私立第三新東京中学校

第百三十話・産みの苦しみ


「ファースト、アンタ・・・・・」

アスカが綾波の言葉に声を上げる。アスカもかなり動揺していたのか、最近意
識をして変えた綾波の呼び方が、元の「ファースト」に戻ってしまっていた。

「・・・あなたのどこが碇君を引き付けるの?私も碇君と一緒に住めるように
なって、あなたと同じになったって言うのに・・・・・」
「・・・・・」

綾波がアスカに尋ねる。しかし、アスカはその問いに答えることは出来なかっ
た。アスカは僕が綾波に気を配っているのを知っていたし、自分もそれに協力
して僕の負担を軽くしてあげようという気持ちがあった。しかし、それ以上に
綾波に何か真実めいたことを答えるには、綾波を思えば辛すぎるし、そもそも
アスカにも明確な解答は出来なかったのかもしれない。
だが、アスカの言葉が詰まっても、僕もフォローすることすら出来なかった。
綾波の言葉はいい加減なものなどではなく、したがっていい加減な言葉を受け
入れる余地などなかったのだ。そして、僕もアスカも、ただ黙って綾波の言葉
を聞き続けるのみだった。

「私とあなた、どこが違うの?碇君を想う気持ちなら、私は誰にも負けない。
だから碇君・・・・」

綾波はここで言葉を止めた。
だから、何なのか?その言葉の続きは、さすがの綾波でも言えなかったのかも
しれない。綾波が僕に何を求め、どういう風に変わって欲しいのか、そんなこ
とを綾波がいう権利はなかった。そして、綾波がそれを口にした時、既に答え
はイエスとノーしか存在出来なくなり、僕の答えというのは綾波にとっては、
今や恐れるべきものでしかなかったのだ。
だから、僕は綾波に言葉を続けるように促すことは出来なかったのだが、アス
カはというと、既にごまかすそうとするのを放棄し、はっきりと綾波に向かっ
て言った。

「アタシも、シンジを想う気持ちは誰にも負けてるつもりはないわ。」

アスカの言葉を聞くと、綾波は一瞬アスカをきっと睨み付けた。そして、アス
カに向かって言った。

「・・・じゃあ、どこが違うって言うの?」

すると、アスカは力強い声で、こう断言した。

「アンタとアタシは同じじゃないのよ、レイ。アタシはアスカで、アンタはレ
イ。これって大きな違いじゃない?」
「・・・・どういう事?」
「つまり、個々の人間として、アタシとアンタは違うのよ。たとえシンジを想
う気持ちが同じだとしても、外見も、心も違うの。わかる!?」

すると、綾波は少し考えるような仕種をしてから、わかったというようにうな
ずいて見せた。それを見たアスカは、さらに綾波に続けた。

「人はそれぞれ違うのよ。それと同じで、人の嗜好もまたばらばらなの。だか
ら、シンジが誰を好きになるのかっていうのも、それもまた計算出来ないこと
なのよ。」
「・・・・じゃあ、碇君は私よりもあなたが好きなの?」

話ははじめに戻った。しかし、アスカはそれに対して黙っていることなく、は
っきりと綾波に言った。

「そうよ。シンジはアンタよりもアタシのことが好きなの。だか・・・」
「嘘!!私は信じない!!」

綾波は最後までアスカの言葉を聞くことなく、大きな声でそれを遮った。そし
て、その声にクラス中がびっくりし、辺りは騒然となった。今や僕達の会話と
いうのはほとんど恒例になっていたのだが、それでもいつも落ち着いた綾波が
大声を上げるというのは、そうめったにあることではなかった。
一方、言葉を遮られたアスカは、やや興奮した色を見せて、綾波に大きな声で
言った。

「現実から目をそらしちゃ駄目!!アタシとは違って、アンタは今まで、現実
をきちんと見つめ続けてきたじゃないの!!」

しかし、綾波はもう何も見たくないと言わんばかりに、両手で顔を覆い隠して
しまっていた。アスカはそんな綾波の姿を見ると、更に綾波に言い続けた。

「アンタには現実を見る勇気があるはずよ!!エヴァに乗りながら、アンタは
逃げずにしっかりと立ち向かってきたじゃない!!」

アスカは知らなかった。ここにいる綾波が、僕達と一緒にエヴァに乗って、使
徒との激闘をくぐり抜けて来た綾波ではないことを。
しかし、綾波はその事を知っていた。それが覚えていることなのかどうなのか、
僕にははっきりとしたことはわからなかったが、少なくとも綾波はアスカの言
うことが理解出来た。

「それは・・・・私が、人間じゃなかったから・・・・・」
「ど、どういう事よ?」

アスカは、綾波の口から聞いた思わぬ言葉に、少々たじろぐ。そして、思わず
今まで自分の感じていたことを口に出す。

「た、確かにアンタは人形めいたところがあったけど・・・・」

すると綾波は、アスカに言った。

「あの時の私は、人の命令を聞くだけの人形だったわ。自分の意志など、許さ
れてはいなかった・・・・」
「綾波・・・・」

僕は綾波のこの言葉を、止めたらいいものかどうか、思い悩んでいた。綾波が
自分の事を話すのはいいことだったが、あまり話を進めると、誰かに聞かれて
いるようなところでは話すことの出来ない話が出てくるかもしれなかったから
だ。

「でも、私は碇君のおかげで、生まれ変わったの。人に操られるだけの人形の
ときの私は、心の痛みなんて知らなかったけど、人間になった今は違うの。苦
しみも悲しみも、ちゃんと知ってるの・・・・」
「レイ、アンタ・・・・」
「だけど、私が知ったのは、苦しみや悲しみだけじゃない。碇君の愛を受けて、
私は人を愛し愛される喜びを知ったの。そして、それが碇君への恋だってこと
も・・・・」
「・・・・・」
「だから、私の好きな碇君が、私以外の人を見ているのが耐えられないの。そ
れって、自然なことじゃないの?」

綾波の問いに、アスカは小さな声で答えた。

「そ、それはそうだけど・・・・」
「私は弱くなったのかもしれない。だって、こんなに辛いのが怖いなんて・・・・」

綾波はそう言うと、静かに顔を伏せた。
僕は綾波の言葉を聞いて、はっきりとわかった。綾波が強く見えたのは、本当
の苦しみを知らなかったからだ。そして、人としての苦しみを知った今、綾波
は弱々しかった。今の綾波は、まるで嫌なことから逃げ続けて来た、昔の僕に
良く似ていた。見たくない現実から目をそらし、全てから逃げ続ける。僕はそ
の事に気付くと、僕が自分自身に言い続けて来たこの言葉を、綾波に言うこと
にした。

「・・・・逃げちゃ駄目だよ、綾波。」
「碇君・・・・」

それまで沈黙を保っていた僕の言葉を聞いて、綾波は顔を上げた。それを見た
僕は、更に綾波に語り続ける。

「辛い現実から目をそらしたい気持ちは分かるよ。でも、それは何の解決にも
ならないんだ。現実を直視し、それに立ち向かっていかなくちゃ、何も得るこ
とは出来ないんだよ。」

僕は、半ば自分自身に語りかけていた。自分自身で解っていながら、僕はいま
だに現実から目をそらすことが多かった。昔ほどではなくなったかもしれなか
ったが、今も昔も、根本的なところでは、僕には何の変化もなかった。僕はま
だ、あの時の弱い少年のままだったのだ。

「僕も昔は逃げ続けて来た。でも、それじゃ駄目だってわかったんだ。僕はい
までもまだ逃げ続けてるかもしれない。でも、僕はそんな自分が嫌で、変えた
いと思ってる。それは難しいことかもしれないけど、僕はずっとその努力を続
けるよ。だから綾波も、頑張って欲しい。嫌なことから絶対に逃げない、強い
一人の人間になるように・・・・」

僕の言葉は、自分自身への宣言だった。僕は逃げない。そして、現実から目を
そらさない、強い人間になろうと思った。

「碇君・・・・じゃあ、やっぱり碇君は・・・・碇君が私よりもあの人のこと
が好きだって言うのは、本当のことなの・・・・?」

不安。しかし、その言葉の中にはいちるの希望が託されていた。
僕は今まで、綾波のことをごまかし続けていた。しかし、僕はもう逃げない。
綾波に、僕の口から本当の現実を突きつけることにした。

「・・・僕はアスカが好きだ。」

僕の口から発せられた言葉は、周りの全ての人間を凍り付かせた。
アスカは、二人きりの時にその言葉は既に聞いていたが、大勢の人間の前、特
に、綾波の前で聞いたのははじめてだった。そして、その事実は、アスカがず
っと持ち続けていた疑問、僕がそう言うのは口先だけの事ではないのかという
ことを、はっきりと打ち消してくれた。アスカはその事で胸がいっぱいになり、
綾波のことも忘れて、感動に打ち震えていた。
綾波は、わずかにかき集めた希望を無残にも僕の手で打ち砕かれて、呆然とし
てしまっていた。僕はそんな綾波を見て、かわいそうに思ったが、やむを得な
いことであったので、言葉を取り消すようなことはしなかった。
そして、洞木さんやトウジ、ケンスケは、この僕達の世界に足を踏み入れるこ
とが出来ずに、ただ固唾を飲んで見守っているだけだった。
最後に渚さんは・・・・・僕は目を向けられなかった・・・・

「・・・僕はまだ、人を好きになるとか、そういうのはよくわからない。だけ
ど、綾波よりもアスカの方により好意を感じるんだ。綾波には酷な話かもしれ
ないけど、それが今の僕の気持ちなんだよ。わかってほしい・・・・」

僕がそう続けると、綾波はかすかに体を震わせながら、黙ってじっと僕のこと
を見つめた。そして、その大きく見開かれた紅い瞳から、大粒の涙が流れ落ち
た。涙の滴がゆっくりと綾波の白く透き通った頬を伝い、あごからぽたりと落
ちた。そして、それと同時に綾波は泣き崩れた。
僕は声をあげて泣く綾波に、手を掛けてやりたかったが、それは出来ないこと
だった。そこで僕は黙ったまま、綾波を見下ろしていた。
僕のしたことは、果たして正しいことだったのだろうか?僕は綾波を見ながら、
そう思っていた。しかし、もう後には戻れない。綾波に事実を告げ、一つの道
を選んでしまったのだから。
僕は辛かった。しかし、それは産みの苦しみであった。綾波が、真実に直面す
ることの出来る、強い人間になる産みの苦しみ、そして、僕が現実から逃げな
いで茨の道を突き進み、本当の自分になるための、産みの苦しみなのだ。
僕はこの苦しみを感じながら、一種の満足めいたものを感じていた。それは、
自分がほんの少しだけ成長したことへの、ご褒美なのであろうか・・・・


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