私立第三新東京中学校

第百四十話・ビンタとキスは使いよう


「ア、アスカ!!もうちょっとゆっくり歩いてよ!!別にそんなに急ぐ必要は
ないんだからさぁ!!」

僕はまだ、アスカに引きずられながら、毎朝の通学路を通って学校へ向かって
いる。僕達はもう既に家を出たと言うのに、アスカは歩くスピードを少しも緩
めようとはしなかった。僕は別に体力的にきついとか、そういう事ではなかっ
たのだが、もう少しゆっくり歩きたいと思って、アスカにそう言ったのだった。

「うるさいわねえ!!大人しくついて来なさいよ!!それともアンタ、まさか
これくらいできついとか言うんじゃないわよね!?」

アスカは問答無用といった感じで、僕の言う事など聞いてくれそうもない。僕
は既に経験上、こういう時のアスカには本当にちゃんとした理由がない限りは
何を言っても無駄だと悟っていたので、大人しくアスカに従う事にし、引きず
られる事をやめ、アスカに歩調を合わせた。
アスカはすぐに、僕の抵抗が無くなった事を悟って、僕を引っ張る手を緩めた
が、僕の手は離さなかった。そして僕も、黙ってアスカの手を握っていた。
綾波は僕の後ろについてきていたのだが、黙っていて何も言わなかった。僕は、
綾波はきっと僕とアスカが手をつないでいる事に気付いているだろうと思って
いたのに、綾波が何も言ってこないので、少し拍子抜けがした。だが、まあ揉
め事が起こらないのはいいことなので、僕は敢えて何も口には出さないでいた。

辺りはそろそろ夕暮れを迎える。太陽も西の方角へと傾き、周りの景色を茜色
に染めはじめている。真っ赤な太陽の輝きは、僕の目に眩しいものに映ったが、
それは一向に不快ではなかった。
そして、僕はいつのまにかアスカの横に並んで歩いていた。僕がその事に気が
ついたとき、僕はもう一つの事も気がついた。それは、アスカがさっきよりも
ずっと歩くスピードがゆっくりになっていると言う事だった。しかし、僕の口
から出た言葉は、その事についてではなく、全く関係の無い事であった。

「・・・アスカ・・・・?」
「なによ、シンジ?」
「・・・・夕日、綺麗だね。」
「・・・・・・そうね。」
「・・・・・」
「アタシに何か、話があるんじゃないの?」
「・・・・別に。ただ、それが言いたかっただけ。」
「・・・そう・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」

夕日が、アスカの顔も髪の毛も、全てを真っ赤に染め上げていた。僕はそんな
アスカが、純粋に綺麗だと思った。そして、僕はそれをそっと口にした。

「・・・・アスカって、綺麗だね。」

すると、アスカはびっくりして恥ずかしそうに反応した。

「ば、馬鹿っ!!な、何いきなりそんな事言ってんのよ!!」
「・・・・だって、夕日の中のアスカって、すごく綺麗だから・・・・」
「そ、それって口説き文句のつもり?」
「そ、そういう訳じゃないよ。ただ、そう思っただけ。」
「馬鹿・・・・ちょっと耳を貸しなさい。」

アスカはそう言うと、器用につないだ僕の手を引き寄せて、耳元に口を近づけ
てささやいた。

「アンタ、レイが後ろでじっとアタシ達の事を見てるのに気付いてないの?ア
タシはずっといつレイが爆発するんじゃないかと思って、ひやひやしてたんだ
から・・・・」
「あ・・・・」
「あ、じゃないわよ。全く、もう少し周囲の事に気を配りなさいよね。」

アスカは僕をたしなめるようにそう言ったが、何だか表情は嬉しそうだった。
だが、その事よりも、綾波の事の方が気になったところであったので、僕はア
スカにこう言った。

「じゃ、じゃあ、手をつなぐの、やめる?」
「・・・・わざわざやめる必要はないわよ。」
「でも、綾波が恐いじゃない・・・・」
「アンタバカ?あの娘はアタシとシンジが相思相愛だって、既に知ってんのよ。
だから別に、隠す必要も無いじゃない。」
「で、でも・・・・・」
「レイが割り込んできたら、やめればいいじゃない。だからそれまでちょっと
の間・・・ね?」

アスカはねだるようなかわいい顔をして見せて、僕に頼み込んだ。僕は綾波が
ちょっとかわいそうだと思ったものの、アスカの言葉にも一理あったので、ア
スカの言う通りにする事にした。

「う、うん・・・・」
「じゃあ、もうちょっとだけ、くっついてもいいわよね・・・・」

アスカはそう言うと、そっと僕の方に身を寄せてきた。僕はそんなアスカのこ
とを、やさしく受け止めたのだった・・・・

こんな風に、いつの間にやらゆっくりと歩くようになったので、なかなか学校
には着かなかったが、それでもしばらくすると、僕達三人は学校に到着した。

「もう、ついちゃったわね・・・・」

アスカはいつのまにか、こんな事を言うようになっている。しかし、僕はその
事には触れるつもりはなかった。そして、僕が黙っていると、アスカは気分を
ちょっと切り替えたのか、大きな声で僕に尋ねた。

「心の準備はいい!?これからお父さんに会うんだけど・・・・」
「う、うん。大丈夫だと思うよ。とにかく一人じゃないんだし・・・・」

僕が心もとない口調でそう答えると、アスカは今度は後ろを振り返って綾波に
も尋ねた。

「レイ、アンタも大丈夫?」
「・・・・ええ。」
「そ、ならいいわ。じゃあ、行きましょうか。」

アスカはそう言うと、少し歩みを速めて、校舎の中に入った。

「・・・やっぱりもう・・・離さなくちゃまずいわよね。」

アスカは何を、とは言わなかったが、それが僕の手である事はわかりきってい
た。そして、アスカは名残惜しそうに僕の手を離すと、自分の下駄箱のところ
に行って、上履きに履き替えた。
綾波も自分の下駄箱のところに向かったので、僕は一瞬だけ、一人になった。
僕は一人で靴を上履きに履き替えながら、ほんの少しだけ考えた。アスカと、
綾波について・・・・

アスカがかわいいのは事実だ。以前は鼻についたところも、今ではアスカの魅
力にすら感じるようになっている。だから、もうアスカと手をつないだりする
のは、全然嫌に感じなくなっている。それどころか、何だか少しだけ、うれし
いような気持ちさえするのだ。
でも、そんな恋人未満の僕とアスカを見せ付けられて、綾波は何を考えている
のだろう?綾波はいつもならば速攻で邪魔をするか、さもなくば真似をするか
のどちらかだと言うのに、今日はただじっと黙って見つめているだけだ。
そういうのは、はっきり言って、却って気になると言うものだ。もしかしたら、
綾波はアスカに言われた事を、早くも実践しているのであろうか?違う僕を見
るために、僕に違った接し方をすると言う・・・・

僕がそこまで考えたとき、アスカの声が聞こえた。

「シンジー!!早くしなさいよ!!」
「わかったよ!!」

僕はそう大きな声でアスカに応えると、考えるのをやめて、アスカの元へ駆け
寄った。

「ちょっとだけ、どきどきするわね・・・・」

歩きながらこっちを見てアスカは言った。
さっきとは違って、僕を中心にして、三人並んで廊下を歩いている。

「でも、アスカは気楽でいいよ。僕や綾波とは違って、父さんとは何のしがら
みも無いんだから・・・・」

僕は途方に暮れたように、アスカに向かってそう言う。するとアスカは、僕の
正面に回り込んで、器用に後ろ歩きをしながらこう言った。

「そんな事無いわよ。アタシもアンタのお父さんの指揮下にあってエヴァに乗
ってたんだし、それに、これからは一緒に暮らす事になるんだから・・・・」
「そんな・・・まだ決まった訳じゃないだろ?ちょっと早計過ぎるんじゃない?」

僕がアスカの先走る考えを抑えようとしてそう言うと、アスカははっきりと断
言して見せた。

「早計じゃないわよ。アタシはシンジと一緒に引っ越せるようになるまで、絶
対に退かないんだから!!」
「そ、そう・・・・アスカにかかったら、あの父さんも形無しかもね?」

僕は半ばアスカの意気込みに圧倒されて、そう応えた。するとアスカは、僕に
顔を近づけて言う。

「当たり前よ。アタシを誰だと思ってるの!?惣流・アスカ・ラングレーよ!!」
アタシは欲しいものがあったら、絶対にそれを手に入れるまでは諦めたりしな
いんだから!!」
「・・・・・そ、そう・・・・」

やっぱりアスカは気合い十分だ。すぐ逃げ腰になる僕とは違う。しかし、僕は
そんなアスカを憧れこそすれ、やっぱり僕の性格に反するだけに、なかなか馴
染めないものでもあったのだ。
そんな訳で、僕はちょっと話をずらして、隣にいた綾波に話し掛けた。

「アスカが頑張ってくれると、僕達も助かるね、綾波。」
「えっ・・・・?」

綾波はそれまでずっと蚊帳の外に置かれていただけに、急に僕に話し掛けられ
て、驚いた様子を見せた。そんな綾波の様子を見た僕は、驚く綾波をちょっと
新鮮に感じて、微笑みながら綾波にこう言った。

「・・・そんな風に驚く綾波って、何だか新鮮だね。」
「・・・・・碇君・・・・?」

綾波は僕にそう言われて、半ば茫然自失になった。すると、そんな綾波に対し
て、アスカがこう言ってきた。

「はいはいはい。レイ、シンジにこんなこと言われるのも、珍しいでしょ?」
「・・・う、うん・・・・」
「それは、アンタがいつもと違ってたから、シンジもいつもと違った反応を示
した訳。わかる?」
「・・・う、うん・・・・私、あなたに言われた事を、試してみようと思って
たから・・・・」

綾波の言葉を聞くと、アスカは納得した顔をして、うなずいて見せた。

「なるほどね。だからアンタは、アタシとシンジがいい雰囲気になってたのに、
いつもみたいに割り込もうとしなかった訳ね?」
「うん・・・・」
「アンタ、辛かったんじゃない?」
「・・・・うん。辛かった。」
「アタシが言うのも変だけど、アタシはアンタに辛い事をしろといった訳じゃ
ないのよ。アタシが言いたかったのは、いろいろ変化を付ければ、もっと楽し
い人生が開けるって言う事なのよ。」
「・・・・・」
「つまり、今ここで実践してみると・・・・」

アスカはそう言うと、立ち止まる。僕も綾波も、アスカにあわせて立ち止まっ
た。すると、アスカは一度僕の顔をキッとにらみつけると、綾波の方を向いて
話して聞かせた。

「アタシはシンジがアンタに気のきいた言葉をかけたんで、気に食わなく思っ
てるとするわね?」
「・・・・うん・・・・」
「で、それに対して、アタシがどうするかって言うとひとつの方法として・・・・」

アスカはそう言いながら僕の方を向いた。そして、大きな声で言った。

「・・・ここでビンタする!!」

ビシャン!!

僕はいきなりの事だったので、アスカのビンタをもろに食らってしまった。
そして、アスカはと言うと、片手で抑えながら頬の痛みをこらえている僕など
まるでいないかのように、綾波に向き直るとこう言った。

「・・・でも、ビンタばっかりじゃシンジに嫌われるし、アタシの心も痛むか
ら、時々はこうしてやる訳。」

アスカはそう言うと、話について行けていない僕の顔をいきなり引き寄せると、
唇と唇を重ねあわせた。

「んむ・・・・」

そして、しばらくしてアスカがようやく僕から唇を離すと、まるでキスなどし
なかったかのように、また綾波に向かって言った。

「と、キスもしてみる訳。いわゆる、飴と鞭の使い分けよね。わかった?」
「・・・・うん。でも・・・・・」
「でも、なんなの?」
「碇君を叩くなんて、私にはとても・・・・キスならいくらでも出来るんだけ
ど・・・・」
「まあ、はじめはそうかもしれないわね。でも、男っておかしなもんで、たま
にこうしてひっぱたかれると、それを新鮮に感じて喜ぶもんなのよ。」
「・・・本当・・・・?」

綾波がアスカの言葉を信じかけている。それを見た僕は、慌てて綾波に叫んだ。

「あ、綾波っ!!アスカに騙されちゃ駄目だ!!僕はひっぱたかれるのは全然
うれしくないんだからね!!」

僕がそう言うと、綾波は心に迷いを生じさせたのか、尋ねるようにアスカの方
に視線を向けた。すると、アスカはいかにもわかった顔をして綾波に言って聞
かせた。

「まあ、シンジの言う事も正しいんだけど、甘やかしてばっかりじゃつけあが
るし、キスの価値も下がるわ。だから、ビンタは程々に、キスは濃厚に・・・」

アスカの話はとんでもない話だ。その相手はこの僕だと言うのに・・・・
僕がそう思っていると、綾波が僕の目の前に近付いてきていた。そして、小さ
な声でこう言う。

「・・・私以外の人とキスなんかして・・・・碇君のばか。」

そして、ゆっくりと僕のほっぺたに手をやると、本当にやさしく、ぺちりと叩
いた。綾波のそれはアスカのとは雲泥の差があるもので、痛くもかゆくもない
音だけのものであった。しかし、綾波が僕に手を上げた事、そして、僕の事を
馬鹿といった事に驚き入っていた。
しかし、そんな呆然としている僕に対して、綾波は更に追い撃ちをかけた。

「・・・でも、碇君の頬、真っ赤になってかわいそう。だから・・・・」

そう言うと、綾波はそっと僕に顔を寄せて、頬に唇をつけた。そして、しばら
く唇を触れさせてから、また静かにそれを離すと、ちょっと顔を赤らめて恥ず
かしそうに僕に言った。

「・・・・これで少しは、よくなると思うから・・・・・」

そして、綾波はアスカの方を向いて尋ねた。

「・・・こんな感じでいいの?」
「・・・・アンタ、やるわね。」
「・・・じゃあ・・・・」
「いいに決まってるでしょ!?シンジだけじゃなく、アタシまでぼーっとしち
ゃったわよ。」
「・・・・よかった。」
「全く・・・アタシは余計な知識を付けちゃったかしらね?まあ、こっちの方
がより女の子らしくていいんだけど・・・・シンジ、いつもでぼーっとしてん
のよ!!しゃきっとしなさい!!」
「あ・・・・ごめん、アスカ。」

僕はアスカに言われて、ようやく正気を取り戻せた。すると、綾波が僕にまた
近寄ってきて、済まなそうにしながら小さな声で言ってきた。

「・・・碇君・・・・ごめんなさい。碇君のこと、叩いちゃって・・・・」
「い、いいんだよ、別に。綾波のは、アスカのとは違って全然痛くなかったか
ら・・・・」
「・・・ほんとに?」
「うん。だから・・・・アスカの真似はしないでね。僕の顔が変形しちゃうか
ら・・・・」

僕は綾波にそう言うと、綾波の後ろに控えていたアスカが、鬼の形相をして、
僕に迫ってきた。

「シ〜ン〜ジ〜・・・・・」
「ア、アスカ・・・・」

僕はアスカの迫力に押されてじりじりと後ろに下がる。しかし・・・

「このバカシンジ!!」

アスカのビンタからは逃れられなかった。その強烈な一発は、さっきのアスカ
のビンタが、まだ僕に対して手加減を加えていたものだと気付かせてくれた。
だが、そんなことはもはや既に遅く、僕のほっぺたは真っ赤に腫れ上がる事と
なったのであった・・・・・


続きを読む

戻る