私立第三新東京中学校

第百三十七話・渚とカヲル


「・・・もう終わりかね?」

冬月校長が穏やかに尋ねる。

「は、はい・・・・」
「どうだね、成果のほどは?」
「僕が一緒に暮らしたいって言ったら、好きにしろって・・・・」
「そうかそうか。よかったな、シンジ君。」
「はい。父さんらしい受け答えでしたが、ひとつ屋根の下に暮らせる事になっ
て・・・・」

僕は喜びを隠し切れない様子で、冬月校長に言った。冬月校長も、僕達親子の
仲が、少しずつではあるがよい方向に向かっている事を感じて、笑みをこぼし
ていた。

「で、引っ越しはいつかね?」
「出来れば、明日には・・・・」
「そうか・・・いや、おめでとう。私もうれしいよ。」
「ありがとうございます。じゃあ、僕はこれで。」

僕は冬月校長との話を切り上げると、そそくさと校長室を後にした。別に冬月
校長と話しているのが嫌な訳ではなかったのだが、ここでこうしていても仕方
なかったし、冬月校長は僕にとって喜びをぶつけてもよい相手ではなかったか
らである。

僕が廊下に出ると、辺りは静かだった。
それほどの時間を費やした訳ではなく、実際のところはほんの数分の出来事だ
ったのだが、もともとここは校長室の前と言う事で、生徒が騒がしく集うとこ
ろではなかったし、既にその数分でほとんどの生徒は下校してしまったか、そ
れとも部活動をしに行ってしまったかのどちらかだった。
しかし、それ以前の問題として、僕は完全に舞い上がっていた。僕にはこれか
らしなければならない事が山ほどあったはずなのに、僕の頭の中には、早く家
に帰って荷造りをする事しかなかった。まあ、父さんと一緒に暮らせると言う
事は、僕にとってはかなりの重大事だったので、仕方の無い事なのかもしれな
い。ともかく、僕は足早に廊下を進むと、下駄箱へ向かった。
閑散とした廊下には、僕を邪魔するものなど誰一人としていない。僕は誰にも
声をかけられる事なく、あっというまに下駄箱に到着した。僕は自分の靴を取
り出し、上履きと履き替えると、校舎を出ようとした。しかし・・・・

「・・・遅かったね、碇シンジ君。」

そこには、渚さんがいた。しかも、まるで僕の事を待っていたかのように・・・・

「な、渚さん・・・・」
「君が来るのをずっと待っていたんだ。一緒に帰ろうと思って・・・」
「そ、そう・・・ごめん・・・・」
「いや、いいんだよ。僕が勝手に待っていたんだから。」
「そ、それより、アスカや綾波達と一緒に帰ったんじゃなかったの?」
「ああ。僕が声をかけなかったら、忘れられてしまったみたいだ。まあ、仕方
ないんだけどね。」

渚さんはちょっと苦笑しながら僕にこう言う。確かに、今日の渚さんはここ数
日とは違って、自分から口を出す事がほとんど、いや、皆無だったかもしれな
い。だから、まだ僕達の仲間として日の浅い渚さんが忘れ去られてしまったの
も、恥ずかしい話無理のないことなのかも知れない。それに、渚さんはどっち
かって言うと空気みたいなところがあって、自分からそうしようと思うと、全
く存在感を感じさせないのだ。それと反対に、自分を誇示しようと思えば、誰
よりも目立つ存在になり得たのだが・・・・

「一緒に帰っても・・・・いいだろう?」
「う、うん・・・・」

ちょっと僕が考えに沈んでいると、渚さんがそう切りだして来た。僕は軽くう
なずいて返事をすると、渚さんと一緒に校舎を出ていった。

「・・・シンジ君?」
「な、何、渚さん?」

渚さんは、僕の顔を覗き込むようにして、声をかけてきた。僕はそんな渚さん
の微笑みを見て、今日、学校で感じた渚さんのもう一つの顔を、すっかり忘れ
てしまっていた。

「はじめて、二人きりになれたね。」
「そ、そうだね・・・・」
「僕はずっと、君と二人で話がしたいと思っていたんだ。」
「そ、そう・・・・」
「僕も一応、こんな格好をしているけど、女なんだからね・・・」
「そうだね。うん・・・・」

僕の返事はなんだかおかしい。どうやら僕は、いろんな意味で、渚さんの前に
来ると落着くことが出来ないようだ。それが、渚さんの雰囲気から来るものな
のか、それとも、僕が忘れたいあの人物の面影を感じるからなのかは、僕には
わからなかった。

「・・・・そう、君にひとつ、聞きたい事があったんだ。」
「何、渚さん?」
「僕がはじめて君と会ったとき、君は僕を見て、びっくりしたよね。あれはど
うしてなんだい?」
「え・・・・」

僕はまさか、渚さんがこの話を出してくるとは思っても見なかった。まあ、聞
かれても当然の事だったのかもしれないが、僕が意識的にそれを避けていたの
かもしれない。
でも、僕はその事に気付くと、いずれ渚さんともはっきりとさせておくという
事を思い出した。そう、僕は過去からも、逃げ出してはならないのだ。

「僕が自分から名乗る前に、僕の事をカヲル君って、まるで既に知っていたか
のように呼んで・・・・」

渚さんは僕に返事を求める。僕も、自分の心の中で決意して、まだ誰にも話し
ていなかった事、アスカにも綾波にもミサトさんにも話していなかった、あの
カヲル君とのことを、このカヲル君にそっくりな不思議な女の子に話そうと思
った。

「・・・・僕に、友達がいたんだ。」
「・・・・」
「銀色の髪と、真っ赤な瞳をしていてね・・・・そして、湖のほとりで歌って
いたんだ。」
「・・・・」
「僕はその時、一人ぼっちだった。でも、彼は僕を包んでくれた。そして、僕
をはじめて好きだって言ってくれたんだ。」
「・・・・」
「僕はうれしかった。こんな僕を好きだって言ってくれる人が、一人でもいた
事を・・・・」
「・・・・」
「だから僕は、こんな僕の事を必要としてくれる人がひとりでもいてくれるん
だったら、僕はここにいてもいいんじゃないかって思ったんだ・・・・」
「・・・・」
「でも・・・でも・・・・・・」

僕はそこで言葉を詰まらせた。ここから先は、僕にとって、まだ記憶に鮮明に
残る、辛い出来事だったからだ。しかし、僕の独白を黙って聞いていた渚さん
は、静かに僕に続きを促した。

「でも・・・・?」
「・・・・でも、僕は彼をこの手にかけてしまった。みんなが彼を、敵だって
言うから。彼はいてはいけない存在だからって・・・・・」
「・・・・・」
「・・・僕のこの手は、真っ赤な血に染まった。そして、彼を握り潰したとき
の感触は、今もはっきりこの手に残っている・・・・」
「・・・・・」
「その僕が殺してしまった友達の名前が、君と同じ渚カヲルと言うんだ。それ
に外見もうりふたつで。だから・・・・」
「・・・シンジ君・・・・」
「だから僕は、君がそうして欲しいって言っても、君の事をカヲル君とは呼べ
ないんだ。僕にとってのカヲル君は、もう死んでしまった存在なんだから・・・・」
「・・・・・」

僕はそう言い終えると、現実の感覚に戻って、ちょっと恥ずかしそうに渚さん
に謝った。

「ごめんね、渚さん。余計な事を言っちゃって。渚さんには全然関係無い事な
のにね。」

すると、渚さんは僕に向かってこう言ってきた。

「そんな事無いよ、シンジ君。僕は、君の本当の言葉が聞けてうれしかった。
だから、そんなに気にしないで欲しい。」
「・・・ありがとう、渚さん・・・・」
「でも、これからは僕の事を、渚さんじゃなく、カヲル君と呼んでくれないか
い?」
「え!?ど、どうして!?僕が今言って聞かせたばかりなのに・・・・」
「君にとって、カヲル君というのは、とても大切な存在だったんだろう?」
「う、うん・・・・」
「だから、僕も君にカヲル君と呼んで欲しいんだ。君の大切な、カヲル君にな
れるように・・・・」
「で、でも・・・・・」
「僕とそのカヲル君とは、うりふたつなんだろう?だったら、僕はそのカヲル
君の生まれ変わりかもしれないね。もう一度、君に会うために・・・・・」
「な、渚さん・・・・」
「カヲル君・・・・だろ?」
「カ、カヲル君・・・・・」
「ありがとう。僕も君のカヲル君でいられるように、努めてみるよ。」
「・・・・・」
「じゃあ、これはほんの挨拶代わりに・・・・・」

渚さん、いや、カヲル君はそう言うと、僕の肩に両手をそっとかけて、僕に顔
を近づけた。そして・・・・

「・・・・これでいい。じゃあ、シンジ君、気を付けて・・・・」

カヲル君は僕にキスをすると、そのまま僕と離れて立ち去っていった。
カヲル君にキスをされた僕は、呆然として立ち尽くしていた。僕は、カヲル君
の唇の触れた自分の唇を、軽く手の平で押さえながら、カヲル君の後ろ姿を眺
めていた。
しかし、僕はカヲル君に突然にされたキスに対して、嫌な気持ちがまるでなか
った。それよりも、なんだかふんわりとした気持ちになって、心が安らぎを覚
えた。こんなキスははじめてだった。そんな特別なものではなかったのに、な
ぜか僕の中では特別に感じていた。それがカヲル君の言葉の中から来るものな
のか、それともカヲル君の持つ独特の雰囲気なのか・・・・

と、僕はそこまで考えてみて、はじめてある事に気がついた。僕はいつのまに
か、渚さんと呼んでいたはずのこの女の子を、カヲル君としてみとめている自
分に・・・・
このカヲル君が、あのカヲル君の生まれ変わりだとまでは、さすがの僕も思え
なかった。しかし、この二人の間に外見や言葉遣い以外の何らかの共通点があ
る事は、僕も肌で感じていた。それは、僕がただ単に外見や言葉遣いにとらわ
れてしまっていて、ちょっとした事にまで当てはめてしまっているのかもしれ
なかった。
でも、この渚カヲルと言う名の女の子を、これから何と呼んだらいいのか・・・
いまだにそれは僕には大問題だった。

「カヲル君・・・・か・・・・・・」

僕はその名をつぶやいてみる。
誰も聞いてなどいないそれは、僕の耳にはなぜか懐かしいものに響いた。
ほんの短い間の事だったのに、カヲル君との思い出は、今もずっと僕の心に刻
まれている。それは悲しみや苦しみも含んでいたが、間違いなく喜びも存在し
ていた。
僕は改めてその事に気がつくと、少し心が軽くなった。そして、決断を後に引
き伸ばす事に決めた。そう、それは明日彼女と顔を合わせてからでも、遅くは
ない事だから・・・・・


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