私立第三新東京中学校

第百二十九話・試練の時の始まり


「・・・・シンジ、どうしたの?さっきからあんまり箸が進んでないけど・・・」

アスカが僕の顔を覗き込むようにして、心配そうに尋ねてきた。

「う、ううん。何でもないよ、アスカ。ちょっと考え事。」
「そう・・・ならいいけど・・・・」

アスカは僕の返事に取り敢えず追求を避けた。僕はこれ以上アスカを心配させ
ないために、積極的に箸のスピードを上げた。アスカの視線がまだ僕の上にあ
ることを肌で感じていたが、僕は敢えて何も口には出さずに、ただもくもくと
自分の弁当を消化していった。

僕は弁当を食べながら、いつのまにかアスカから離れて考え事を始めた。

僕は渚さんのことをただおかしな女の子だと思っていた。まあ、確かに男の格
好をしてるから、そういう点が先に来てしまうのかもしれない。それに、いつ
も穏やかな微笑みを浮かべているから、悪い人には見えないのだ。だから、僕
も渚さんへの綾波の過剰なまでの反応というのは、少々疑問視していた。
しかし、僕は先程の渚さんを見て、綾波の反応が当然のことであるように思え
た。綾波は、理性ではなく、本能によって渚さんが危険な存在であることを感
じていたのだ。綾波の渚さんへの反応というのは、単なる僕に好意を寄せる者
を排除しようというものなどではなく、純粋な危険を綾波が感じていたからだ
と、ようやく悟った。そして、僕は自分の思い込みを、僕を守ろうとしてくれ
た綾波に押し付ける結果となっていたのであった。
しかし、渚さんが外見のやわらかな物腰とは裏腹に、案外危険な存在であると
いう事があったとして、それがイコール使徒につながるのだろうか?僕はそう
思うと、さりげなく弁当箱から顔を上げ、渚さんの方に視線を向けた。

すると、渚さんの目は、しっかり僕を捕らえていた。僕はその事に気付くと、
驚きのあまり慌ててまた目を弁当箱に伏せた。しかし、一体いつから渚さんは
僕のことを見ていたんだろうか?僕はそのことを考えると、何だか無性に怖く
なった。

アスカや綾波が僕のことを見ているのは、わかるような気がする。いくら僕が
恋の出来ない人間だとしても、いくばくかの人間の心理くらいは解っているつ
もりだ。渚さんの場合は、口では僕の事が好きだと言った。それに、僕の好意
を求めようとするところも見せている。だが、それには何故だかぎこちないも
のがあったのだった。渚さんが愛を口にするには情熱に欠けていたし、その言
動は感情よりも理性で動いていると思った。
それだけに、僕には渚さんの心がはかりがたく、不可思議なものであった。渚
さんが僕を好きという理由も見付からなかったし、そもそも彼女がそんなこと
を言うのは不自然に思えた。
一体彼女は何者なんだろう?僕には少なくともただの平凡な中学生にはとても
見えなかった。綾波は渚さんの中に使徒は感じないと言った。しかし、綾波が
一方で渚さんを危険視しているのも事実だ。
果たして彼女は何なのか・・・直接聞いても無駄だろう。僕は今日の放課後、
それを知っていそうな数少ない人間の一人、碇ゲンドウに会うのだ。その場で
渚さんのことを聞いてみようと思った。

「シンジ!!シンジったら!!」

アスカが大きな声で僕を呼んだ。僕はその声に、自分がまた箸を進める手を止
めていた事に気が付いた。

「あ、ごめんごめん。ちゃんと食べるから・・・・」

僕は慌てて謝ると、箸を持ち直して弁当に向かった。すると、アスカは心配す
る気持ちを拭い去れずに、僕に言ってきた。

「早く食べろとか、そういう事じゃないのよ。アタシはシンジを心配して言っ
てるの。ここんとこ、シンジは何だか大変みたいだから・・・・」
「・・・・ごめん。」
「謝らないでよ。それより、何か心配事があるんだったらアタシに相談して。
お願いよ。アンタがアタシに相談してくれないんじゃ、アタシがいる意味がな
いってもんじゃない。」

アスカは親身になって僕にこう言ってくれた。すると、綾波もそのアスカの言
葉が気に入ったのか、似たようなことを続けて言ってきた。

「碇君。碇君には私がいるから。だから私に相談して。碇君のことなら、何で
も力になるから。」
「う、うん・・・・二人ともありがとう。」

すると、アスカがちょっと声を荒げて綾波に食って掛かる。

「ちょっと!!アタシの言葉を横取りしないでよ!!アタシが先にシンジに相
談してくれって言ったのよ!!」
「・・・・何か私、悪いこと言った?」

綾波は何故アスカが怒っているのかといったような感じで応える。すると、ア
スカは更に激化させて綾波に言った。

「言ったわよ!!アンタがアタシにシンジと二人のところを邪魔されるのが嫌
なように、アタシもシンジとの二人の会話に勝手に入ってもらいたくない訳!!
それに、論法までアタシのをパクって・・・・・」
「・・・・私、あなたと碇君が二人で仲良くしてるの、見たくないもの。」
「わかってるわよ!!でも、アタシがアンタを許容してる分、アンタもアタシ
に細かく手を出すのは止めなさいよ!!」
「・・・・あなただって、さっき私と碇君が二人で話してた時、邪魔したじゃ
ない。」

綾波の指摘は鋭かった。それにはさすがにアスカも少々たじろいで、言葉に先
程までの強さは見られなかった。

「そ、それは・・・・アタシだって見てらんなかったのよ。そのかわり、後で
ちゃんと修正してやったじゃない。解るでしょ、アタシの気持ち・・・・」
「・・・・・」
「アタシだって、頭の中ではわかってんのよ。シンジを信じてレイの余計な邪
魔はしない方がいいって。でも・・・でも、アタシの心がついていかないのよ。
シンジがアタシ以外の女と仲良くしてるのを見るのが辛くって・・・・」

アスカの言葉は、半ば自分に向けて発せられたようなものであった。しかし、
それだけにその言葉には重みがあり、僕は感じさせられた。そして、綾波につ
いては、何を考えているのか、ただ口を閉ざしていたのだった。

「だから、駄目だと解ってて、つい邪魔しちゃって・・・・」
「アスカ・・・・」

僕はアスカに負担を掛けていることは知っていたので、自分の考えにかまけて、
アスカに余計な苦労ばかり掛け続けていた自分を恥じた。そして、思わずアス
カの名前を口にしていた。
それを耳にした綾波は、少し身体をぴくりとさせる。僕の言葉がアスカを心配
し、済まなく思う気持ちに満ち満ちていただけに、綾波も何かを感じたのかも
しれない。しかし、それがどの程度のものなのか、僕には解らなかったし、今
の僕の頭の中には、アスカしか居らず、渚さんも綾波も居場所を持たなかった。

「シンジ・・・・」
「ごめん、アスカ。何だか苦しめちゃったみたいで・・・・・」
「ううん、アタシこそごめん。シンジの力になりたいって思ってるのに、なか
なか思うようには行かなくて・・・・・」
「アスカは良くやってくれてるよ。アスカのおかげで僕もちゃんとやって行け
るんだし・・・・」
「でも、アタシってやたらと嫉妬深くて、すぐ我慢出来なくなっちゃうでしょ?」
「仕方ないよ。アスカだって人間なんだから・・・・」

すこし、アスカの顔が明るさを取り戻していた。
僕はうれしさにに気を取られて、大事なことを忘れていたのだった。
それは、今ここでしているような話は、家に帰って二人きりの時でしかしない
ような内容であり、学校のみんなが聞いている前、少なくとも綾波の前でする
ような会話ではなかったということである。綾波が僕達のうちに引っ越してき
た時から、アスカは綾波の前ではいつもより控えめな態度を取り、綾波に一歩
譲るような形になっていた。そして、二人きりになると、アスカは我慢してい
た自分を解き放つかのように、いつもより僕に甘えてくるのだった。
しかし、それは綾波に見られてよいものではなかったのだった。少なくとも、
アスカと僕の、まるでお互いを慰め合う夫婦のようなやりとりはまずかった。
その事に気付かせてくれたのは、綾波の言葉だった。

「・・・どうして碇君は、その人だけにそんなやさしい言葉を掛けるの・・・?」

僕はびっくりした。そして、すぐに自分の迂闊さに気がついた。

「あ、綾波、そんな事ないよ。」

僕は慌てて言う。しかし、誰がどう聞いても、僕の言葉は言い訳以外の何物で
もなく、それだけに綾波の言葉の正しさを却って裏付ける結果となった。

「・・・・私も碇君に話し掛けたのに、私もあの人と同じ事をしたのに、どう
して言葉を掛けられるのはその人だけなの・・・?」
「・・・そ、それは綾波の思い過ごしだよ。」

僕は駄目だとわかっていても、弁解を続けずにはいられなかった。そして綾波
の方も、そのまま言葉を続けた。

「・・・碇君のさっきの言葉、すごく心がこもってた。そして、その時の碇君
の顔、私が今まで見た中で、一番やさしそうな顔をしてた・・・・・」
「・・・綾波・・・・」

綾波の止まらない言葉に、僕はただ名前を呼んで応えることしか出来なかった。
そして、綾波は最後にこう言った。

「・・・・碇君はこの人、赤い髪の女を一番思ってるのね。この私よりも・・・」

綾波はとうとう悟った。
しかし、僕はそれには何も言えずにいた。
綾波が僕以外の人間の存在を自分との間に入ってくるものとして認めたことは
うれしいことであったが、そのことが綾波の心にどういう影響を与えるのか、
それが僕は怖かった。僕としては、綾波がこの事をバネにして、自分をより人
間らしく高めることが出来ればと思っていた。
しかし、そこには大いなる危惧があったのだ。そう、それは綾波がこの事で再
び自分を閉ざしてしまうのではないかということ。僕もアスカもそれを恐れる
が故に、綾波に故意にやさしくしすぎていたのかもしれない。僕は今までその
事に疑いを抱いてはいなかったが、しかし、今にして思うとひどい話だ。僕も
アスカも、綾波を特別な存在としてみてしまっていたのであるから。本当は綾
波自身が一番そういう風に思われることを嫌っていたはずなのに・・・・
綾波の心に大きな傷が出来るかもしれないが、これはむしろ仕方のないことな
のかもしれない。そして、これからが大変なところだ。綾波の心を解き、全て
を拒むことなく受け入れてそれに立ち向かうようにしなければならないのだか
ら。
そう、今が試練の時の始まりだ。僕と、アスカと、綾波との・・・・・


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