かってこう言った。

「・・・じゃあ、綾波、食べようか?」
「うん。」

綾波も、もう忘れてしまったのか、それともどうでもよくなってしまったのか、
敢えて僕に口出ししなかった。
僕は綾波が小さな手で丼を手に取り、ゆっくりと食べはじめるのを見届けてか
ら、自分も食べはじめようと思った。綾波は鳥肉を食べて嫌に感じなかったの
か、割と平気な顔をして食べている。僕はそれを見てほっと胸をなで下ろすと、
自分も食べはじめようと正面に向き直った。
しかし、そこには僕の親子丼がなかった。僕は慌てて左右を見渡してみると・・・・
アスカが座った目をしながら、僕の親子丼と思わしき丼を抱えてかき込むよう
にして食べていた。

「ア、アスカ・・・・」

僕は唖然として声をあげる。するとアスカは、僕の方に視線を向けてひとこと
こう言った。

「・・・シンジ・・・・ごちそうさま。」
「そ、それは僕の親子丼だろ・・・・?」
「そうね。それが?」
「そ、それが?って・・・・」

僕はアスカの様子に呆れて言葉も出ない。アスカは完全に酔っぱらっていて、
よくわかっていないようだった。僕は別にアスカに食べられるのは構わなかっ
た。どうせこういう事もあるかと思っていたからだ。しかし、アスカがあまり
自覚もなくそういうことをしているのには、何も言い様がなかった。
僕が口に出せないでいると、アスカは僕から丼に視線を戻し、再び食べはじめ
た。そして僕は、この時完全に自分の親子丼を、諦めたのであった・・・・


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