私立第三新東京中学校

第百十六話・途切れた心

ポタン・・・・

まだ濡れた髪の毛から滴がこぼれ、水面に波紋を広げた。
ここは静かなお風呂場。僕は一人だ。他には誰もいない。僕は湯船の中で足を
伸ばすと、疲れが抜けていくような気がした。

アスカと綾波は僕にお風呂に入らせて、後片付けをしてくれている。どうやら
最後まで僕には何もさせるつもりはないようだ。確かに僕には悩みもあるし、
景気のいい顔をしていなかった事は認めるが、何も人を病人扱いしなくてもよ
いではないか。僕は今更ながらにそう思ったが、それはもう過ぎたことであっ
た。それよりも、僕には考えなければ山ほどある。過ぎたことをいつまでも悩
んでいるほど余裕はないのだ・・・・

綾波については何も問題はないだろう。確かにまだ子供っぽいところは大いに
あるが、それも時間の問題であると思う。きっと今までずっと一人で生きてき
て、人と付き合いをした事がなかったから、綾波の対人関係に関する能力とい
うのは幼いものであったのだろう。しかし、ここでミサトさんやアスカと暮ら
していけば何も問題はないはずだ。
しかし、アスカは・・・・やっぱり無理をしていると言わざるをえない。僕の
ために綾波にやさしく接してくれているけど、どう見ても辛そうだ。やっぱり
僕と綾波が仲よさそうにしているのを見れば・・・・これは綾波に関しても同
じだが、綾波はアスカと違って遠慮などしないので、そういう意味では綾波は
楽だろう。しかし、やはりアスカにも限界はある。いつかきっと爆発してしま
うに違いない。
やっぱり血のつながっていない他人同士が家族のように仲良く暮らしていくと
いう事は、無理があるのだろうか？僕は加持さんに言われるまで、そのことに
は思い至らなかった。しかし、言われなくともいつか破綻を来たしてそれに気
付く日は来たであろう。そういう意味では、早く加持さんに言ってもらったと
いう事は喜ぶべき事なのかもしれない。
しかし、僕の心はそう思ってみても、明るくはならなかった。ようやく明るい
家庭で暮らしていけたのに、そこから離れなくてはいけないなんて・・・・

僕は少し考えを白紙に戻そうとして、ざぶんと頭から湯船にもぐった。そして、
数十秒間、息を止めてもぐり続ける。やや苦しくなりはじめてきた時、僕は水
面から顔を出した。濡れた髪の毛が額に張り付く。しかし、僕はそれを気にせ
ずにそのまま立ち上がり、お風呂場から出た。考える時間は終わったのだ・・・

お風呂場から出たところにおいてあるバスタオルを手に取ると、頭と身体をよ
く拭いた。そして、あらかじめ用意しておいた下着と楽な服を身につける。ま
だ湯気を出しているような体に、すぐに服を着るのはあまり気持ちのよい事で
はなかったが、僕は今までずっとそうしてきた。それは、僕が他人と暮らし続
けていた事を示しているのかもしれない。同居人がみんな女性だからとか、そ
ういう事だけではないと思う。
僕は一人でいるのは嫌だと思っていても、やはりいつまで経っても一人でしか
ないのだろうか？僕はここに来て、一人じゃないと思ってきていた。しかし、
それは僕のそうありたいという願望であり、真実はそうではなかったのだろう。
真実は・・・やはり僕はずっと一人ぼっちだったのだ・・・・

「お風呂、長かったじゃない！！シンジにしては珍しいわね！！」

僕がみんなの前に顔を現すと、アスカが元気よく僕に話し掛けてきた。

「まあ・・・ね。ちょっとゆっくりしたい気分だったから・・・・」
「そう・・・ま、そういう事もたまにはあるわよね。アタシも時々あるから。」
「うん・・・・」

僕はアスカに元気の無い返事をしながら、周りを見まわした。綾波は洗い物を
終えて布巾でお皿を拭いていたのだが、ミサトさんと加持さんの姿が見当たら
なかった。

「・・・ミサトさんと加持さんは？」

僕がそう尋ねると、アスカはテーブルに置いてあった湯飲みを手に取ると、僕
にそれを手渡しながら答えた。

「加持さんはミサトにビールを何とかやめさせて、部屋に連れていったわよ。
全くあの酔っぱらい女は・・・・」
「ありがと。でも、よくあのミサトさんを止められたね。結構飲んでたように
思うけど・・・・」
「やっぱりミサトにとって、アタシ達と加持さんとじゃ違うのよ。あの二人は
相思相愛だから・・・・」
「・・・そうかもしれないね。」

僕はそう言うと、アスカに渡されたお茶をすすった。お風呂上がりには冷たい
ものの方がよかったが、お茶もなかなかおいしかった。

「綾波もご苦労様。そろそろ終わりそう？まだなら手伝うけど・・・」

僕が一人で仕事をしている綾波に声を掛けると、綾波はお皿を手に持ったまま
僕の方に振り向いて、返事をした。

「ありがとう、碇君。でも、もうすぐ終わるから、碇君は座って待ってて。」
「うん。じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらうよ。綾波も終わったら、こ
っちにおいで。」
「うん。」

綾波はそう返事をすると、またお皿拭きに戻った。そして、僕は湯飲みを手に
持ったままちょっと移動して、ソファーに腰掛けた。アスカの僕の後に付いて
来て、隣に腰を下ろす。僕とアスカは、短い間ではあるけれど、久しぶりに二
人きりになった。

「・・・アスカ？」
「何、シンジ？」
「お風呂、空いたから入ってくれば？いいお湯だったよ。」

僕がそう言うと、アスカはむっとした顔をして言った。

「バカ！！どうしてそういう事言うのよ。せっかくちょっとだけシンジと二人
になれたのに・・・・」
「ご、ごめん。」

僕がすぐに謝ると、アスカも元の穏やかな顔に戻って僕にこう言った。

「レイが来るまで、ちょっと話でもしましょ。」
「うん・・・・」
「・・・・」
「アスカ？」
「なに、シンジ・・・？」
「疲れて・・・・ない？」
「疲れてなんかないわよ。アタシ、疲れて見える？」
「いや、見えないけど・・・・でも・・・・」
「でも、何なのよ？」
「うん、アスカが綾波のために我慢してくれてるのはわかるけど、辛いんじゃ
ないかと思って・・・・・」

僕がアスカの方は向かずに、座った正面に視線を合わせながらそう言うと、ア
スカは静かに答えた。

「・・・・辛いわよ・・・・・・」
「・・・・・ごめん。」
「いいのよ。シンジも頑張ってるんだし、アタシもこのくらい我慢しなくちゃ。」
「でも・・・・」
「いいんだってば。アタシは何とか平気だから。」
「そう？」
「そうよ。まあ、シンジがアタシの事を心配してくれるのは、とってもうれし
いんだけど・・・・」
「・・・・・」
「それに、アタシはアタシで後でうまくやるから！！」
「え、どういう事？」
「それは後でのお楽しみっ！！」
「な、なんなんだよ？気になるなあ・・・・」
「夜、レイが寝るのはミサトの部屋でしょ？だから・・・・」
「だから？」
「だから、後でシンジの部屋に行くわね。その時にゆっくりと教えてあげる。」

アスカは、含むところは大いにあるといったような顔をして僕にそう言った。
僕はそんなアスカを見て、大体の察しはついたが、敢えて何も言わなかった。
アスカの考えはともかく、僕もアスカに二人きりで話しておきたい事があった
からだ。
そんな事を話しているうちに、綾波が僕たちのところにやってきた。

「ご苦労様、綾波。」

僕がそう言うと、綾波は僕ににっこりと笑って答えた。

「碇君にそう言ってもらえるなら、私は頑張れるような気がするから。」
「そう？でも、二人ともこういうのは今日だけで十分だからね。僕はやっぱり
人が働いてるのを見ると、じっとしていられない性分だから。」

すると、アスカが僕に言ってきた。

「シンジはずっと前から家事をやってきたからね。ほとんど感覚が主婦なんじ
ゃないの？」
「・・・・反論出来ないところが悲しい・・・・」
「でも、碇君がやってるから、私もやるようになったんだから・・・・」

綾波がそう言う。それを聞いたアスカも、ふざけたところを改めて、しんみり
したような口調で言った。

「そうよね・・・・アタシもシンジがいなかったら、絶対料理なんてしなかっ
ただろうし・・・・」
「・・・・・」

二人とも、何だか黙ってしまった。僕は何だか嫌な雰囲気だと感じたので、話
題を変えようとして二人に言った。

「テ、テレビでも見よっか！？こうしていてもつまらないだろ？」
「いいわよ、テレビなんてうるさいだけだし・・・・」
「・・・・」

僕としては、アスカが怒ってくれた方がよかったのだが、アスカは僕に怒って
すらくれなかった。僕が困り果てていると、後ろから声が聞こえた。

「何だか困ってるみたいだな、シンジ君。」

それは加持さんだった。僕は振り向くと加持さんに尋ねた。

「加持さん！！ミサトさん、どうしましたか？」
「ようやく眠ってくれたよ。まあ、夜中にでもなったらごそごそ起き出すかも
知れないが、もうビールも飲まないだろうし、はっきり言ってほっとしてるよ。」
「加持さんも大変でしたね。ミサトさんの酒癖のせいで・・・・」
「まあな。あれさえなければ、あいつも最高の女なんだが・・・・」
「最高じゃないんですか？」
「最高の女なんて、存在しないさ。まあ、俺にとって最高に一番近いのが、葛
城なんだがね。」

僕はそれを聞くと、うつむいて黙ってしまった。そうはっきりと言える、そん
な加持さんに自分が恥ずかしかったからだ。すると、加持さんはちょっとおど
けた声を出して、僕たち三人に言った。

「おいおい、せっかく俺が来たのに、三人とも黙っちゃうのか？」
「あ、ごめんなさい加持さん。」
「いや、シンジ君はいいとしても、いつも元気なアスカちゃんまでだんまりな
んて、どうしたんだい？」

加持さんはそう言って、アスカに話をさせようとした。すると、アスカは加持
さんに答えるでもなく、静かに口を開いた。

「・・・・アタシって、シンジがいなかったらどうなるのかって思って・・・・」
「・・・・そんなにシンジ君の事が好きなのかい？」
「うん・・・・」
「なら、そんな事は考えない事だな。考えれば考えるほど、胃によくない。」
「でも・・・・」
「好きなら好き、それでいいじゃないか。そもそも頭で考えるような事じゃな
いよ。」
「・・・・・そうよね。」
「そうさ。」
「・・・・加持さん、ありがとう。シンジも・・・・明るく元気なアタシの方
が好きよね？」
「う、うん。」

僕が慌ててそう答えると、アスカはちょっと元気になってこう言った。

「何だか馬鹿馬鹿しかったわね。アタシ、お風呂に入ってくるから。そして、
心も身体もさっぱりさせてくるから。だからちょっと待っててね！！」

アスカはそう言うと、立ち上がってそそくさと部屋を出ていった。
それを呆然として見送っていた僕は、アスカの姿が見えなくなると、加持さん
にひとこと言った。

「どうしたんだろう、アスカ・・・？」
「シンジ君がしっかりしてないと、みんなに不安がつのるんだよ。」
「え？」
「まあ、君も辛いかもしれないが、あまり悩まない事だ。みんな心配するから
な。」
「・・・・そうかもしれませんね。」
「俺はちょっと、余計な事をさっき言ってしまったかな？それで悩んでいるん
だろ？」
「それもあります。でも、それだけじゃないと思います。」
「そうか・・・・」

そして、会話はそこで途切れた。それより先を、綾波が側にいるところでは口
にすることは出来なかった。

沈黙の時が流れた。すると、しばらくして、綾波が急に立ち上がって言う。

「私、新しいお茶を入れてくるから。」
「あ、ありがとう・・・・」
「・・・・私には、これくらいしか出来ないから・・・・・」
「あ、綾波？」
「私には、碇君のために何かをする事しか出来ないから。だから私はお茶を入
れるの・・・・」

綾波はそう言うと、台所の方に行って、お湯を沸かし始めた。
僕にはわからなかった。
アスカも、綾波も。
僕は二人がどんな気持ちでいて、何を考えているのかよくわからなかった。僕
はちょっと自分の事ばかりを思い悩んでいたのかもしれない。そのせいで、周
りが見えなくなっていたのだろう。僕は反省すると共に、まだ、自分の事で思
い悩むのを止められずにいた。
他人の心は知ることは出来ない。いくら少しは察する事が出来たとしても、そ
れは推測でしかない。だから、僕は二人が何を考え、何を悩んでいるのか、本
当の事はわからなかった。でも、以前はもう少しわかったような気がした。だ
が今は、心の線がぷつりと切れてしまったような気がする。加持さんに言われ
た事によって、僕は自ら二人との絆を断ち切ってしまったのだろうか？そう思
うと、何だか寂しさを感じた。こうして僕も、また完全に一人ぼっちになって
しまったのかもしれなかった・・・・・