私立第三新東京中学校

第百三十八話・汚された唇


「ただいま・・・・」

僕は家に着くと、気のないただいまの挨拶をして、玄関にあがった。
すると、アスカと綾波が僕の元に転がるように慌ててやってきて、僕を出迎え
てくれた。

「お、おかえりっ、シンジ!!」
「おかえりなさい、碇君。」
「あ、ああ、ただいま・・・・」

僕は一度ただいまを言ったにもかかわらず、この二人の様子に思わずもう一度
言ってしまった。

「シンジ・・・・駄目だったの?」
「え・・・?」
「ほら、お父さんとの話よ。シンジ、何だか元気がないから・・・・」

アスカには僕がそう映っていたのかもしれない。僕は全然そんなつもりはなか
ったが、まあ、成功に終わったならば、僕がうれしそうな顔で元気よく帰って
くるだろうと予測する方が自然だろう。僕もはじめの調子だと、アスカの予測
通りになっていたはずなのだが、渚さんとあってしまった事によって、僕の精
神状態は大きく狂わされてしまったと言わざるをえない。別に不快感に満ちて
いたとか、そう言うのではないのだが、やっぱり渚さんによって喜びの感情が
そがれてしまったのは事実だろう。

「そ、そんな事ないよ。話はうまく行ったよ。」
「じゃ、じゃあ、引っ越しの話はどうなったの!?シンジはお父さんと一緒に
暮らす事になった訳!?」
「う、うん・・・結局はその事だけしか解決しなかったんだけど、一緒に暮ら
す事によって、もっとお互いに分かり合って行けるような気がするから・・・・」

僕はアスカにそう言いながら、喜びが再び思い起こされてきて、うれしそうに
笑みをこぼしていた。僕の言葉を黙った聞きながら、そんな僕のことを見つめ
ていたアスカは、僕に向かってちょっと微笑みながらこう言ってくれた。

「おめでとう、シンジ。よかったわね。」
「あ、ありがとう、アスカ・・・・」

そして、僕とアスカのやり取りを見ていた綾波も、まるでアスカを真似するよ
うに僕に言葉をかけた。

「・・・おめでとう、碇君・・・・」
「綾波もありがとう。」

僕は軽い微笑みを浮かべながら、幸せいっぱいに綾波に応えた。しかし、そん
な僕に対して、アスカが言いにくそうに声をかけてくる。

「と、ところでシンジ・・・?」
「何、アスカ?」
「あの・・・・アタシの事、どうなった?」
「アスカの事・・・?」
「忘れちゃったの!?ほら、シンジが引っ越すなら、アタシも一緒について行
きたいって行ったでしょ!?」
「あ・・・・」

僕は完全に舞い上がっていて、その事をうっかり忘れていたのだ。僕はその大
事な事を思い出すと、何だか背筋が寒くなってきた。

「も、もしかして・・・・冗談じゃなくって、本当に忘れてたって言う訳?ア
タシがあんなにしつこく念を押したって言うのに・・・・」
「そ、その・・・・ごめん、アスカ!!ほんと、ごめん!!」

僕はもう、謝るしかなかった。今の僕にははっきり言って、弁解の余地などな
く、ただ謝罪する事しか出来なかったのだ。

「このバカシンジ!!アタシの事なんて、どうせどうでもいいって思ってたん
でしょ!?」
「そ、そんな事ないって!!わ、忘れちゃってたのは謝るけど、僕は別にアス
カをどうでもいいなんて思ってなんかいないから!!」
「嘘おっしゃい!!アタシの事を一番大切に思ってるんだったら、その大切な
アタシの頼みを忘れる訳ないでしょ!?」
「ご、ごめん!!勘弁してよ、アスカ!!謝るから、ね!!」
「問答無用!!アタシとの約束の重大さを、身を以って教えてあげるわ!!」

アスカは大声でそう言うと、右手を大きく振り上げた。僕はアスカのビンタが
来ると思って反射的に身体をすくめたが、僕は自分が悪かったと自覚していた
ので、その罰を甘んじてうけようと思い、それを避ける気は全くなく、ただじ
っとしていた。しかし・・・・

「待って!!」

綾波が僕とアスカの間に割って入る。そしてアスカはすんでのところで右手を
宙に止めた。しかし、アスカは振り下ろした手を止めはしたものの、その矛を
収めることなく、上に持ち上げたまま綾波にこう言った。

「アンタがシンジをかばうのはわかるけど、悪いのは100%シンジなのよ!!
それに、いくらシンジが好きだからって、甘やかさないでけじめを付ける事が
大事なの!!わかる!?」
「・・・わかるけど、でも・・・・・」
「わかるならそこをどきなさい!!」
「・・・碇君を許してあげて。こうして反省してるんだし・・・・」
「駄目よ!!それに、アンタだってシンジに裏切られたんでしょ!?アンタも
アタシと同じでシンジの奴に一発くれてやるべきなのに!!」
「・・・・私はとても、碇君に手なんて上げられないわ。それに、碇君が痛い
目に会うのも黙ってみていられない・・・・」
「・・・・・」
「・・・だからお願い、碇君を許してあげて。なんなら、私が碇君の代わりに
ぶたれてもいいから・・・・」

アスカはまるで僕を守るかのように自分の前に立ちはだかっている綾波の様子
を見ると、ようやくその振り上げられた手を下ろして、静かにこう言った。

「・・・・わかったわよ。シンジの事は、殴らないでおいてあげる。」
「ありがとう・・・・」

綾波はアスカの言葉を聞いて安堵したのか、緊張を緩めてそう言う。すると、
アスカは綾波に向かって、気に食わないような顔をして宣言した。

「言っとくけど、アンタに免じてシンジを殴らないんだからね!!だから、シ
ンジの罪はこれっぽっちも無くなった訳じゃないんだから!!」
「・・・・碇君を許してあげて・・・・・」
「アタシがひっぱたくのをやめたって言うのに、まだそんなこと言うの!?信
じらんないわね!!」
「・・・・碇君が人の怒りをかうなんて、嫌だから・・・・」

そう言い張る綾波に、アスカは呆れてしまって、話の矛先を転じた。

「なら、アンタはどうするって言うの?シンジに裏切られたって言うのに・・・・」
「・・・私は碇君に裏切られてなんかいないわ。碇君はただ、忘れてしまって
いただけなんだから・・・・」

アスカは綾波の言葉にじれったさを感じながら、大声で綾波に細かく言った。

「そうかもしれないけど、アンタもアタシの言いたい事、すぐわかってよね!!
つまり、シンジの過失に対して、どう責任を取らせるかって言う事よ!!」
「・・・・そう・・・・私はそんなこと、どうでもいいんだけど、あなたがそ
う言うのなら、私は・・・・」

綾波はそこまで言うと、いきなりアスカに背を向けて、綾波の背中に隠れるよ
うにしていた僕と顔を見合わせた。そして、僕に向かってこう言う。

「・・・碇君、私はこれで、碇君を許してあげる・・・・」

綾波はそう言うと、僕に唇を寄せてきた。僕はよけようと思えばよけられたの
だが、さすがにここで綾波のキスを避ける訳にはいかず、甘んじて綾波の懲罰
を受ける事にした。
そして、アスカが止める暇も無く僕と綾波の唇がひとつになる。だが、綾波は
唇と唇が触れた瞬間、身体をビクッとさせると、いきなり僕から離れた。そし
て、びっくりしている僕に小さな声で言う。

「・・・碇君・・・・・」

すると、綾波の背後にいたアスカが、怒りよりも疑問の方が勝って、いぶかし
げな表情で、僕よりも先に綾波に尋ねた。

「レイ、アンタどうしたって言うのよ・・・・?」
「・・・・碇君・・・・・・」

綾波は呆然としている。アスカはそんな綾波にじれったくなったのか、綾波の
顔が見えるようにちょっと身体をまわすと、さっきよりも大きな声で綾波に尋
ねた。

「レイ!!どうしたのよ!?」

すると、綾波はアスカの声にようやく心を現実に戻すことが出来たのか、アス
カに向かってひとつ小声で尋ねた。

「・・・・あなた、私の知らない間に、碇君にキス・・・した?」
「は!?なに言ってんのよ!?そんなのしてる訳ないでしょ!!」
「・・・・・」
「何でそんな事アタシにきく訳よ!?訳わかんないじゃないの!!」

綾波はアスカの追求に、顔を伏せたままで答えた。

「・・・碇君の唇、別の人の味がしたの・・・・・」

綾波の言葉を聞いたアスカは、瞬時にそれがどういう事かを悟って、僕に向か
って厳しい顔で詰問した。

「・・・シンジ、どういう事?」
「あ、そ、それは・・・・」
「はっきり言いなさい!!」

アスカの声は苛烈だ。その厳しさは、先程の比ではない。僕はそんなアスカに
気おされてしまったが、それでも何とか答えらしい言葉を口にすることが出来
た。

「そ、その・・・・渚さんに・・・・・」
「渚ですって!?あの女に!?」
「う、うん・・・・今日、帰り際にばったり出会って、一緒に帰る事になった
んだけど、去り際にいきなり・・・・・」

僕がそう言うと、アスカはまるで遠くにいる渚さんに怒りをぶつけるかのよう
に大声で叫んだ。

「あの女!!今日大人しくしてたかと思えば!!そういう事だったのね!!」

一方、アスカとは対称的に綾波は静かに黙っていたのだが、感情を言葉に出す
アスカと違って、綾波は行動の人だったのだ。綾波はいきなりどこからかハン
カチを取り出すと、僕の唇にそれをあてがって拭き始めた。

「んむっ!!」
「碇君の唇をあれが汚すなんて・・・・・」

綾波は僕の小さな抵抗も気にせずに、まるで自分の中に入り込んでいるかのよ
うに、低くそうつぶやいた。そして、僕は改めて気がついた。綾波が渚さんを
「あれ」と呼んでいる事に。まるでそれは、綾波が渚さんの事を人とは認めて
いないかのような言い方だった。そして、綾波の言葉の中には、渚さんに対し
て怒りと憎しみしか感じ取ることは出来なかった。
僕はそんな綾波の渚さんに対する態度に戦慄を覚えたが、綾波はそんな僕に余
裕を与えることなく、僕の唇をハンカチで拭くのを止めると、小さな声でこう
言った。

「碇君の唇、私がきれいにしてあげる・・・・あれのものが微塵も残らないよ
うに・・・・」

そして、綾波は自分の唇で僕の唇を強引に塞いだ。それはかなり力強いもので、
僕はびっくりしてしまった。

「レイ、アンタ・・・・」

アスカも、綾波が僕にキスしているうんぬんよりも、綾波の様子に驚き入って
いるように声をあげた。しかし、綾波はそんな言葉は耳にも入っていないかの
ように、僕の唇に押し付けてくる。そして、最後に僕の唇をついばむようにし
て唇を離すと、僕に向かってこう言った。

「・・・これで碇君の唇は、きれいになったと思うから・・・・」

僕もアスカも、そんな綾波に返す言葉がなかった・・・・・


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