私立第三新東京中学校

第百二十五話・心の穴


僕達は朝礼を終えて教室に戻ってきた。
まだ一時間目の授業開始までに、いくらかの時間があったので、教室内は話し
声でざわめいていた。僕は自分の席に着くと、授業に必要な教科書やノートを
机の上に並べて、万全な体制を整えた。そして、何気に隣を見てみると、綾波
も僕と同じ事をしていた。綾波は以前から学校では真面目な優等生だったので、
こういう事は習慣づいていたのだろう。
僕が綾波を見ていると、綾波はすぐその事に気がついて、僕の方を向いてこう
言った。

「碇君、忘れ物はない?」
「う、うん。特に無いと思うよ。」

僕はちょっと予想外のことを尋ねられたので、驚きの色を隠し切れずに返事を
返した。すると、綾波は僕が忘れ物をしなかったということよりも、僕と言葉
を交わせたことを喜ぶ感じで、嬉しそうに微笑みながら僕に言ってきた。

「よかった。でも、碇君が忘れ物をしても、私のを碇君と二人で使えば、何も
問題ないのよ。だから安心して。」

僕は別に心配などしていないのだが、綾波が好意で言ってくれていることに水
を差す必要はなかったので、軽く苦笑いを浮かべながら、綾波に応えた。

「ありがと、綾波。もし忘れ物をした時は、喜んで綾波の力を借りるからね。」
「うん。遠慮しないでね、碇君。」

綾波は嬉しそうにうなずきながら、そう言った。やはり綾波は、自分が僕の力
になれるということがうれしいのだろうか?僕にもいくらかそういうところは
あるかもしれないが、人になにかをしてもらうというよりも、人になにかをし
てあげる方が、より充実感を得られるのだろう。僕は何事にも受け身だっただ
けに、そういう風に積極的に人に接する人間になれたらいいと思った。

こうして、僕と綾波はわずかのあいだ、言葉を交わしたのであるが、すぐにそ
れに割り込んで来た人間がいた。それはアスカだった。

「シンジ、ちょっと。」

アスカが僕の席のところにやってきて、僕に何か話でもあるかのような態度を
示した。綾波は、せっかく僕と楽しく話をはじめたところに、邪魔者が入った
ので、露骨にアスカに対して嫌な顔をする。アスカは、自分が僕と綾波が話を
していたところに来たということを知っていたので、綾波にそれにもすぐに気
が付き、綾波に向かってこう言った。

「別にアンタに嫌がらせをしようと思ってる訳じゃないのよ。本当にシンジに
話があるのよ。だから悪いけど、ちょっとシンジを借りるわね。」
「・・・・・」

綾波は気持ちの上では納得していなかったので、何も口に出さなかったが、頭
ではちゃんと理解していたので、アスカの邪魔をしようとはしなかった。アス
カは、もう綾波のことをだいぶ把握しているのか、綾波の険悪な顔と沈黙にさ
らされても、その心を見通したかのように、躊躇することなく僕の手を取ると、
僕を廊下へと連れていった。
僕はアスカが人前で話せないような話があるなど珍しいと思ったので、よほど
重大な話であろうと予期し、少々身構えた。

「シンジ、アンタさっき鈴原の奴と話をしてたでしょう?」

アスカは重々しく僕に尋ねる。しかし、アスカの態度とは裏腹に、アスカの聞
いてきたことが大した事ではなかったので、僕は拍子抜けして軽い口調でアス
カに答えた。

「うん、してたよ。でも、それが何か?」
「何話してたのよ?」
「何って・・・・そんなに大事なことなの?」

僕は、アスカの口調がまだ固いものだったので、ようやくそのことに何かある
のかと思いはじめてアスカに尋ねて見た。するとアスカは、やはり態度を崩す
ことなく僕に答える。

「とっても大事なことなのよ。アタシはヒカリの親友なんだから・・・」
「洞木さん?」
「そうよ。どうせヒカリの話をしてたんでしょ?」
「まあ、確かに洞木さんの話もしたけど・・・・」

僕がそう答えると、アスカはちょっと気になったのか、僕に尋ねて来た。

「その、も、ってのは何よ?ヒカリの話だけじゃなかったの?」
「う、うん。まあ、それに関する話だとは思うんだけど・・・・」
「関する話?」
「うん。男の有るべき姿とか・・・そんな感じかな?」
「なによ、それ?」

アスカは僕の言葉をよく理解出来ないようだ。確かに僕もちょっと言い方があ
いまいだったかもしれなかったので、もうちょっと詳しく説明することにした。

「つまり、女性の想いに応えることの出来る男っていうのは、どういうもんな
のかっていうことだよ。」

アスカは僕の言葉を理解すると、少しぴくりとした。女性の想いに応えられな
い男というのは、トウジだけではなく、僕もそれに該当すると気付いたからで
あろう。アスカは少し身を乗り出すと、僕に向かってこう言ってきた。

「・・・・その話、興味があるわね。もう少し詳しく聞かせてくれない?」
「う、うん。いいけど・・・・」
「じゃあ、お願い。」
「・・・・つまり、僕もトウジも、男として自分を認められる存在にならなけ
れば、女性の想いに応えるなんて出来ないっていうことなんだよ。」
「・・・・」
「自分が一人前だと思えないのに、人を幸せにしてあげることなんて出来ない
だろ?」
「・・・・そんなこと、無いわよ・・・・」
「どうして?」
「・・・・一人前になんて、いつなれるかわかんないじゃない。それよりも、
半人前の男と女で、お互いを磨きあいながら成長して行けばいいじゃない。」

僕はアスカの言葉を聞くと、情けない話ではあるが、それも一理あると思った。
トウジの考えはトウジの考えで、素晴らしいものではあるし、僕にもよく理解
出来たのだったが、アスカの考えもそれはまたそれで、十分納得出来る話であ
った。そんな訳で、僕はアスカに対してこう応えた。

「・・・それもそうだね・・・・」

するとアスカは、まるで僕を説得するかのように、力を込めた口調でこう言っ
てきた。

「人が完全になるなんて、無理な話なのよ。だから、人は一人では生きて行け
ないから、人とのつながりを求めるんじゃないの?」
「・・・・」
「アタシは向上心がないって言う訳じゃないけど、完全になろうとなんて思わ
ないわ。昔のアタシは完全を求めてた。でも、それを否定してくれたのは、シ
ンジだったじゃない。」
「・・・・・・」
「アタシ、はじめてそのことを聞いて、アタシは無理をしていたことに気付い
たの。そして、そういう生き方をやめたら、ずっと幸せに生きることが出来た
わ。」
「・・・・」
「確かに自分で自分を認められるっていうのは、いいことだと思う。でも、そ
れって意識してそうしようとするものなのかな?アタシはむしろ、人と想いを
交わし合い、お互いを高めた後に、やっとそれに気がついて自分が成長したん
だって気付くんだと思う。」
「・・・・・」
「自分が未熟だからって、自分の殻に閉じこもるのは、いいことだとは思えな
いな。むしろ、自分が未熟だからこそ、その殻を捨てて人と触れ合うの。人と
付き合うのを避けていては、自分を大きくすることなんて、絶対出来ないと思
うわ。」

アスカの言葉には、心がこもっていた。そして、そこにはアスカが今まで体験
してきた真実が見えたような気がした。トウジの意見というのは、男の目から
見れば立派なものであって、魅力的な生き方に見えるが、アスカの女性の目で
見ると、そうではないのだろう。そして、アスカのものは現実から生まれた知
恵であるのに対し、トウジの考えというのは理想を求めたものであることを知
った。

理想と現実、どちらが素晴らしいものなのだろうか?
理想なくして、人間の成長は有り得ないが、現実離れした理想というものは、
人を苦しめるもの以外のものではない。しかし、アスカの言葉は、現実にこだ
わって進歩を求めないものではなく、現実の中から、自分を昇華させるという
ものであった。僕はその事に気付くと、アスカの意見の方が正しいのではない
のかと思いはじめてきたのだった。
しかし、アスカの意見を取り入れることになると、僕はアスカの想いを受けな
ければならないことになる。僕はそのことを思うと、なぜか心苦しくなった。
そう、僕は他人を自分の中に受けいれたくなかったのだ。それがどうしてなの
か、僕にはわからなかったが、僕がどうしてトウジの意見にあんなにひかれた
のかというと、それが男らしい立派な考えであるというのはともかく、それが
人を受け入れなくてもいいということを正当化していたからであった。
僕はそのことを頭で理解すると、何だか自分が怖くなった。こんなにも無意識
のうちに人を拒み、孤独でありたいと望んでいる病んだ自分の心を。

僕は心の中で叫んでいた。誰か、僕を助けて!!と。しかし、それは僕の口か
ら発せられることはなかった。そして、僕は自分の心の飢えが満たされない苦
しみを忘れるために、人の心の飢えを満たし、それを眺めることによって満足
していた。
僕の乾ききった心は、どんなに愛を注がれても、潤いで満たされることはなく、
ただそれを通り過ぎて下に流れ落ちていった。それはまるで、穴のあいたバケ
ツでいつまでも水をくみ続けているようなものであった。そして、そのバケツ
の穴を塞がない限り、僕の心が愛で満たされることはないであろう。
しかし、僕にはその穴がどこに開いているのかわからなかった。いくら探して
も、僕の目にそれは見えなかった。ただ、穴が開いていると感じているだけだ
った。
その穴が何なのか、僕はそれを知らなければならない。人を受け入れる受け入
れないは、そのあとの問題なのだ。なぜなら、僕の心に穴が開き続けている限
り、人を受け入れようと受け入れまいと、僕の心が愛で満たされることはない
のだから。

僕はようやくその事に気付いた。そして、その時の僕の顔は穏やかなものだっ
た。アスカの目からすれば、蒼白に映ったかもしれなかったが、僕の心は落ち
着いていた。

「シンジ・・・?」

アスカが僕の様子の変化に気付いて、心配そうな声を上げる。すると、僕はそ
んなアスカに応えて言った。

「僕はどうやらそれ以前の問題だったみたい。だって、僕の心には穴が開いて
いるのだから・・・・」

僕の言葉を聞いたアスカは、よく理解出来ないというような顔をしていた。確
かに、アスカには理解出来ないだろう。壊れた僕の心は。
しかし、アスカはわからなくとも、わからないなりに僕のことを心配してくれ
ていた。アスカには僕が危ういところにいるということが察せられていただろ
う。そして、そんな僕のことを想っていてくれた。
僕は心に愛が満たされなくとも、心に愛が注がれ、僕の心を通り過ぎていくこ
とを感じていた。すると、僕の心は愛に触れた喜びと、それを失ってゆく悲し
みに満たされた。そして、それは僕の心を惑わせ、正しい認識を失わせた。
だから、僕はしっかりしてしなくてはいけない。一刻も早く心の穴を見つけ、
それをきれいに塞ぐために。それが僕のしなくてはならないことであり、僕が
幸せになれる道なのであるから・・・・


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