私立第三新東京中学校

第百四十六話・壊れたもの、なおすもの


僕が出ていった後の職員室は、しばし空白のときにあった。
開け放たれた入り口のドアから、微かな風が中に流れた。

リツコさんの言葉は、初めて聞く者にとっては、すぐに理解出来るようなもの
ではなかった。この事について知っていたのは、ミサトさんと、そしてダミー
プラグの作成に協力した伊吹先生であったが、それでもどのくらい事情に通じ
ていたものか・・・・誰も知りはしなかった。ただ、誰よりもリツコさんが全
てについて知っているという事に関しては、疑いを挟む余地はなかった。

しかし、みんなが凍り付いていたのもほんの少しの間の事であった。
まずはじめに行動を起こしたのはアスカで、僕が職員室を飛び出していったと
いう事実に気付き、ひとこと叫ぶ。

「シンジ!!」

そして、みんなを置いて僕の後を追いかけていった。
一方、綾波は動かなかった。いや、動けなかったと表現した方がいいのかもし
れない。アスカは自分には問題が直接絡んでこなかったが、綾波はそうではな
かったからだ。

「・・・・碇君・・・・どうして・・・・」

しかし、綾波は呆然としてそうつぶやく。自分の事よりも、僕が綾波の手を払
い除けて出ていった事の方がショックなのかもしれない。その事実が、綾波の
頭に理解力を与えていないのだろう。
だが、そんな綾波の事は誰も構わなかった。ミサトさんは、厳しい顔をすると、
リツコさんに迫る。

「どういう事よ、リツコ!?」
「・・・・見ての通りよ。」
「見ての通りじゃないわよ!!全てが目茶苦茶じゃない!!」
「・・・・・」
「せっかくシンジ君が、幸せになれると思ったのに・・・・」
「・・・・仕方ない事なのよ。」
「仕方なくなんかないわよ!!アンタだって、言っていい時と悪い時があるっ
て事くらい、知ってるはずでしょ!?」
「・・・・・」
「いくらレイに厳しい指摘をされたからって、こんな仕打ちは酷すぎるわよ!!
レイはアンタに悪気があった訳じゃないのに・・・・」
「・・・・そうね。」
「そんな呑気な顔してるんじゃないわよ!!アンタのその一言で、シンジ君が
どれだけ傷ついたと思うの!?」
「・・・・これはいずれ訪れる事なのよ。私はそれを、早めてあげただけ・・・」
「ふざけんじゃないわよ!!」

ミサトさんは、真っ赤な顔をしてリツコさんを怒鳴りつけると、物凄い平手打
ちをかました。リツコさんはそれをもろに食らうと、どうと床に倒れ込む。そ
んなリツコさんを見たミサトさんは、いくら平手打ちが激しいものであったと
しても、そんな倒れてしまうほどのものではないはずなので、一瞬驚きの色を
隠し切れなかった。しかし、それ以上にミサトさんの怒りが勝っていたので、
大きな声でうずくまっているリツコさんに上から吐き捨てるように言った。

「立ちなさいよ!!これくらいでアンタのした事が許されると思ったら大間違
いなのよ!!」
「・・・・・」

うなだれてその短い髪に顔を隠したリツコさんは、果たしてミサトさんの言葉
を聞いているのかどうかも怪しく、ただ黙っていた。ミサトさんはそんなリツ
コさんに更に声を浴びせ掛けようとしたのだが、それは阻止される事となった。

「先輩を許してあげてください!!」
「・・・マヤちゃん・・・・」
「先輩だって辛かったんです。今までずっとずっといろんな事を胸の中に仕舞
い込んで来て・・・・」
「それはみんな同じよ。リツコだけじゃないわ。」

伊吹先生の熱のこもった言葉に、ミサトさんは冷たく応えた。ミサトさんの言
葉は、確かに真実であったので、伊吹先生にはつらい指摘となったが、リツコ
さんを先輩として慕って、その心を思いやる伊吹先生はそれでもめげなかった。

「確かに葛城先生のおっしゃる通りです!!でも、でも、先輩は・・・先輩は、
誰よりもつらい事実をずっと一人で隠し通さなければならなかったんです!!」
「・・・一人で?あなたもこの事は知っていたんじゃないの?」
「レイがクローンだっていう事は知ってました。私もダミープラグの製造に際
して、先輩に協力しましたから・・・・でも、私はその元が、シンジ君のお母
さんだなんて・・・・全く知りませんでした。」
「そう・・・・でも、薄々は感じていたんでしょう?アタシもそう感じてたん
だから・・・」
「いえ。私はそんな事は全然・・・・」
「そう・・・・あなたはリツコと違って、潔癖なお嬢様だからね・・・・アタ
シやリツコとは、住む世界が違うのよ・・・・」
「そ、そんな事ありません!!先輩は純粋な人なんです。私は知ってます。」
「・・・・どうしてそんな事が言えるの?」
「私は随分前から先輩に付き従って来て、いろいろ勉強させてもらいました。
だから、私は他の誰よりも、先輩の事を知っていると思います。」
「・・・・で?」
「だ、だから・・・だから、とにかく先輩は純粋で傷つき易い人なんです!!
でも、誰もそんな先輩を理解してあげられなくて・・・・」

伊吹先生は、いつのまにか大粒の涙をぽろぽろとこぼしていた。それをみたミ
サトさんは、伊吹先生の理論よりもその感情に感じたのか、少し態度を軟化さ
せてリツコさんに向かって言った。

「アンタもいい後輩を持ったわね、リツコ。アンタの事をこれだけかばうなん
て・・・・」

ミサトさんがそう言って伊吹先生から注意をそらしている間に、青葉さんと日
向さんが伊吹先生を支えて椅子に座らせてあげた。ミサトさんもその事には気
付いただろうが、ミサトさんには伊吹先生をうらむ道理もなく、却ってそんな
にまでしてリツコさんを思いやる伊吹先生を好意的に受け止めて、これ以上何
も言わなかった。
しかし、リツコさんには別だった。

「でも、アンタがシンジ君とレイの二人を傷つけたのには変わりがないわ。こ
れをどう言い訳するつもり?」
「・・・・・」

しかし、リツコさんは答えない。すると、ミサトさんはリツコさんに向かって
厳しくこう言った。

「アンタがつらいのもわかるし、ずっと苦しみ続けていたって言うのもわかる
わ。でも、だからと言ってアンタがそれを他の人間にまで広める事は、許され
るべき事じゃないわね。アンタには、その責任を取ってもらうから・・・いい
わね?」

そして、ミサトさんは黙って何も言わないリツコさんに話すのをやめ、一番傷
ついているであろう人物、綾波の肩に手をかけると、やさしく声をかけてやっ
た。

「レイ・・・・大丈夫よ。シンジ君はちょっと混乱してただけ。あなたを嫌い
になった訳じゃないわ。」
「・・・・でも・・・・・・」
「シンジ君にとっては、つらすぎる現実だったのよ。あなたの事、誰よりも心
配してたもんね・・・・」
「・・・・誰よりも?」

綾波はミサトさんの言葉に興味をひかれて、小さく聞き返した。

「そう、誰よりも。少なくともシンジ君は、アスカよりもあなたの事を気にか
けてたわ。」
「・・・・・」
「アスカはあなたと違って、しっかりしてるからね。世慣れてるし・・・・で
も、あなたは現実社会の事、何も知らなかったじゃない。だから、シンジ君は
あなたの事を・・・・」
「・・・・・」
「確かにあなたの身体がシンジ君のお母さんから作られたものであっても、シ
ンジ君はそんな事だけじゃ人に魅きつけられたりはしないわよ。シンジ君は他
の誰よりもやさしくて、世話焼きの男の子だから・・・・」
「・・・・・」
「だから、あなたの事、放っておけなかったのよね。あなたを一人にしておい
たら、どうなるかわからないから・・・・」
「・・・・・」
「それに、アスカも・・・アスカもあなたと同じ。心が壊れてしまって、それ
をシンジ君が助けてあげたの。でも、アスカの心は弱いまま。またいつか壊れ
るかわからない。」
「・・・・」
「それに比べて、あなたの場合、いろいろ覚えて行けば何も心配はないじゃな
い。アスカと比べて、あなたの心は強靭だっていう事も、シンジ君は知ってる
だろうし・・・・だから今のシンジ君は、あなたよりもアスカの事に傾いてい
るのよね。」
「・・・・・」
「シンジ君はやけに大人びたところがあって、色々気も利くんだけど、シンジ
君自身が言うように、人の愛というものを頭では解っていても、それを肌で感
じる事は出来ないのよ。つまり、シンジ君は保護者意識が強いだけであって・・・・
ここから先は、あなたでもわかるわよね?」
「・・・・はい。」
「あなたにはつらい事かもしれないけれど、シンジ君の行動規準というのは、
愛ではなくて、責任感と同情心からなのよ。シンジ君はそれらが強すぎるから、
それにとらわれて自由に心を広げる事が出来ない・・・・」
「・・・・愛じゃない・・・・の?」
「そうよ。残念な事に、シンジ君が愛を感じているのは、唯一両親にだけと言
わざるをえないかもね?」
「・・・・・」
「だから、シンジ君は今度の事で今までにないくらい喜んだ訳。はっきり言え
ば、あなたやアスカと、碇理事長とでは、シンジ君にとっての価値観がまるで
違うのよ。」
「・・・・・」
「つまり、今のシンジ君には家族愛しか理解出来ないのよ。それも、かなり歪
んだものでしかない・・・・」
「・・・・」
「だからこそ、それを正常なものにするのが、大切な事だったのよ。それが上
手く解決されない限りは、きっとシンジ君は、恋愛対象としての女性として、
あなたやアスカを見る事は絶対に有り得ないでしょうね。」
「・・・・・じゃあ、私はどうすればいいんですか?」
「それはあなたが自分の頭で考えなさい。あなたが言うように、あなたは人形
じゃないんでしょう?だったら、命令を待っているよりも、自分の判断で行動
を起こすべきよ。」
「・・・・でも、私にはどうしたらいいのか・・・・?」
「じゃあ、少しだけ助言をしてあげる。まず、とにかくシンジ君に、あなたが
綾波レイであって、それ以外の何者でもないという事を、納得させなさい。そ
して、それからあの親子の関係を改善して行くの。わかった?」
「・・・・わかりました。」
「細かい方法は、あなたが自分で考えるのよ、レイ。」
「はい。」
「でも、アタシがどうしてアスカにでなく、あなたにこの話をしたと思う?」
「・・・・・わかりません。あの人がここにいなくて、いるのは私だけだから
ですか?」
「ま、それも原因の一つではあるんだけど・・・はっきり言って、あなたとア
スカの性格の相違なのよ。」
「・・・・性格の・・・相違?」
「そうよ。アスカの場合、何だかんだ言ってるけど、やっぱりシンジ君とは対
等の関係を維持しているわ。だからこそ、シンジ君が恋人関係と錯覚してるの
かもしれないけど・・・・」
「・・・・」
「でも、それじゃあシンジ君を救う事は出来ないのよ。わかるでしょ?」
「・・・なんとなく・・・・」
「あなたは今まで、シンジ君に保護される立場にいたわ。だから、あなたもシ
ンジ君には完全に従う態度を取っていたわね。あなたはそういうつもりじゃな
いにしても・・・・」
「・・・・・」
「だから、今度はそれを逆に生かして、反対にシンジ君を保護してあげなさい。
あなたのやさしさで、シンジ君を包み込んで・・・・」
「・・・碇君を・・・・保護する・・・?」
「そうよ。今のシンジ君は、今までにないくらい傷ついてる。だから、あなた
がシンジ君を守ってあげるの。出来るわよね、あなたになら?」
「・・・出来ます。私なら、碇君を守ってあげられます。」

綾波の力強い断言を聞いたミサトさんは、笑みを浮かべると綾波にこう言った。

「よしよし。早く行かないと、アスカにその役を先に取られちゃうわよ!!ア
タシはアンタを、一番買ってるんだからね!!」
「わかりました!!碇君は私に任せておいてください、葛城先生!!」

綾波は大きな声でそう言うと、走って職員室を飛び出していった。
そして、そんな綾波の後ろ姿を見送ったミサトさんは、最後にひとつつぶやき
声を漏らした。

「・・・・レイもこれで、一緒に救われるといいんだけどね・・・・」

それに応えるものは、誰一人として居りはしなかったのだ・・・・・


続きを読む

戻る