私立第三新東京中学校

第百十七話・父さんとアスカと


僕は自分の部屋に戻った。
ベッドに仰向けになって、天井を見上げる。僕がこの天井を見始めてから、そ
れほど経っていないにもかかわらず、その光景は既に僕にとって親しいものと
なっていた。この部屋に入ってきた当初は違和感も感じたが、今ではそのよう
なものを微塵も感じさせない。
僕は恐かった。この心地よい環境から出て、また新しい天井の下で眠らなけれ
ばならない事が。僕にとっては、アスカも綾波もミサトさんもペンペンも、み
んなが家族だった。そして、僕はそれが揺るぎ無いものだと思っていた。
でも、加持さんの指摘は正しかった。僕は父さんと家庭を築くのを諦め、その
かわりにここに自分の居場所を求めた。そして、それは逃げであった。
アスカがここにいるのはどうしてだろう?アスカはドイツにお父さんもいるし、
義理ではあるがやさしそうなお母さんもいる。しかし、ドイツに帰ろうとはし
ない。その理由は一つだ。両親よりも大切なものをここで見出したからだ。そ
れは僕とは違い、逃げではなく、むしろ前進だと思う。
綾波は家族がいない。だから、独りで暮らすよりもここに来て共同生活をはじ
めるという事は、綾波の成長を意味しており、自分だけの閉鎖された社会から、
他人と交わる社会への進出を意味している。これも、僕とは反対のことであっ
て、逃げではないと思う。
アスカと綾波は逃げではないからここにいるべきだ。では、僕はどうなのだろ
う?積極的に父さんにアプローチするべきなのだろうか?そして、その結果は
どうあれ、ここを出て行かなければならないのであろうか?
でも、アスカと綾波がここにいる目的というのは、僕の事がからんでいるのは
間違いない。僕がいなくなったら、二人はどうなるのだろう?僕は・・・

その時、僕の部屋のドアが開いた。僕は上体を起こして、入ってきた主を見る。
それはアスカだった。

「シンジ、来たわよ。」
「え・・・?」
「え?じゃないわよ。後でシンジの部屋に来るって言ったじゃない。」
「そうだったっけ・・・・?」
「忘れたの!?全く今日のシンジは何だかぼけぼけしちゃってさぁ・・・・」
「ご、ごめん・・・・」
「ま、いいわよ。それより、隣に座っていい?」
「う、うん。」

いつものアスカらしくなく、僕に許可を求めてからベッドに腰を下ろした。僕
も体勢を変えて、アスカの隣に座った。

「・・・・・」
「アスカ・・・?」
「何、シンジ?」
「僕の話・・・・聞いてくれる?」
「いいわよ。アタシもシンジの話を聞いてあげようと思って、ここに来たんだ
し・・・・」
「そうだったの?」
「まあ、それだけじゃないけどね。ともかく先にシンジが話して。アタシの話
は後でいいから。」
「う、うん・・・・」

こうして、僕はアスカに僕が悩んでいた問題を話そうとした。

「・・・・僕・・・・この家を出て行こうかと思うんだ・・・・」
「な、何ですって!?それ、どういうことよ!?シンジの悩んでる事って、レ
イの事じゃないの!?」

アスカは大きな声で叫んだ。まあ、当然の事だろう。僕だって加持さんに言わ
れるまでは、ここを出ようなんて露程も考えていなかったのだから。

「・・・僕がここにいるのは、良くない事なんじゃないかと思って・・・・」
「どうしてよ!?もっと詳しく説明なさいよ!!」
「僕がここにいるのは、父さんからの逃げだし、それに、アスカと綾波の間に
いらぬ対立が起こる・・・・」
「アタシ、だから、レイとはうまくやろうと頑張ってるじゃないの!!」
「わかってるよ。アスカが頑張ってくれてるって事くらい。僕もうれしかった。
でも、アスカが辛いじゃないか。僕はそんなアスカを見てるのが辛くって・・・・」
「・・・・・」
「僕は、僕のために無理して苦しんでいるアスカを見るくらいなら、僕が出て
いった方がいいと思って・・・・」
「シンジはアタシのために・・・・」
「うん。それもあるし、なにより父さんから逃げちゃ駄目だと思うんだ。僕は
父さんと決着をつけて、父さんと家族になってここから出て行くのか、それと
もここに残るのかを決めなければならない。」
「・・・・・」
「そして、僕が決着をつけないうちも、ここにいるのはまずいと思うんだ。」
「・・・・・」
「アスカはどう思う?僕に何か教えて欲しい。僕には助言が必要なんだ。」

僕はそう、アスカに求めた。アスカは深く考えるような表情をしていたが、し
ばらくして、ようやく僕の言った事が飲み込めてきたのか、顔を上げると、僕
に言った。

「・・・・アタシは・・・シンジに出ていって欲しくない・・・・」
「・・・それはわかってるよ。でも、やっぱり僕たちは家族にはなりきれない
んだ。そういうもの同士が、一緒に住むって言う事は、やっぱり問題が生じる
んだよ・・・・」
「どんな?問題なんてないじゃない。」

アスカが僕に尋ねる。僕は自分がこれからいう事に顔を赤らめると、小さな声
でアスカに言った。

「・・・・・ほら・・・この前の僕とアスカみたいに・・・・」
「この前?」
「う、うん。またいつ、ああいう事が起きかねないだろ?」
「・・・・いいじゃない。アタシはいいって言ってるんだから。」
「でも、そんな無責任な事は出来ないよ。だから・・・・」
「だから?」
「だから、僕は完全に父さんを捨てて、アスカと一緒になるって決めてからで
ないと・・・・」
「・・・・それってもしかして・・・・」
「・・・・け、結婚する相手とでないと、やっぱりそういう事は・・・・」
「・・・アタシと・・・・結婚?」
「・・・・う、うん。だから、そう決めるまでは、そういう事はしたくないん
だ。」
「・・・・シンジ・・・・・」
「だから・・・・僕が決めるまで待っていて欲しい。」

僕がそう言うと、アスカは感動に打ち震えていた。そして、何かを思い付いた
ように僕にひとこと言った。

「シンジが選ぶのは・・・・お父さんとアタシとをでしょ?っていうことは・・・
もう、アタシと結婚してもいいって言う事なんじゃないの?」

僕はアスカの言葉を聞くと、はっとした。そして、アスカは更に続ける。

「だから、シンジが結婚したいのはアタシ。つまり、もうそういう事はしても
いいって事じゃない。シンジも、無理に我慢しなくていいんじゃないの?」
「い、いや、その・・・・今のところはそうだけど、僕が結婚出来る年になっ
たら、まだアスカと結婚したいのかどうかもわからないし・・・・」
「でも、アタシ以上の女が現れると思う?」
「それは・・・・」
「アタシ以上にかわいくて、アタシ以上にシンジの事を愛してる女なんて、世
界中どこを捜しても、絶対に見つからないわよ。」
「た、確かにそうかもしれないけど・・・・」

僕は困ってしまった。僕の言い方がまずかったのだし、仕方ないのかもしれな
いが、とにかく僕にはアスカがどういう方向に持って行こうとしているのかが、
手に取るように分かったので、尻込みしていたのだ。
しかし、アスカはそんな僕を見ると、軽く笑って僕に言った。

「ふふっ、安心して。だからっていきなりシンジを取って食ったりはしないわ
よ。」
「え!?」
「つまり、してもいいからって、シンジをここで襲ったりはしないって事。だ
から、そんなに身構えないでよね。アタシはシンジと話がしたいだけなんだか
ら・・・」
「アスカ・・・・」
「シンジがアタシの事で結婚なんて口にしてくれて、ほんとにうれしかった。
それに、シンジが無責任な事はしたくないって言う気持ちも・・・・」
「・・・・」
「それだけ、アタシの事を大事に考えていてくれてるのよね。」
「・・・う、うん・・・・」
「アタシはそれだけで十分。シンジを無理矢理襲うより、その言葉の方がずっ
とアタシを幸せにしてくれるから・・・・・」
「・・・・・」
「だから、アタシは大丈夫。シンジも安心してここにいて。」
「で、でも・・・・アスカはいいとしても、綾波が・・・・」
「だ・か・ら、レイの事はアタシが適度に調整するわ。今日みたいにね。」

アスカは心配を拭い去りきれない僕に向かって、軽くウインクするとそう言っ
た。しかし、それでも僕はまだ安心出来ずにアスカに言う。

「でも、それだとアスカが・・・・」
「アタシがしおれたレタスみたいになっちゃうって言うんでしょ?そうしたら、
シンジがアタシに優しい目を向けてくれればいいし、アタシはシンジの今の言
葉を糧にして生きて行けるから。それに・・・・」
「それに?」
「それに、どうしても駄目になったら、その時はシンジがアタシに元気を少し、
分けてくれればいいから・・・・」
「元気?」
「ほら、こういう風にして・・・・」

アスカはそう言うと、僕にすっと顔を近づけて、唇と唇を合わせた。そして、
アスカはそのまま僕の身体に両腕を回す。僕は、ただじっとしてアスカのキス
を受けていた。
しばらくして、アスカはキスを終え、僕の身体を放した。そして、頬を赤く染
めながら、僕に向かって言った。

「・・・これでまた、しばらくは大丈夫だから。だから・・・時々こうしてシ
ンジの部屋に、キスしにきてもいい?」
「う、うん・・・・」
「それとも、シンジがアタシにキスしに来てくれる?アタシとしては、アタシ
からするより、シンジからしてくれた方が、シンジの愛をより感じられるんだ
けど・・・・」
「う、うん・・・・」
「じゃあ・・・明日はシンジが来て。アタシ、部屋でシンジが来るのを待って
るから。」
「うん。わかった。」

僕がそう答えると、アスカは僕の返事に頼りなさを感じたのか、人差し指を僕
の鼻先に突き付けて、明るく釘をさした。

「絶対に忘れるんじゃないわよ!!忘れたら、冗談抜きでシンジを襲いに行く
からねっ!!」
「わ、わかってるって。そんなに僕って頼りにならないかな・・・?」
「信頼して欲しいんだったら、もっとしっかりした口調で言いなさいよ。それ
じゃあまるで、アタシが無理矢理言わせてるみたいじゃないの。」
「う、うん。」
「じゃあ、わかったなら今ここで言ってみて。」
「な、何て?」
「そうねえ・・・・明日は僕が、アスカの唇を奪いにいくから!!ってのはど
う?」
「そ、そんな事言うの?何だか恥ずかしいなあ・・・・」
「言わなきゃ今ここでアンタを襲うわよ。」
「わ、わかったよ。全くアスカはおっかないなあ・・・・」
「じゃあ、早く言って。」

アスカはそう言って、にこにこしながら僕の言葉を待った。僕がおっかないと
いったのを責める事よりも、その言葉を早く僕の口から聞きたいのだろうか、
アスカはおとなしくしていた。僕は冗談抜きでそんな事を言うのは恥ずかしか
ったのだが、観念してアスカの言う通りにする事にした。

「・・・明日は、僕がアスカの唇を奪いに行くから。」

アスカの目を見て真剣に言った僕の言葉を聞くと、アスカはにっこり笑ってか
ら、大きな声で言った。

「明日までなんて待てないわっ!!今すぐアタシの方から奪っちゃうから!!」

そしてアスカは僕に飛びついてキス。僕は完全に意表を突かれてしまった。ア
スカは僕を逃がさないように強く抱き締めると、熱烈なキスをした。さっきの
キスとは違って、アスカのほとばしる僕への想いが、僕にぶつけられたような
気がした。僕はそんなアスカの気持ちに触れると、ゆっくりとアスカの背中に
自分の腕を回す。それに気付いたアスカは、一瞬びっくりした様子を見せたが、
すぐに両目を閉じて、力を抜いてきた。こうして、アスカは僕に身体を預けた。

長いキスを終え、僕とアスカは身体を離した。何だかお互いに気恥ずかしく、
互いの顔も見ることが出来ずに、顔を真っ赤に染めている。そして、少しして
アスカが
僕に小さな声で言った。

「・・・・シンジ?」
「・・・何、アスカ・・・?」
「・・・・ありがと。」
「・・・・・うん。」
「明日・・・待ってるから。じゃあ、おやすみっ!!」

アスカはそう言うと、僕と目も合わせずに、そのまま一気に僕の部屋を出てい
った。僕は部屋に一人取り残されたが、寂しい気持ちはしなかった。そして僕
は真っ赤な顔をしたまま布団の中に入った。僕は頭から布団をかぶると、暗闇
の中で目を閉じた。眠りはなかなか訪れなかったが、僕はいつのまにか、眠っ
てしまっていた。そして、今日一日は、終わりを迎えたのであった・・・・


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