私立第三新東京中学校
第百十九話・普通の女の子
「シ〜ン〜ジぃ〜・・・」
アスカの声で、僕ははじめてアスカが戻ってきていた事に気付いた。
「ア、アスカ・・・」
「なにレイの肩を馴れ馴れしくぽんぽん叩いてるのよ?」
そう僕に言うアスカの顔は、怒っているようには感じられなかったが、それで
もアスカが少し不快に思っている事くらいは感じられた。僕も、つい綾波の事
がうれしくて、肩をぽんぽん叩いてしまっていたが、綾波はと言うと、どうや
ら僕がなんでこうしているのかがよく分かっていないで、不思議そうな顔をし
ている。
「あ、これは・・・その・・・・」
僕は別にうろたえるような事は何もしていなかったのだが、どうもアスカの前
に来ると、うまく弁解出来ないようだ。それに、今回のこれは、僕の口ではそ
う簡単には説明出来ないようなものだったので、それが一層僕の弱腰に拍車を
掛けた。
僕は自分で自分を情けなく思っていたのだが、アスカもそんな僕の事を理解し
てくれたのか、僕をむやみやたらといじめるような事はなく、こう言ってくれ
た。
「・・・・ま、いいわよ。どうせ大した事じゃなさそうだし、シンジからは何
も出来ないでしょ。詳しい話の方は、後でゆっくり聞かせてもらうから・・・」
僕は、アスカの言葉を聞いて、単純に今喜んでいいものかどうか迷ってしまっ
たが、取り敢えずアスカにお礼を言った。
「あ、ありがとう、アスカ。」
しかし、アスカは大して僕の事は意に介さず、手に持ったアスカの身だしなみ
道具一式を僕に差し出すと、話を先に進めた。
「ほら、貸してあげるからさっさとやんなさいよ。アタシはレイの後でいいか
ら・・・」
「う、うん・・・・ありがと。」
僕はそれ以外に言葉が出て来なかった。そして、ありがたくアスカからそれら
を受け取ると、綾波の方に向き直って、こう言った。
「綾波、じゃあ、やってあげるから後ろを向いて。」
しかし、綾波は僕の言葉が聞こえていないようで、自分の考えに入りこんでし
まっているかのように、その視線は下の方を見つめていた。僕はそんな綾波の
注意を僕に戻そうと、もう一度、今度は少し大きめの声で綾波に呼びかけた。
「綾波、聞いてる!?」
すると、綾波はビクッとして、僕の方を向いて答えた。
「ご、ごめんなさい、碇君・・・・私、碇君の話を聞いてなかったみたいで・・・」
僕にそう答える綾波の顔は、心なしか暗く感じた。僕は、それは綾波が僕の話
を聞いていなくて済まなく思っているというところから来ているものだと思っ
た。だから、僕はさして気にもとめずに、綾波にもう一度繰り返した。
「別に僕は気にしてないから・・・・アスカが道具を持ってきてくれたから、
後ろを向いてくれる?」
「う、うん・・・・」
綾波は小さな声で僕に返事をすると、ベッドの上に上がって、僕に背を向けた。
しかし、いざやろうとすると、何をしていいのかと思った。そんな訳で、僕は
綾波に尋ねる。
「綾波っていつもは髪の毛はどう手入れしてるの?それがわからないと、僕も
やりようがないから・・・・」
「・・・・・」
「綾波!?」
「・・・あ、ごめんなさい・・・私、いつもは特に何もしてないの。頭を洗っ
ても、バスタオルで拭くだけだから・・・・」
僕はこの辺で、綾波がなんだかぼんやりしている事が気になり始めた。しかし、
そのことについては何も触れなかった。それよりも、僕は気になった事がある
からだ。一つは、綾波が年頃の女の子なのに、髪の手入れをしていなくて、更
にそうなのに、綺麗な髪をしているという事への純粋な驚き。綾波が髪の手入
れなど知らなくてもおかしくはないのであるが、それにしても綾波の髪はさら
さらしていていつも綺麗だった。
もう一つは、綾波が昨日の夜、僕に櫛を求めたという事だ。綾波は櫛など使っ
ていないのに・・・・僕が昨日それに気付かなかったのは、うかつとしか言い
様がない。まあ、気付いたところでどうなる訳でもないのだが、それでも綾波
の事を良く考えていれば、自ずからわかるであろう事であった。
しかし、どれも僕が気にしても仕方のない事であったので、僕は現実問題とし
て、その道のエキスパートである、アスカにどうすればいいかを尋ねてみた。
「そう・・・アスカ、綾波はこう言ってるんだけど、どうしたらいいと思う?」
僕が振り返ってアスカに尋ねると、アスカは至って真面目に僕に教えてくれた。
「そうねえ・・・取り敢えず、軽くブラッシングして、後は何か軽く整髪料で
もつけて、ブローしたらいいんじゃない?」
アスカは軽々しく僕にそう言ったが、僕は自分の髪に整髪料などつけないし、
確かこの前アスカの髪をやった時も、そんな事はしなかったはずだ。僕はそう
思うと、アスカに告げた。
「そ、そんな事までするの・・・?」
するとアスカは、平然とした顔をして僕に答えた。
「別にアタシはしろなんて言ってないわよ。ただ、一般的にそれくらいはする
んじゃない?って思っただけ。シンジがめんど臭いんだったら、別にしなくて
もいいんじゃない?」
「め、面倒臭い訳じゃないけど・・・・」
「じゃあ、やったら?レイも髪の毛をいい匂いにさせるくらいの事はしておい
た方がいいのよ。」
アスカの言う事はもっともだった。これが普通の女の子のしている事だという
なら、綾波もそうした方がいいのだろう。アスカは僕にそれを言いたかったの
かもしれない。僕はその事に気がつくと、心の中でアスカに感謝をした。そし
て、口ではアスカにこう返事をする。
「うん、じゃあ、アスカの言う通りにするよ。」
そして、僕は再び綾波の背中に向き直ると、ブラシを手に取り、綾波の水色の
髪をくしけずり始めた。綾波は何を思っているのか、黙って僕にされるがまま
になっている。僕も床屋さんではなかったし、真剣にやらないと綾波に痛い思
いをさせてしまうかもしれなかったので、口を閉ざしたまま手を動かし続けた。
僕はこれまで、アスカの髪を触った以外は、女の子の髪を触る事なのなかった
ので、不思議な気持ちになっていた。アスカの髪は長くて細く、柔らかい髪だ
ったのだが、綾波の髪はそれに比べるとちょっと固めだった。それは僕と同じ
で短いからかもしれないが、それだけに僕の髪との微妙な違いを気付かせる事
となった。言葉ではうまく表現出来ないが、それは男と女の髪の毛の違いなん
だろうなと、僕は漠然とそう思った。
しばらくして、僕はブラシを下に置き、整髪料のスプレーの缶を手にした。そ
して、一言綾波に尋ねる。
「これを髪の毛につけるけど、いい?」
「・・・・え?う、うん・・・・碇君がそう思うなら・・・・」
綾波はまだ薄ぼんやりとしているようだ。それに返事もなんだか頼り無い。僕
はしてしまっていいのかとも思ったが、これが普通の女の子がする事なのだと
いう考えは僕の心に強く残っていたので、僕は実行する事にした。
プシュー・・・・
僕は綾波の髪全体に軽くスプレーを吹きかけると、今度はドライヤーを手に取
り、コンセントを差し込むと、もう片方の手に先程使ったブラシを取り、綾波
の髪の毛を慎重にブローし始めた。これは僕の頭にしている事ではないので、
綾波の髪の毛を焦がしてはならないと思って、本当に恐る恐るだった。
「綾波、熱くない?」
僕はドライヤーをかけながら綾波に尋ねる。すると綾波は、僕の言葉を聞いて
いないのか黙っていた。僕は綾波が熱ければ言うだろうと思って、無理に綾波
の口から答えを引き出すような真似はしなかった。
そして、短い時間のドライヤーかけも終え、僕はその出来を見てみた。僕はな
るべく自分の手を加えないようにと気を配ったので、綾波の髪型はいつもの形
を綺麗に保っていた。違う点といえば、ドライヤーをかけた事によって、整髪
料の匂いが強まり、それが綾波自身の髪の匂いと混じって、不思議ないい匂い
を発していた事だった。アスカもよくこんな匂いをさせていたが、これが女の
子の匂いとでも言うのだろう。僕は改めて、綾波も普通の女の子と変わらなく
なりつつある事を感じていたのだった。
「これでどうかな?」
僕は振り向いて、後ろで僕を監督していたアスカに尋ねた。するとアスカは、
にっこり微笑むと、僕に向かって答える。
「上出来よ。まあ、ショートカットだから、簡単なのは確かなんだけどね・・・」
アスカは手放しで僕を誉めた訳ではなかったが、アスカの言葉に毒がある訳で
もなかったので、僕はそれをいつものアスカらしさだと捉えた。そして、今度
は綾波に向かって出来を尋ねる。
「あ、綾波はどうかな?これでいいかな?」
僕は綾波が意外にも無関心な態度を示していたので、心配になって恐る恐るの
口調だった。しかし、やはり綾波は心ここにあらずと言った感じで、ゆっくり
と振り向くと、僕に返事をした。
「・・・ありがとう、碇君。私、これから朝ご飯を作ってくるから。」
綾波はそう言うと、ベッドから下りて立ち上がる。僕は慌ててそんな綾波を止
めた。
「い、いいって、綾波。朝ご飯なら僕が作るから。まだ時間もあるし、綾波は
のんびりしていてよ。ね。」
僕はやさしく綾波を諭すようにそう言ったのだったが、綾波は僕の言葉に耳を
貸そうとはしなかった。
「いいの。私がするから。碇君の方こそゆっくりとしていて。」
綾波はそう言うと、そのまますっと部屋を出ていってしまった。僕は思わずア
スカと顔を見合わせて言う。
「綾波、どうしちゃったんだろう?」
「さあ・・・・あの娘もよく分かんないとこがあるからね。」
「でも・・・・」
僕が心配そうな顔をして、後を追いかけようかどうしようか考えていると、そ
んな僕に向かってアスカがこう言った。
「そんなに心配する必要もないんじゃない?」
「そう?」
「そうよ。あの娘もおかしなところはあるけど、普通の女の子なのよ。だから、
それ以上の過剰な心配をするのは、あの娘のためにもよくない事だわ。」
「・・・それもそうだね。」
僕は口ではアスカにそう返事をしたが、心の中では綾波をのことを気にしてい
た。
アスカの言う事はわかる。確かに正論だ。しかし、今の綾波の心の動きを、普
通の女の事とおんなじに考えてもよいものなのだろうか?アスカの意見はまさ
しく同じに思わなければいけないという事なのだが、どうしても僕にはそれが
出来なかった。アスカも綾波の事を強く考えていてくれるようだが、僕が綾波
の秘密を知っているという点で、アスカとは大きく違っていた。
綾波の秘密を、アスカに話すべきなんだろうか?そして、僕の重荷をアスカと
分かち合ってもらうべきなんだろうか?
僕のそうしたいという力は大きな物であった。しかし、綾波の秘密は、いくら
アスカにと言えども軽々しく口に出来るものではない。これは、僕の心の中で
一生仕舞い込んでおかなければならないのだ。そうしないと、綾波は人の好奇
の目にさらされる事になる。そんな事をさせてはならない。綾波は僕の手で立
派な普通の女の子にしていくのだ。
僕はそう思うと、唇を堅く閉じた。そして、ぎゅっと拳を握り締めると、結論
を出した。綾波の事はアスカの言う通りにしよう。僕にはそれが正しい道のよ
うに思えたからだ。確かに綾波が心配と言えば心配だったが、綾波も自分の問
題を自分で解決する事を覚えなければならない。
そして、僕はアスカの顔に視線を戻すと、やさしくこう言った。
「・・・じゃあ、次はアスカの番だね。」
アスカは僕の心の中の葛藤を知っていたが、黙って一度だけ微笑むと、こう言
った。
「やさしくしてよね。アタシは繊細なんだから・・・・」
そして、アスカはベッドの上に登ると、さっきの綾波と同じように、僕に背中
を向けたのだった・・・・
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