私立第三新東京中学校
第百五十話・傷つけたくない
僕達四人は、ミサトさんの車に乗り込んだ。
アスカは、ミサトさんの車にはさんざんひどい目に会わされてきたので、既に
恐怖を感じるまでになっていた。アスカがそう感じるものなど、ほとんどない
と思われるので、それだけにミサトさんの運転の凄さがわかるというものだ。
アスカは、車に乗り込むなり、まだ動き出してもいないというのに、身体をが
ちがちにしてドアの手すりをしっかりと握り締めていた。アスカはそれだけ恐
怖を感じていたのだが、自分だけ乗らない訳にも行かなかったので、口には何
も出さないで頑張っていた。
僕はそんなアスカが心配になって、アスカの様子を伺う。
「アスカ、大丈夫?」
「・・・だ、大丈夫に、き、決まってるでしょ?」
アスカは声も震わせている。何だかかわいそうだ。
「だ、大丈夫って、声が震えてるよ。」
「う、うるさいわね。このアタシが、ミサトの運転ごときに音を上げると思う?
馬鹿にしないでよね!!」
アスカは明らかに強がっていた。しかし、僕はそんなアスカの言葉を頭ごなし
に否定する事も出来なかったので、助手席からミサトさんに頼んだ。
「安全運転でお願いしますよ、ミサトさん。アスカだけでなく、僕達もミサト
さんの運転は怖いんですから。」
するとミサトさんは、呑気な顔をして僕に応えた。
「大丈夫だって、アタシはいつも安全運転じゃない。」
そんなミサトさんの言葉を聞いて、アスカが即座にミサトさんに文句をつけた。
「ど、どこが安全運転なのよ!?死人が出ない方がおかしいわ!!」
「安全運転じゃない。アタシ、これでも一応無事故なのよ。」
「う、嘘言うんじゃないわよ!!アンタ、どうせ今まで事故っても、ネルフの
権力を利用してもみ消してたんじゃないの!?」
流石のミサトさんも、アスカの根拠のない誹謗にむっとしたのか、後部座席に
顔を乗り出して渋い表情でアスカに言い返した。
「・・・アタシがそんなせこいことすると思ってんの?」
「思ってる。」
アスカはミサトさんに向かってきっぱりと言い放った。仲直りしたとは言いな
がらも、似た者同士のこの二人は、何かとお互いを嫌っている。普段はそんな
ことを表に出しはしないのだが、時折こういう形で言い争いを繰り広げている
のだ。
僕はいつものことだと思っていたので、二人とも相手にはせずに、ミサトさん
と同じく後ろに顔を乗り出して、一人静かにしていた綾波に話し掛けた。
「綾波、これから食べにいくとしたら、何を食べたい?」
「・・・・私、肉とかお魚駄目だから・・・・」
「そうだよねぇ・・・・家庭料理なら何とでもなるけど、外で食べるとなると、
そういう精進料理は難しいもんなあ・・・・」
「ごめんなさい、私のせいで迷惑を掛けちゃって・・・・」
「いいんだよ、別に。そんなこと気にしないで・・・・」
「でも・・・・」
綾波は、結構自分が肉や魚介類を食べられないことを気にしているようだった。
確かに、肉も魚も無しで料理を出す店というのは、そんなにはない。以前行っ
たのはラーメン屋だったが、せっかくの晩餐をラーメンでは、芸がなさすぎる
というものだった。
こうして僕と綾波が、アスカとミサトさんのことなど忘れて、これから行くお
店について考えていると、アスカが僕に怒ってきた。
「ちょっとシンジ!!アタシを放っておいてレイと勝手に話を進めないでよね!!」
僕はそう言ったアスカをじろっと見ると、静かに言ってやった。
「アスカとミサトさんが悪いんだろ?どうでもいいことで喧嘩なんかしてるか
ら・・・・」
「ど、どうでもいいこととは何よ!?アタシを馬鹿にしてる訳!?」
「ミサトさんの悪事なんて、どうでもいい事だろ?そもそもミサトさんは、僕
がはじめて会った時に、いきなり他の車のバッテリーを勝手に使っちゃうよう
な人なんだから・・・・」
僕が昔のミサトさんの悪行をばらすと、ミサトさんは慌てて言い訳をした。
「ちょ、ちょっとシンちゃん!!あれは非常時でしょ!?今の話とは関係ない
じゃないの!!」
ミサトさんの言葉で、アスカはにやりと笑うとミサトさんにこう言った。
「非常時ねぇ・・・・そう言っていつも、悪いことばっかりしてたのね・・・」
「ち、違うわよ!!もう、何でシンジ君は余計なことを言うのよ!!」
ミサトさんの狼狽した様子に、アスカは完全に勝利を感じたのか、余裕を見せ
て僕を横目で見るとこう言った。
「シンジ、でかしたわ。後で褒美をあげるから。」
「い、いいよ、褒美なんて・・・・」
アスカのくれる褒美なんて、大体予想がつくので、僕は遠慮して見せた。だが、
それは却ってアスカを怒らせる結果となった。
「アンタ、アタシの褒美を拒む気?」
「そ、そういう訳じゃないよ・・・・」
「アンタ、アタシの褒美なんて、どうせろくなもんじゃないと思って、いらな
いと思ってるんでしょ?わかってんのよ。」
「そ、それはその・・・・」
「アンタ、アタシの方がいいって言った割には、キスされるのを嫌がるのよね。
ほんと、変な奴。」
アスカはあんまりいい顔をせずにそう言うと、それを聞いていた綾波が、アス
カに向かってひとことぼそっと言った。
「あなたのやり方、強引すぎるのよ。だから、碇君も嫌がるんだわ・・・・」
すると、アスカもそんな綾波の言葉に即座に反応して、綾波とは対照的に大き
な声で言った。
「アンタに言われる筋合いはないわよ!!アタシとシンジの間のことでしょ!?
何にも知らないくせに余計な口出しするんじゃないわよ!!」
「・・・・私、知ってるもん。」
「何を知ってるって言うのよ?」
「無理矢理キスされるのなんて、碇君も嫌い。もし碇君がキスしたかったら、
きっと自分からキスしてくれるはず・・・・」
綾波の意見は、僕としてはうれしいのだが、それはアスカとは正反対の考え方
だったので、アスカは冷たく綾波に言った。
「アンタ、そんな事言ってたら、シンジはいつまで経ってもキスなんてしてく
れないわよ。」
「・・・・そうかもしれない。でも、私は無理矢理碇君にキスして、碇君に嫌
われたくないもの。キスするなら、愛のあるキスがしたいから・・・」
「アタシは無理矢理シンジにキスしてるけど、シンジはアタシのこと、嫌った
りはしてないわよ。ね、シンジ?」
「う、うん・・・・」
僕はアスカの言う通り、無理矢理キスをされてはいても、アスカのことを嫌っ
たりはしていなかった。だから、アスカにもうんと言った。すると、アスカは
綾波に向かって自慢げに言う。
「ほらご覧なさい。何だかんだ言ったって、キスされればそれなりに愛情も芽
生えるもんなのよ。」
「そうなの?」
「当たり前でしょ?シンジだって、これでも男なんだから。」
「じゃあ・・・・」
「そう、シンジも他の男どもと同じく、ちゃんとえっちなことも考えてたりす
る訳よ。だからキスされて嫌なはずないわ。」
「ちょ、ちょっと失礼な事言わないでよ!!僕が黙って聞いてれば、人のこと
をえっちだとかなんだとか・・・・」
僕がむっとしてアスカに訴えると、アスカは僕の言葉などには一向も動じた様
子を見せずに言った。
「違うの?」
「違うよ!!」
「アンタがれっきとした男なら、えっちで当然だと思うけど・・・・」
「僕はまだ、中学生だよ!!そんなの早すぎる!!」
「早くなんかないわよ。遅いくらいなんじゃないの?」
「・・く・・・・」
「シンジの方がおかしいのよ。変に意識して恥ずかしがっちゃって・・・・」
「・・・・・」
「えっちなのは普通なのよ。だから、シンジもえっちになって・・・・」
アスカがそこまで言うと、いきなりミサトさんが、アスカを遮った。
「ちょい、ストップ!!」
「な、何よ、ミサト!!今いいところなんだから・・・・」
「アスカ、保護者たるアタシの前で、シンちゃんを扇動するんじゃないわよ。
ご覧なさい、アンタの言葉を真剣に受け止めちゃって・・・・」
「アタシは真剣に言ったつもりよ。」
「しかし、何もアタシの目の前で言うことじゃないんじゃない?」
「どうして?愛し合っていれば、自然の成り行きじゃない。ミサトに余計な干
渉されることじゃないわ。」
「愛し合ってれば、でしょ?シンジ君に無理矢理迫るのが、愛し合ってる者の
すること?」
「そ、それは・・・・」
「アタシはレイの言うことの方が、ずっと正しいことだと思うわ。シンジ君が
自分からキスしてくれるのを待つなんて・・・・」
ミサトさんは、綾波の意見に賛成してこう言った。しかし、アスカはそんなミ
サトさんの言葉を聞くと、視線を外にそらして小さな声でミサトさんに言った。
「わかってるわよ、そんなことくらい・・・・」
「じゃあ、どうして無理矢理なんて考えを起こすの?そんなのいい結果を生み
出すはずないのに・・・・」
「結果なんて関係ないのよ!!アタシはキスしたいんだから!!」
「シンジ君の気持ちは、どうでもいい訳?」
「どうでもいいわけないでしょ!?でも、我慢出来ないのよ!!」
「・・・・だから、シンジ君に無理矢理キスする訳?」
「そうよ!!ミサトには関係のないことでしょ!!」
「確かに関係はないわね。でも、シンジ君には関係のある事なんじゃない?」
「・・・・・」
「シンジ君はキス、したくないんでしょ?だったら、シンジ君がかわいそうだ
と思わなきゃ・・・・」
「・・・・わかってるわよ・・・・ミサトに言われなくたって・・・・」
アスカはミサトさんに言われずとも、十分僕の気持ちなどわかっていたのだ。
そして、わかっていても、僕に無理矢理キスせずにはいられないアスカの気持
ちも、僕にはよくわかっていた。だから、僕はミサトさんに責められているア
スカがかわいそうになって、アスカをかばってあげた。
「もういいです、ミサトさん。」
「シンジ君・・・・」
「アスカの気持ちは僕もわかってるんです。だから、アスカを責めないでやっ
てください。アスカが無理矢理なんていう姿勢を取らなくちゃいけないのは、
全部僕の責任なんですから・・・・」
僕がそう言うと、ミサトさんは真剣な顔をして、僕にこう言った。
「じゃあ、アスカのことがわかっているなら、どうしてはっきりとした態度を
取ってあげない訳、シンジ君?」
「・・・・」
「アスカのことが本当に好きなら、無理矢理キスなんて形を取らせないで、シ
ンジ君自身からキスしてあげるべきだし、本当に好きじゃないなら、断固とし
て拒絶すべきなのよ。」
「・・・・・」
ミサトさんの言葉は正論だった。僕にはミサトさんの言葉がよく理解出来ただ
けに、それに反論する事が出来なかった。だから、口をつぐんで黙ってしまっ
ていたのだが、そんな僕をみた綾波が、ミサトさんに向かってこう言った。
「・・・・私のせいなんです。」
「レイ・・・」
「碇君は、私を傷つけないようにと思って、気をつかってくれているんです。」
「・・・なるほどね。」
「私も碇君のことが好きだから、碇君は私の前ではあからさまな態度は取れな
くて・・・・」
しかし、ミサトさんは綾波のそんな言葉に対して、真っ向から否定した。
「違うわね。」
「どうしてですか?」
「確かにシンジ君はそういう気を使うところもあるけど、シンジ君はそれが何
の解決法にもならないことくらい、十分承知しているはずよ。違う、シンジ君?」
「・・・ミサトさんの言う通りです。」
「でしょ?シンジ君は、あなたを気遣ってアスカにキスしない訳じゃないの。
はじめから、シンジ君はアスカにキスをする気なんてないのね。だから、アタ
シはシンジ君がそんな気持ちなら、アスカのキスも受け入れるべきでないって
言いたい訳なのよ。わかるでしょ?」
確かにミサトさんの言う通りだ。僕が自分からアスカにキスをしたいという気
が全くないのに、アスカのキスを受け入れるというのは、アスカの想いに泥を
塗ることにもなるだろう。
だが、一方で、アスカを拒絶出来るほど、僕がアスカのことを何とも思ってい
ないという訳ではなかったので、アスカのキスを拒んでアスカを傷つけるよう
な真似はしたくなかった。
「・・・でも、アスカを拒んで傷つけたくない・・・・」
僕は、考えに沈みながらも、そう口にした。すると、アスカの表情は一瞬輝き
をみせた。だが、そんな僕に対して、ミサトさんはこう告げた。
「シンジ君、それは大いなる嘘なのよ。あなたの気持ちが中途半端だから、そ
ういう気持ちが起きるのかもしれないけれど、さっきのレイの時と同じで、そ
れもアスカのためにはならないことなの。無論、あなたのためにもならないわ
ね・・・・」
「じゃあ、アスカを傷つけてでも、アスカのキスを拒めってことですか?」
「そういうことね。」
「・・・・そんなの、嫌です。」
「でも、それじゃ駄目なのよ。わかるでしょ?」
「わかります、ミサトさんの言うこと。でも、僕は絶対にアスカを傷つけたく
はない。」
「じゃあ、どうするつもりなの?」
「僕からアスカにキスすればいいんです。こういう風に。」
僕はそう言うと、いきなりアスカの手首を引っつかんで、自分の元にぐいと引
き寄せた。アスカは意気消沈していたこともあって、バランスを崩しながら前
に倒れ込む。僕はそんなアスカを受け止めると、首を伸ばしてくちづけをした。
そして、ミサトさんにそれを見せ付けてから、アスカの唇を離すと、堂々とミ
サトさんに言い放った。
「これでいいんでしょう?アスカがキスしたくなったら、僕からキスしてやり
ます。そうすれば、アスカは傷つかずに済みますから。」
「で、でも、シンジ君、あなたの気持ちはどうなの?」
「アスカじゃないですけど、そのうち慣れると思いますよ。」
「慣れるって言うけど・・・・」
「とにかく、アスカを傷つけたくない。僕の気持ちは、そういうことです。」
僕は、反論を許さないかのように、断固たる態度でミサトさんに言った。
ミサトさんだけでなく、アスカや綾波まで、僕のこんなやり方に驚いていた。
はっきり言ってしまえば、自分自身でも自分のしたことに驚いている始末だ。
客観的に見れば、僕はただ、ミサトさんの意見に反抗したかっただけと見える
かもしれない。しかし、アスカを絶対に傷つけたくないというのも事実であっ
た。もう、僕のために誰も傷ついて欲しくなかった。僕は、誰かが傷つくのを
見るのは、耐えられなかったのだ。だから、人が傷つかずに済むなら、僕の本
能が拒むことを無理に行ったとしても、僕は構わなかった。
傷だらけの僕は、いくらか傷が増えてもまだ耐えられる。
でも、傷つくのに耐えられない人というのも、たくさんいるのだ。
そう、例えば、アスカみたいに・・・・
アスカは一度、壊れている。
だから、もう一度壊れるのも、十分有り得る。
しかし、僕は壊れたりしない。
まだ大丈夫だろう。
だから僕が壊れそうになるまで、人の代わりに僕が傷を受けてあげよう。
今の僕には、その義務と責任があると思う。
でも、いつか・・・・いつか僕も、耐え切れなくなる時が来るかもしれない。
そうしたらその時は、僕も誰かの胸にすがろう。
だから僕は、その時が来るまでは、この身体と心に傷を受け続けよう。
それが僕の、せめてもの罪滅ぼしというものだろう。
今まで僕が犯し続けてきた、拭い去ろうとしても、拭い去ることの出来ない、
果てしなく深く重い罪に対しての・・・・・
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