私立第三新東京中学校
第百二十話・おでこのキス
僕はヘアブラシを手に取り、アスカの髪に当てた。
アスカの髪は、綾波のと違って長いので、僕はブラシを持った片手だけを使い、
もう片方の手を遊ばせておくという訳にはいかず、余った手でアスカの髪を支
えて、ブラッシングし始めた。
「どう、アスカ?」
僕は何となくアスカに声をかける。どう?というのもなんだか変だが、今の僕
にはそのくらいしか口に出て来なかった。
僕の言葉を聞くと、アスカは平然とした口調で答える。
「大丈夫だから続けて。それより、口を閉じて集中した方がいいんじゃないの?」
確かにアスカの言う通りだったので、僕はもうアスカに話しかける事はやめた。
綾波の時は緊張して何も余計な事は言わなかったのに、アスカの時は二回目と
いう事もあって、僕も落ち着いているのだろうか?自分で見てもとても手慣れ
ているとは言えなかったが、それでもアスカの髪を手入れするのはそれほど大
変には感じなかった。
僕はアスカの髪を引っかけないようにゆっくりとブラシをかける。アスカは黙
ったまま僕のなすがままになっている。しばらく時が流れたが、僕はふと思い
付いてアスカに声をかけた。
「アスカ?」
「なに、シンジ?」
「あの・・・・アスカには、何もつけたりしなくてもいいのかな?」
僕がそう尋ねると、アスカはさっきと変わらぬ口調で僕に答えた。
「別に何もしなくていいわよ。」
「どうして?綾波にはしてあげたのに・・・・」
僕は疑問に思ってアスカに言うと、アスカはちょっと声を落として僕に尋ねて
きた。
「シンジは・・・・」
「・・・・」
「シンジは、アタシにしてあげたいの・・・・?」
「う、うん・・・・」
僕は何と言って答えて良いのかわからなかったが、綾波にしてあげたのにアス
カにはしないという訳にもいかないと思っていたので、おずおずと肯定を示し
た。すると、アスカは僕に背を向けたままで、こう言ってきた。
「ありがと、シンジ。でも、アタシの髪をやるのはシンジには無理だから、そ
の気持ちだけありがたく受け取っておいて、後はアタシがやるわ。」
「そ、そう?」
「そういう事なのよ。レイはショートカットだから、シンジでも出来なくはな
いけど、アタシはロングヘアだからちょっとシンジに任せるには心配なの。」
「じゃ、じゃあ、それならはじめから僕が手を出さないで、アスカが全部やっ
た方が良かったんじゃない?その方が、効率がいいし・・・・」
僕が言った事は一般的な目から見れば至極当然の事であったが、そもそも僕が
アスカの髪の手入れをするという事自体、一般的ではないこの状況下において
は、アスカの心を傷付けるものでしかなかった。
「効率とか、そんなのは関係ないでしょ!!」
僕はアスカの言葉を聞いて、その内容よりもその口調から、僕がつい余計な事
を口走ってしまった事に気付いた。そして、僕は慌ててアスカに謝る。
「ご、ごめん、アスカ。アスカの気持ちも考えずに口にしちゃって・・・」
アスカはまだ、振り返って僕の顔を見ようとしなかった。今までと変わらぬ姿
勢で、アスカは僕に語りかける。
「アタシは・・・・アタシは、自分が楽をしたいとか、そういうつもりでシン
ジに髪の手入れをしてもらおうと思ってるんじゃないんだから・・・・」
「もちろんだよ、アスカ・・・・・」
僕はアスカを慰めようとしてそう言ったのだったが、アスカは僕の言葉など気
にせず、そのまま話し続けた。
「・・・・アタシはシンジが好きだから・・・・・好きな人にアタシの自慢の
髪に触れてもらいたいから、アタシはシンジに頼んでるんだから・・・・」
「アスカ・・・・」
「どうしてシンジはアタシの気持ちをわかってくれないのよ・・・・アタシの
方は、こんなにシンジの事が好きで好きでたまらないって、合図を送り続けて
るのに・・・・」
「・・・・ごめん・・・・・」
僕にはそうとしか言い様がなかった。
「アタシがシンジにわがまま言うのは、シンジが好きだから。シンジにかまっ
てもらいたくて、シンジと話がしたくって、それでシンジにわがまま言ってる
の・・・・」
「・・・・・」
「アタシのわがままってシンジには迷惑をかけてるかもしれないけど、アタシ
はそんな風にしか、シンジに自分の想いを伝えられないの。だって、シンジは
自分からは何にもしてくれないんだから・・・・・」
「・・・・・」
アスカはそう言うと、今度は振り返って僕の目を間近に見ながら、訴えかけて
きた。
「それともシンジの方からアタシに伝えてくれる?アタシが満足出来るくらい
に・・・・」
アスカの瞳は真剣さを帯びていた。僕は吸い込まれるようにそれを覗き込んだ
まま、何も言えずに黙ってしまっていた。
「・・・・・」
「シンジからはほんのちょっとでいいの。アタシがシンジにする、何分の一か
のもので構わない。シンジから積極的に示してくれるなら、アタシはどんなこ
とでもうれしいんだから・・・・」
僕はアスカの言葉に、アスカが僕の事をずっと待ち続けて、そして待ちきれな
くなっていたのだという事に気がついた。確かにアスカは僕に自分の気持ちを
明確にしてきたのにも関わらず、僕は自分の意志では何もしてきてやれなかっ
た。全てがアスカに求められて仕方なくしてきた事であった。
アスカは僕が、いやいやというのはちょっと言い過ぎかも知れないが、止む無
くそうしているという事がはっきりとわかっていただけに、必要以上に過激な
態度を取ってきたのかもしれない。
しかし、僕の方にも言い分はあった。僕はアスカの事が好きなのかもしれない
が、僕の心の中ではそれに関して確信が持てなかったし、僕がアスカに抱いて
いる感情は、恋と呼べるものではないという事を、僕は感覚的に知っていた。
僕が自分からアスカに対してキスをしたり、抱き締めたりすれば、アスカが喜
ぶだろうという事は分かっていたが、僕の行動が偽りの愛からくるものである
事をアスカが知れば、アスカの受ける傷は計り知れるものではないだろう。
だが、アスカはもう待てなかった。自分から求めて、それに応じる僕に対して、
虚しさを覚えた。それは言わば、鏡の中の自分に向かって微笑みを浮かべるよ
うなものであった。
また、綾波の存在も大きかったのかもしれない。アスカは綾波を何とか普通の
女の子らしくさせようという僕に協力する事によって、自分と綾波とを区別し
ようと考えていたのだろうが、間近で綾波に接する僕が、自分に接する時の僕
と同じであることを感じ始めて、苦悩していたのだろう。
僕と分かり合えたはずのアスカは、それほど綾波とは大差がなかった。それは
アスカにとっては大きなショックであった。
僕にとって自分は何なのか?それはアスカにとって、重要な問題であったが、
アスカはそれから逃げてきていたのだ・・・・
問題は単純ではなかった。僕がここでアスカに何かをしたとしても、それはア
スカの求めに応じてした事になる。だから、僕はここでは何も出来ないのだ。
しかし、僕はそんなアスカに向かって、何と言って良いのかわからなかった。
僕がここで何を言っても、それは詭弁にしかすぎないだろうし、もう、八方塞
がりと言ってもよかった。
だから、僕はアスカにこう言った。
「・・・・後ろを向いて、続きをするから・・・・・」
それは長い沈黙の後の言葉だった。アスカはその沈黙の中に、僕の心の中の葛
藤を読み取ったであろうし、だから、僕が単純にそれを考える事から逃げたの
ではないという事が、理解されているであろうと思った。
そして、アスカは黙ったまま、再び僕に背を向けた。
僕は黙って手を動かした。アスカの栗色の髪を、何度も何度もブラッシングす
る。それは人の目からすれば必要以上に多すぎるように見えたかもしれなかっ
たが、僕はそんな事には気付かなかったし、アスカも何も言わなかった。
数分が過ぎた。
アスカも僕も、ずっと黙ったまま一言も口を利かない。しかし、その沈黙は、
アスカの手で破られる事となった。
「・・・シンジ?」
僕はアスカの小さな声に、ビクッとしてその手を止めた。そして、静かにアス
カに声をかける。
「・・・・何、アスカ・・・?」
「あのね・・・・」
「うん・・・・」
「・・・・ごめん・・・なさい。アタシ、余計な事言っちゃって・・・・」
アスカは何だかしおらしい。この数分の間に何を考えていたのだろうか?僕に
はわからなかったが、とにかく優しい声でアスカに聞き返した。
「・・・・余計な事って?」
「うん・・・・アタシ、シンジが苦しんでるって知ってるのに、無理矢理答え
を求めちゃったみたいで・・・・・」
「・・・・・」
「・・・それに、アタシがこう言えば、シンジはアタシに何もせずにはいられ
ないもんね。シンジって、そういうとこあるから・・・・」
「・・・・・」
「やっぱりアタシって、やな女よね。自分の事ばっかり考えてて・・・・」
「・・・そんな事ないよ。」
僕は自分を責めるアスカに対して、それを否定した。なぜなら、悪いのはアス
カでなく、僕なのだから。しかし、アスカにはそのことがわからず、僕の言葉
を更に否定した。
「ううん、アタシはやな女。自分でもわかるもの。」
「・・・そんな事言うなよ。アスカはそんなんじゃないよ。」
「どうしてシンジはそんなにアタシをかばうの?」
そう言った僕に、アスカは僕の方に向かって振り向くと自分の疑問をぶつけて
きた。そして、僕はそれに対して、頭で考えずにすんなりと言葉が出てきた。
「だってアスカは・・・・僕はアスカに惹かれ始めているって言うのに、それ
じゃあ僕が馬鹿みたいじゃないか・・・・・」
「シンジ・・・・」
「僕はまだ、アスカに恋をしてるとは言えないけど・・・きっと僕の初恋の相
手は、アスカになると思うよ。」
「・・・・・」
「だから、アスカもそんなに自分を責めないでよ。悪いのは、僕の方なんだか
ら。僕がもっとしっかりしていれば、アスカもそんな思いをしないで済むんだ
し、アスカが悪いんじゃないよ。」
「・・・・・」
「だから、アスカはもっと自分に自信を持って欲しいな・・・・・」
僕はそう言うと、アスカに微笑んだ。すると、アスカも微笑みを浮かべて僕に
言う。
「・・・なら・・・シンジも自分に自信を持って。そんなにいつも悲しそうな
顔してないで・・・・だって、アタシが好きになる男は、本当に最高の男なん
だから・・・・」
僕の意見が通るとすれば、アスカのこの意見も正しくなければならなかった。
僕はその事に気がつくと、アスカに向かって言う。
「うん・・・僕ももう少し、自分に自信を持つ事にするよ。」
「そうよ。アンタは・・・アタシにとって、一番素敵な男なんだから。」
「・・・アスカも・・・・僕にとっては一番だよ。」
「ほんとに?」
「うん。それは断言出来ると思う。」
「・・・・うれしい。」
「僕も、アスカの一番になれて、うれしく思うよ。」
僕がそう言うと、アスカも少し元気を取り戻して言う。
「当たり前じゃない。アタシの一番になるって、とっても凄い事なんだからね。」
「・・・わかってるよ、アスカ。」
僕が少し表情を和らげて、アスカの言葉を肯定すると、アスカは何かをねだる
ような上目遣いの目をして、僕に声をかける。
「なら・・・・」
「なら?」
「ううん、何でもない。気にしないで。」
しかし、アスカは自分の言葉を取りやめた。アスカはまた、僕に何かを求めよ
うとしたのに気付いて、自分の言葉を引っ込めたのだろう。僕はそれに気付く
と、そんなアスカがかわいく思えて、思わず顔を近づけると、おでこにキスを
した。
「あっ・・・・」
アスカはびっくりして声をあげる。僕はそんなアスカに対して、こう応える。
「今僕に出来るのは、このくらいだから。これがアスカに対する、僕の気持ち
だと思って。」
アスカは僕の言葉を聞くと、両手を自分の胸に当てて、その言葉をかみしめて
いた。例え僕のアスカに対する想いが、おでこへのキスくらいであろうとも、
アスカにとってはうれしかったに違いない。そして、アスカはおでこにキスを
してくれた僕に、こう言った。
「今のシンジの気持ち、大事に受け取ったから。そして、これがおでこから、
唇に変わるのをアタシは待ってる。ずっと待ってるからね。」
僕はアスカの言葉を受け止め、胸に仕舞い込んだ。今はおでこだけれど、いつ
かは唇になる日が来るのだろうか?僕はその日が来るのを待ち望んでいた。そ
う、僕が完全に全ての苦しみから救われる日を・・・・・
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