私立第三新東京中学校

第百三十一話・今が一番幸せだから


綾波は泣いていた。
僕は今まで、何度か綾波が涙を流すのは見た事があった。しかし、綾波がまさ
に声をあげて泣くところを見たのは、これがはじめての事だった。
今までの僕の言動で、綾波を傷つけた事はあったが、僕はその都度、色々とご
まかして綾波を慰めていた。だが、それは逃げだった。僕の、綾波がまた元に
戻ってしまうのではないのかという危惧は、所詮僕の言い訳にしかすぎず、僕
は自分のせいでもめごとが起きるのが嫌で、そうしてきたのであった。それが
綾波のためにならないと解っていたのに・・・・
しかし今、僕は一歩前進した。真実が辛いからと言って、幻想にばかり目を向
けているのではなく、もうそれに真正面から立ち向かわなくてはいけないのだ。
そのことは、僕にも、そして綾波にも言える事であり、その苦しみを乗り越え
てこそ、真の幸せが巡ってくると僕は信じていた。

だが、僕は綾波に何と言ってよいのか・・・?

それが問題であった。別に僕は綾波の事が嫌いとか、そういう事は全くないの
だが、綾波から見ても、誰の目から見ても、僕が綾波を振ったという風に見え
て当然であった。今までならアスカに助けを求めてもよかったのだが、僕がア
スカを選んだ手前、アスカが綾波に何を言ったとしても、それは勝者が敗者へ
情けをかけているとしか捉えられないだろう。
だから、今の僕にはアスカを頼る事は出来ない。ここでアスカを頼れば、また
アスカを苦しめる事になる。僕はそう思うと、自分で言うしかなかった。僕が
言うのもアスカが言うのも、大して変わりはないのだが、少なくともアスカが
苦しむという事はなく、苦しむのは僕一人で済むのだ。

僕が覚悟を決めて、綾波に近寄ろうとしたその時、一人の人物が綾波に声をか
けた。

「綾波、しっかりせいや。」

それはトウジだった。誰も綾波に話し掛けることが出来なかった中、トウジだ
けはそれを実行に移すことが出来たのだった。僕はそれを見ると、取り敢えず
トウジの様子を見る事にし、綾波に話し掛ける事はやめた。

「いつまで泣いててもしゃあないで。ほれ・・・・」

トウジはそう言うと、自分のポケットからハンカチを取り出して、綾波に差し
出した。しかし、綾波はうずくまって顔を隠したまま、トウジに応えようとは
しなかった。トウジはそんな綾波を見ても、怒る事もなく、根気よく綾波に語
り続けた。

「シンジはあないなこと言っとるけどな、気にする事あらへんで。」
「・・・・・」
「そもそもシンジは惣流にだって大して気はあらへんのや。まあ、どっちかっ
て言うと惣流寄りっちゅうだけで、綾波と大差はないと、わいは思うけどな・・・・」
「・・・・ほんと?」

トウジの言葉に、綾波は泣きはらした顔を上げると、小さくトウジに尋ねた。
すると、トウジは幼子をあやすかのように、やさしく言葉をかけた。

「ほんまや。シンジはおかしいとこがあって、女には興味を示さんからな。せ
やから綾波も絶望する事なんてないで。」
「でも・・・・」
「心配すんなって。惣流から、シンジの心を奪うくらいのつもりでいったれ!!
現実に立ち向かいそれを乗り越える、シンジはそういう事を言いたかったんや
と、わいは思うで。」
「・・・・碇君の心を・・・・・あの人から奪う・・・?」
「せや。綾波になら、出来ると思うで。」
「でも・・・・」
「なに、惣流は野蛮な女や。わいはあないな女よりも、おしとやかな綾波の方
が、ずっと魅力的に見えるけどな。」
「・・・・碇君も・・・・・碇君も、そう思ってくれる?」

綾波は、トウジに向かってそう尋ねた。するとトウジは、大きくうなずいて綾
波に答えた。

「それは、綾波次第や。綾波が頑張れば、きっとシンジは綾波の方を向いてく
れるはずや。そもそも綾波は惣流に遅れをとっとったからな。これから挽回す
ればええんや。」
「・・・うん。私、頑張ってみる。」
「せや!!その意気や!!」

トウジのおかげで、綾波もようやく僕が意図した事を理解してくれたようだ。
アスカはと言うと、トウジの自分に対する中傷まがいの言葉にかちんと来てい
たようだが、それが本音なのか、それとも方便なのかはともかく、その言葉が
綾波を立ち直らせてくれたのであるから、何も文句は言えなかった。

そして、綾波はようやく元気を取り戻して、ゆっくりと立ち上がると、並んで
立っていた僕とアスカに向かって、大きくはないが、力強い口調で宣言した。

「・・・私、あきらめないから。碇君が私に振り向いてくれるまで、ずっと頑
張り続けるから。そして、絶対にあなたには負けないから。」

すると、アスカも綾波のそれを受けて、大きな声で応えた。

「望むところよ!!受けて立つわ!!アタシだって、絶対にアンタにシンジの
心を盗られたりはしないわよ!!」

アスカは口ではそう言っていたが、何だか嬉しそうだった。きっとアスカも僕
と同じ気持ちなんだろう。綾波には悪いが、やっぱり今の僕は、綾波よりもア
スカの方が、ずっと心が通じ合えているような気がした。

そして綾波も、そんなアスカに対して、勢いづいたのか、トウジに言われた事
を言ってみた。

「あなたはただ、碇君と一緒に住んでただけなんだから。だから、碇君は私よ
りもあなたに心を寄せたの。きっとこれから時間が経てば、碇君も私の良さを
解ってくれるわ。」
「そうかもしれないわね。だけど、アタシの良さだって、これからもっとシン
ジは知っていくはずよ。だから、きっとアタシとアンタの差は縮まらないわよ。」

アスカのちょっとした意地悪。確かにアスカの言う通りだった。アスカもちょ
っとうっぷんばらしでもしたのだろう。
綾波はアスカのこの言葉を聞くと、困った顔をしたが、小さな声でこう言った。

「・・・不公平よ。今度はあなたがしばらく家を出ていって。そうすれば、条
件は同じになるから。」

綾波の言葉を聞いたアスカは、綾波に向かって顔を突き出すと、こう言って見
せた。

「い・や・よ!!今更シンジと別のところで暮らすなんて、そんなの出来る訳
ないじゃない!!」
「ずるい・・・・」
「ずるくて結構!!勝負の世界に、ずるいもへったくれもないのよ!!そう覚
悟しておきなさい!!アタシは欲しいものを手に入れるためなら、どんなこと
でもするんだから!!」

アスカは、綾波とこういう言い合いが出来るということが、いかにも楽しいと
いう感じで、今まで我慢をし続けていたアスカとは違って、何だか光り輝いて
見えた。そして綾波もまた、自分の世界にもう一人、アスカという人間を入れ
ることによって、明るくなったように感じた。

そして、僕がまるで他人事のように呑気にアスカと綾波のやり取りを微笑まし
く眺めていると、いきなり綾波に腕をつかまれた。

「碇君、あの人より私の方が好きだって、きっと言わせて見せるから。」

綾波はそう言うと、ぐっと僕を自分の近くに引き寄せる。それを見たアスカは、
大きな声をあげて、綾波に言った。

「ちょっと!!馴れ馴れしくシンジの腕をつかまないでよ!!それはアタシの
ものなんだからね!!」

すると、綾波は素知らぬ顔でアスカに応えた。

「そんなこと、誰が決めたの?碇君はみんなのものよ。あなた一人が独占して
いいものではないわ。」
「アタシが決めたのよ!!シンジはアタシ一人が独占してもいいの!!」
「認められないわ。ね、碇君。」
「う、うん・・・・」
「あ!!シンジ!!さっきアタシに言ったこと、あれは嘘だったの!?」
「ち、違うよ、僕はただ・・・・」
「そうよ。所詮あなたのリードなんて、そこまでのものなの。すぐに追いつい
て見せるわ。」

綾波は、僕の言葉も手伝ってか、アスカを言葉で打ち負かす。アスカは言い返
せなくなると、とうとう実力行使に出ることにした。

「く・・・もう、いい加減にその腕を離しなさい!!こら!!」

アスカはそう言うと、綾波の腕を僕から無理矢理引っぺがし、強引に僕の腕を
つかむと、自分の腕に絡めた。

「これが有るべき姿なのよ!!わかった!?」

アスカは綾波にそう言ったのだが、綾波はと言うと、するりと反対側に回って、
僕の余ったもう片方の腕に素早く自分の腕を絡めると、僕に向かってこう言っ
た。

「これが本当の有るべき姿よ。ね、碇君?」
「こら!!人の真似すんじゃないわよ!!」

アスカはそう言って、綾波を追っかける。綾波は、アスカの手から逃れる。そ
んな風に、二人は楽しく僕のまわりをぐるぐるとまわっていた。
今は本当は弁当の時間なのだが、別にどうでもいいことだった。それは僕だけ
が感じたことではないようで、ケンスケもトウジも、微笑ましくその光景を見
守っていた。やはり僕はまだ、渚さんの様子を伺うことは出来なかったが、黙
っているところをみると問題はないのだろう。
そして洞木さんだが・・・・洞木さんは、こっちをじっと見つめていた。しか
し、その目には僕達と同じ物はなかった。洞木さんの表情は、なぜか強ばって
いたのだ。そして、さっきまでこっちを見ていたかと思うと、今度はトウジに
目を移した。トウジはその事に全く気付いていないようすだった。それは、ト
ウジだけでなく、他のみんなも同じ事で、きっと気付いているのは僕だけだろ
うと思った。
洞木さんの表情はなんだか辛いものがあった。そして、僕はある事に気がつい
た。トウジだ。トウジが綾波にやけにやさしくしたので、嫉妬を感じていたの
かもしれない。あの洞木さんにして、と思ったが、洞木さんも年頃の女の子な
んだから、そう思っても不思議ではないだろう。僕はそう感じると、あとでア
スカに言っておこうと思った。洞木さんの相談相手には、僕よりもアスカの方
が適任だし・・・・

「こら、シンジ!!ぼけっとしてるんじゃないわよ!!」

いきなりアスカの声がかかる。

「ごめんごめん。」

別に大した事ではないのだが、僕はすみやかに謝る。すると、綾波が僕に向か
って言った。

「碇君が謝ることなんてないわ。碇君がどうしようと、碇君の自由だもの。も
ちろん、碇君が私のことを考えるのも・・・・」
「ちょ、ちょっと!!まさかシンジ、レイの言う通りじゃないでしょうね!?」
「ち、違うよ。僕が考えていたのは、全然関係ないことだから・・・・」
「そんな、この人をかばうことなんてないのに・・・・」
「かばってなんかないわよ!!今のシンジの顔は、嘘をついてるときの顔じゃ
ないんだから!!」
「まあまあ、ふたりとも・・・・」

とにかく、万事めでたし。洞木さんのことは引っかかるが、こと、僕達三人に
関しては、いい方向に進み始めた気がする。僕はそう思うと、思わず顔をほこ
ろばせた。すると、アスカが僕に突っ込む。

「なに、顔をほのぼのさせてんのよ?」

僕はそんなアスカに答える。

「だって、今が一番幸せだから・・・・」

それは、僕の心からの言葉だった・・・・


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